惹かれる声
ルサリィは昨夜、アレクサンドル王子が髪にさしこんだ百合を手に持って窓際に座っていた。眠ろうとしたが眠りは浅かった。なぜだかわからないが昨夜のことを思い出すたび羞恥で顔が赤くなる。
おそらくはあのような所作、身分の高いものにとってはたしなみのようなものだ。そうはわかっていてもルサリィはそんなものにはとんと慣れてはいない。
それに触れられた大きな手もやさしく響く低い声も上の方から注がれるとろりと蜜をはらんだような視線も、もうあどけないこどものものではないことにも衝撃を受けた。いや、頭ではわかっていた。そのつもりだった。しかし今までルサリィはその事実をうまく呑みこめてはいなかったのだろう。
「ルサリィ、だっこしろ」
脳裏に浮かぶのはいとけないこどもの頃の王子の姿だった。膿と薬のにじんだ包帯まみれの姿でルサリィに向かって両手を伸ばす。そうして甘えるように命じていた。抱き上げると子供は嬉しそうに笑っていた。あのころの王子には当たり前のように触れていたのに、どうして今はこんなにも恥ずかしい気持ちになるのか、ルサリィにはわからない。
「それではおぬしはただの女だというわけだ」
昨日の王子の言葉を思い出してルサリィはかぶりを振った。
実のところ、嬉しくないといえば嘘になる。魔女ではなく、ただの女。王子に他意はないのだろうが、その言葉自体が嬉しかった。しかしその言葉は自身にはあてはまらないことをルサリィは誰よりも知っていた。ルサリィは南の魔女に拾われた時から南の魔女でしかない存在である。そのためだけに野垂れ死ぬところを生かされ育てられたのだ。南の魔女のみが有する膨大な蟲の知識はこの世界の存続にも関わるものだと教わった。それをただひとり有し、蟲を見守って行くことが役割なのだとも。
それに、とルサリィはぼんやりと思う。ルサリィは森の精霊の血をひいている。時の流れが人とは決定的に違うのだ。南の魔女としては優位に働くであろうそれは、しかし人と共に歩んでゆくのにはひどく重い事実だった。育ての親である南の魔女をたったひとりで埋葬した日のことは今はもう遠い。親しくなった蟲狩りの民たちの顔ぶれがころころ変わることにももう慣れた。けれどアレクサンドル皇子はどうだろう。ルサリィにとって誰よりも誰よりも情がうつった子供。その子供はほんの少しの時間で大きくなり、今や立派な大人となった。
そうしてきっと、ルサリィよりも先に。
再度頭を振り、ルサリィは手にしていた百合をそうっと花瓶に戻した。薄い玻璃でできた華奢な花瓶は朝の光を受けて透けるかのように美しかった。
朝食の後、ルサリィはにわかに部屋の前の廊下が騒がしいことを感じ取った。いつもは控えめに立てられる足音が、今日はいつもより響いている。そうしていつもより遅めに皿を下げに来たサマヤはわずかに浮かんだ汗を拭いもせずに息を切らせていた。
「あの……どうしたのですか?」
そう尋ねるとサマヤはほんの一瞬だけ瞳を彷徨わせたあと、少しばかり憤慨したように続けた。
「とんでもないお客人が急に現れて……ああもう、あと一息といった感じだったのに!」
「あと一息?」
「あ、いえいえ、こっちのことです」
サマヤは慌てた様に手を振る。
「ああでもルサリィ様、少し人手が足りなくなるんです。ほんの少し、ほんの少しだけこの部屋の前から俺たちがいなくなりますけど、絶対に外に出ないでくださいね」
「は、はい」
あと変な奴が来ても絶対に絶対に招き入れないでくださいね。サマヤは空いた食事の皿を持って扉を開けながら念を押すように続ける。ルサリィは困惑してサマヤの雀斑の浮いた顔をみつめた。この城に来ていくらか経つが、ルサリィは自分の置かれた境遇に納得しているわけではない。夜半にアレクサンドル皇子と会話する以外にすることはなく、あとはこの部屋に籠りきりで、食事の支度も水浴びの支度も3人の騎士達に任せきりの状況にはそわそわとしたものを感じていた。
「あの、お忙しいなら私も何かお手伝いしましょうか?」
「えっ。なんでそうなるんですか」
サマヤは呆れたふうだった。
「あのですね、ルサリィ様はぴんと来ていないようだから言っちゃいますけど、今この館はアレク様にとって敵ばかりなんです。だからルサリィ様をよりお守りしなくちゃならないんです。ああもう、せっかくアレク様が慎重に慎重に動いていたのにこんなことになるなんて」
「それは、どういう……」
「あっちょっと! お客人、勝手にうろうろしないでくださいよ!」
ルサリィの問いかけが終わる前にサマヤは叫びながら廊下に飛び出して行ってしまった。本当に忙しいのだろう。時間を無駄にとらせてしまったことに罪悪感を覚えつつ、手持無沙汰にソファに腰掛ける。
来客。第一王子が戦死し、そして王と第二王子が床に伏せている今や第三王子は最も王位に近い。アレク様は本当にお忙しいのだろうとそっと息を吐いた。今日は夜の相談はなくなるのかもしれない。これまでどんなに遅くなってもアレク王子はルサリィを自室に呼んでいたが、王子にしっかりと休息をとる時間はあったのだろうかとふと心配になった。しかし逆に言えばそれほどルサリィへの相談、即ち第三王子の伴侶の件は重要事項であったことなのだろう。
つらつらと考えていると、ふいに控えめなノックの音が響いた。ルサリィは思わず立ち上がる。先ほどのサマヤの言葉が脳裏をよぎったので、扉に近づいて小さく誰何した。
「はい……どなたですか」
「あの、南の魔女ルサリィ様、でしょうか……」
それは囁くような小さな小さな声だった。酷くおどおどとして頼りない少女の声。しかしルサリィは電撃に打たれたように動けなかった。心臓の音が五月蠅いほどに音を立てている。少女の声に覚えなどないのに、妙に惹きつけられる、その声。
「お願いがあるのです。……一度お話を……お部屋に入れて頂けないでしょうか」
<第一章 完>