突然の来訪者
(1)
第三王子の賓客である南の魔女の部屋の扉を慌てて締めながらサマヤが追ったのは、何故だか勝手に廊下をうろついている客人の一人の姿であった。
「従者殿! 勝手に王宮をうろつかないでください!」
「いやあすみません。花摘みに行きたくて……」
サマヤより上背のある糸目の男はへらりと笑う。柔和なその笑顔はいかにも人畜無害そうだが、サマヤは慌てて皿を持っていない方の手で従者の背を押した。
「トイレの場所は貴方がたをお通しした部屋の近くです。ご案内しますっ」
「すみません、どうにも生まれつき方向音痴で……」
へらへらと笑う男の背を押しながらサマヤは嘘つけ、と内心で独白する。てのひらに感じる従者の背は硬く、衣服越しであっても戦慣れしているもののそれだった。今朝がた突如として現れた客人は二人きり。つまりこの一見細身に見える従者はたった一人で主人を守ってここまでやってきたことになる。
こりゃあ食えない奴だぞと思いながらも表面上はにこやかに笑いながら、サマヤは従者を階下に誘導する。そのとき従者がサマヤの片方の手にある空の食器に目をやってさらりと口を開いた。
「おや、私共のほかにお客人でも?」
「いやあ、これはアレクサンドル殿下の朝食ですよ。アレク様、最近お食事もお部屋でとるほどにお忙しくって」
「はあ、さすが我が国でも名高いアレクサンドル殿下」
サマヤは淀みなく答えたが、内心では冷や汗をかいていた。現在、南の魔女ルサリィをこの王城に招いていることは何よりも伏せておかなければならない事実だった。それは彼女が四方の魔女だからという理由だからではない。この魔女のことをサマヤの主たる第三王子アレクサンドルが口説き落とそうとしている最中だからであった。
第三王子アレクサンドルが他国の姫君と婚姻を結ぶことを望むものは多い。軍事国家ランバルトとの戦が締結して一年足らず、大国との交戦は失うものが多く、すべてにおいて疲弊しきっていた。前線に立っていた第一王子は討たれ、第二王子は以前より病に伏せている。王は戦の疲労からか体調が思わしくなく、現状、実質国を動かしているのは第三王子アレクサンドルであった。
クレフォルンは南の大陸随一の大国である。蟲の住む大森林をのぞむ南側に位置する王国で、中央大陸から攻め入るには海と、そして南の大陸の3分の2を占める大森林を越えなければならなかった。クレフォルンが天然の要塞と呼ばれている所以はここにある。
それゆえクレフォルンはこれまでほとんど他国に攻め入られることもなく、豊かに栄えることが出来たのである。しかしその均衡は中央大陸にある海を挟んでの隣国、軍事国家ランバルトによって打ち砕かれた。ランバルト王国は次々と周辺国家を打ち滅ぼし、そうしてついにクレフォルンへと手を伸ばしてきたのである。大森林へは手を出さず、巨大な軍艦をもって海から急襲をかけてきた。クレフォルンは全軍を持ってこれを撃退したものの、失ったものはあまりに大きかった。そうして、その分だけ第三王子にかかる期待は巨大なものであった。
世継ぎの王子の婚姻は他国とのつながりを得る単純にして有効な手である。だから病の床にある王も、宰相も、アレクサンドルの他国の姫との婚姻を強く望んでいた。クレフォルンに一つでも強固なつながりのある同盟国が出来れば、それだけ王国の安全は保たれる。
王子とてそのことを理解していないわけではないだろうとサマヤは思う。サマヤの目から見てもアレクサンドル王子は聡明で公平で理知的な人柄であった。初めてアレクサンドル王子を目にしたときはその造作の美しさに肝を抜かれ、そして紡がれる聡明な言葉の数々や政策には目を瞠ったものである。
その王子が、誰よりも身を粉にして国の為に働いている王子が望んだたったひとつのことが、南の魔女を手元に呼び寄せることだった。
はじめてそれを聞かされた時、サマヤはもちろんバアトンも、そして頭の中身が岩石よりも固いヴィンセントも声を出すことが出来なかった。アレクサンドルへの忠誠が誰よりも高いと見込んでの3人の抜擢であったようだが、それでもだ。よりにもよって南の魔女。四方の魔女の一人とは。
