バーボンストリートの天使
クリスマスまでまだ1ヶ月以上あり、気が早いようですが、12月のお話です。
軋む扉を押し開くと、階下から響いてくる爆音ジャズ。ああ、今日もやっているな。一歩踏み出すごとに、夕暮れの明かりは息をひそめ、珈琲とウイスキー匂いが濃くなっていく。バーボンストリートは、変わらない金曜日の両手で僕らを受け止める。
「お疲れ様です」
名前も知らない細目のマスターが云う。
今夜は別に疲れてはいないのだが……と自嘲気味に笑い、しかし黙って、温かなおしぼりを受け取る。いつもと同じ銘柄の安い水割りを頼み、木の椅子に浅く腰かけて、眼を閉じる。
アンクルミットは、鼻の先にかけた銀縁眼鏡の奥で瞳を閉じ、リラックスした様子で、しかし正確にスティックを振るう。ラッキーウルフは、ハンチングと鍵盤の影から鋭い視線を店内にときどき彷徨わせる。そしてメロディアは、数学的な旋律の中で、ひたすらに吹きまくっている。
冬の大三角形を思わせる楽器の光沢。燦然と輝くその景色は、地球から見上げる天体のように揺るぎなく思える。ところが1999年。その年だけは、ある印象深い出来事が起こった。
今夜は少し、そのことを書こうかと思う。
当時、僕は21歳で、合法的に酒が飲めるようになってからやっと1年生という若輩であった。ただ、若者の背伸びというものだろうか、いろいろと予習はしていたつもりであったし、陽気などんチャン騒ぎをするような流行の店よりも、いささか親父くさい陰気な店を好んだ。
稼ぎはまだ少なく、この店での一杯は相当高くついたが、つまらない人間関係に縛られながら安酒を煽り、道端に吐き散らかすよりも、十分に割に合うと考えた。そしてその考え方は10年以上経った今もなお、間違っていた気がしないのだから、だから笑えてくるというものだ。
さておき、偶然か必然かはともかく、紫煙の漂う地下世界に田舎の鼠が迷い込んだわけであるが、僕がバーボンストリートで飲み始めてから2ヵ月ほどした秋、僕はこの地下に僕以外にもう一匹の鼠がいることに気づいたのであった。
否、鼠と云うよりも、それは美しい小鳥であった。
メロディアその人である。
夕暮れ時にふらりと現れては、カウベルの鳴り止むかどうかという間に、狭い店内を颯爽と通り過ぎ、ステージに至る。マスター、アンクルミット、ラッキーウルフらと数ワードの言葉をやり取りし、すぐにアルトサックスを咥えこんだ。
「彼女、名前は何というのですか?」
まばらな拍手の隙を突き、ある日、僕はマスターに尋ねた。他の演奏者については、何度か足を運ぶうちになんとなく人となりが分かっていた。本名もいつだったか耳にした覚えがある。しかしメロディアについてだけは、謎だった。
「メロディアですか? 私も本名は知らないんです」
グラスを拭く手を止めずに、マスターは流暢にそう応えた。
「知らないって……雇っていらっしゃるのでは?」
僕は食い下がった。
「雇っているというか……彼女はちょっと変わっているんですよ。ある日突然、一人でやって来て、演奏させてくださいって頼まれましてね。何も教えてくれない代わりに、ギャラも一切取らないんです。あれだけできるのにね。私としては、まあ雰囲気を壊さないでくれるなら、いいかと思いまして」
マスターはそう云って、屈託のない笑みで笑うのみであった。なんとも滅茶苦茶な話ではあったが、嘘のようには思えず、僕はただただ不思議な思いでメロディアを見つめた。
メロディアはいつも、つま先から袖口までをボーイッシュな黒いスーツで包み隠し、黒い中折れ帽の隅に紅い薔薇を飾っていた。
赤、黒、金。どこかクリムトの絵画を彷彿とさせる装いではあるが、ラッキーウルフらと数言交わし、ときどき綻ぶ横顔は、少女のそれと似て、あどけなかった。
「惚れたか」
隣の常連客が唐突に話しかけてきた。この空間で話しかけられたということに驚きこそしたが、不思議と不快感は無かった。
融けゆく丸氷を見つめながら、
「そう、かもしれません」
と、僕は応えた。
そして常連客の眼を視た。すると男は満足げにふっと笑い、
「あれは、ただの天使だぜ」
そんな意味深な言葉を残して、煙草をもみ消し、席を立った。
カウンターに取り残された僕は、軽く酔い回った頭を醒まそうと珈琲を頼んだ。漆黒の水面を見つめると、金色の光が振り回されたサックスのように揺れている。僕は熱いままそれを飲み欲し、帰路に就いた。
