蜘蛛の糸
少女の手がどれほどやさしかったのかを知ったのは、彼女がいなくなってからのことだ。
気味の悪い蟲のような肌に触れていてくれた唯一の少女。それはある日あまりにあっけなく目の前から去りゆき、そうして残されたのは蝶になった己だけだった。
どうしてあれは去ったのか。何故自分を見捨てたのか。
幾度にもわたる問いかけに答えたのは二番目の兄だった。
「あれは蟲愛でる姫君だったのだろうよ」
そうして兄は東の国から伝わったという書物を指し示した。世界の果て、東方にある巫咸国の言葉は当時の自分には読めなかったが、それには蟲を愛でる姫の話が記されていた。醜い蟲にしか興味のない、愛することのない姫の話。
「だから、美しい蝶となったお前は必要ではないのだろうさ」
兄の言葉は胸に深く突き刺さった。
たしかに少女は、蟲を愛でていた。蟲のような自分を慈しみ、森の蟲を労わっていた。少女の歌は蟲を呼び、呼ばれた蟲は少女にだけは害を加えなかった。
「なんとうつくしい子だろう」
父も母も兄達も、いや、すべての人間が自分に触れたがった。蝶である己は愛でられ、触れられた。熱を帯びた視線にさらされ、肌には指が這う。
「ああ、なんと、うつくしい」
はじめて与えられた鏡にうつる自分は蝶そのものだった。豊かな銀の髪に色合いの違う宝石のような瞳。醜かった蟲の肌はすべてはがれおち、あの少女のいうように自分はいつしか蝶になった。
うつくしい。
うつくしい。
しかし言葉とともにだれかの指が触れるたびに、自分は黒く染まっていく。ことばは宙に浮き、どこにも落ちることはない。
落ちたのは赤の色。銀の光とともにそれは落ち、そうして自分はさらに黒くなる。
蟲の頃、触れていたのは少女のほそい指だけだった。
やさしいやさしい指だけは己に何のみかえりも求めず、ただ白くしてくれた。