南の魔女は蟲愛でる姫君とも呼ばれている。大森林の主たる蟲を何よりも大切にしていると古よりの言い伝えが語っていた。かつて蟲が死ぬか人が死ぬかの二択の状況に陥った時には迷わず蟲の命をとったという魔女。それは怖れと嫌悪をもってこの国で語り継がれている。
サマヤは騎士となってまだ3年ばかりである。だから王城の内政のことにはまだまだ疎い。だからアレクサンドル王子がかつて蟲の病を患い、闘病していたことも知らなかった。いや、王により周到に隠されていたのだ。美しい第三王子の醜い過去として。そしてその過去の中には南の魔女の存在も含まれていた。南の魔女は数年にもわたるその献身的な看護で、幼かったアレクサンドル王子の病をたった一人で治したという。しかしその事実は伏せられ、南の魔女は今もなお国の人々からは恐れられ厭われている。
それを語るアレクサンドル王子の口調にはわずかにくらいものがにじみ出ていた。いつもは他者に不安を抱かせないように感情を制御しながら朗々と語る人であるのに。
「アレク様、是非協力させてください!」
サマヤはその声音を聞いていちもにもなく首肯した。バアトンも同じようなものだった。それぞれがアレクサンドル王子には恩義があり、それ以上をの忠誠を誓っている。だからこそ堅物として名高いヴィンセントも、魔女と聞いて眉をひそめたものの、王子の頼みを断れるはずもなく黙って頭を垂れたのだ。
そうして銀騎士ヴィンセントが連れてきた南の魔女を見て、サマヤは正直驚いた。どんな老婆であっても角が生えていても王子を応援するぞと意気込んでいたサマヤにとって、むしろアレクサンドル王子より若く見える普通の少女の姿の魔女はあまりに意外だったのだ。しかし持ち前の笑顔にそれは出すことはなく、王子の自室に送り込んだ後バアトンとひそひそと驚きを共有したのであった。
サマヤが見る限り、王子は早急に事を起こすのは止めたようで、ゆっくりと魔女との距離を詰めているようであった。ルサリィは古の物語にあるように邪悪でもなく高慢ちきでもない、ほっそりとした、サマヤより年下の普通の少女に見えた。いや、珍しい新緑の色の長い髪や控えめに整った顔立ちは美しいと言っても良いものであったが、何故だか妙に美しいという印象が薄いのだ。それは魔女の自信なさげな、いかにも所在なさげな態度によるものかもしれなかった。
王子と魔女との間にどんな会話が交わされているのかはもちろん知る由もなかったが、王子は慎重かつ丁寧に魔女を口説いているようであった。その美貌を持っていればどんな淑女でもころりと落ちてしまいそうであるのに、どうやらその顔の力は魔女相手にはそうは発揮されていないらしく、花やら菓子やらを用意させては健気に魔女に贈っている様は、王子より2つも年下であるサマヤでさえ微笑ましくも感じていた。もちろんそんなことは不遜であるので、ヴィンセントの前では絶対に口に出せなかったが。
のに、だ。
サマヤは客人の従者の背を押しながらひそやかに息を吐く。まったく、なんという時にこの客人らは現れたのだろうと苦々しく思いながら。あと3日、いや、2日もあれば王子の勝利は確定していただろう。既成事実だって作れたかもしれない。それなのに。
辿り着いた先でノックを鳴らし、返事があった瞬間に従者を押し込みながら部屋の主を見れば、その少女は驚きもせずに美しく微笑んでいた。
「まあ、わたくしの従者がご迷惑をおかけしたようで申し訳ございません」
完璧な角度で傾けられた白い首を艶やかな黒髪がさらりと流れた。サマヤに向けてまっすぐに向けられた青い瞳は、一度だけ絵姿で見たことがある軍事国家ランバルトの王子―狂王子―と同じ、深い深い海の色をしている。
軍事国家ランバルトの第二王女シャルロット=イル=デ=ランゴバルト。
従者唯一人を伴い、敵国であるはずのアレクサンドル王子の元に突如として現れた美貌の客人の名である。