ただの天使。
その言葉がどれほど的確で、僕を釘付けにしたかは、紙面を割いて説明する必要などあるまい。一度神秘性に気づいてしまうと、メロディアの存在は、僕の胸の中で大きくなっていった。
あくる日、冷静になって店内を見渡してみると、客たちは見事なまでに皆が皆、メロディアのサックスに桃源郷を見出していた。僕は自嘲気味なため息を吐き、そしてやはりメロディアの横顔を盗み見た。
客たちに対してはともかく、正直なところ、僕はアンクルミットやラッキーウルフに嫉妬した。アンクルミットはまるでメロディアの父親のようであるし、ラッキーウルフに至っては、兄か恋人ように見えないこともなかった。後に、彼らもメロディアの素性に関しては本当に何も知らないということが判るのだが、僕はラッキーウルフとメロディアの関係を密かに疑った。
唯一幸いだったのは、彼らの冗談めいた会話は長く続かず、すぐに真剣な表情になって演奏が続けられることだった。
音楽が流れ続ける間、客たちには天使を見つめるだけの自由を与えられていた。
そんなささやかな自由が失われたのが1999年の12月だった。
メロディアがぱたりと姿を見せなくなったのである。
金銭のやり取りがなかった以上、メロディアの失踪が社会的な問題でないことは明らかだった。バーボンストリートの誰もが、メロディアを引き戻す術を知らなかった。そして何より、誰一人連絡先すら知らなかったのだ。
アンクルミットやラッキーウルフの演奏の素晴らしさは、相変わらず見事だった。メロディアがバーボンストリートに現れる前は、彼ら2人で演奏していたわけであるし、構成は巧みに修正された。しかし、ラッキーウルフの眼光はますます鋭くなるし、ドラムの音も、どこか荒々しげに聴こえていた。まるで二人の天才が競い合うような激しいジャズとなった。
「あれ、サックスの子、居ないの?」
新参者の中には、メロディアの不在を露骨に残念がる者がいた。彼は階段で立ち止まり、階下に降りなかった。
「マスター」
寡黙なラッキーウルフが、噛みしめた牙の隙間から声を発した。
「音楽を”知らない”者には帰っていただけ」
「ま、まあまあ」
マスターは冷や汗を流しながら彼の言葉を制した。
「彼氏でもできたんじゃねーの」
客の一人が陽気な口調で云った。季節はイルミネーションが恋人たちを照らす12月。僕は残念に思う傍ら、メロディアが普通の人間であったことに安堵もした。
「……年頃の娘だ」
銀縁眼鏡を目元に押し込みながら、アンクルミットが呟く。ガラスがオレンジの光を反射し、瞳は視えない。
「むしろ俺は安心だね。こういう場所に居るべき子じゃない」
意外にもアンクルミットが僕の感情をフォローした。
「爺さん! 俺はただアイツとセッションしたい。それだけだぞ」
「分かっている。続けるぞ。ここは俺らのステージだ」
「……………ったく」
ラッキーウルフはハンチングを目深にかぶり直し、大きく肩を回してから鍵盤に両手を置いた。
僕は頭上を通り過ぎていく超絶技巧を感じながら、グラスを傾けた。
「しかし、少し心配ですね」
マスターが云う。店側としての言葉ではなかった。グラスを拭く手を止めて、ラッキーウルフに投げかけられた視線は、もつれかかる指に注がれていた。
心配。
メロディアに何かあったのかということだろうか。それとも、二度と彼女の音色を聴けないかもしれないという不安だろうか。
おそらくはその両方であったと僕は思う。少年のように清い感情と、そこからはみ出した邪な感情が交錯する、いたたまれない心に、脳が揺れる。
僕はふと、壁際に置かれたアンティークの砂時計を視た。落ち切った砂は二度と戻らない。不可逆性。これが時代の正体だと僕は思い知った。この店は、いくつもの時代を超えて今在るのだ。その罪深いこと、狡猾なことい云ったら、どうだろうか。
僕は都会の無関心に心地良さを感じて、ずっと小さなカウンターに腰かけてきたが、そのときになって初めて、とんでもないチャージ料が課せられていることを知ったのだった。
メロディア。
せめて一言、素晴らしい演奏だったよ、と伝えられたならば、どれだけ幸せだっただろうか。僕はそう考え込んだ。
そうしているうちにカレンダーは駒を進め、12月25日、つまりクリスマスがやってきた。
客たちは密かに、サンタクロースに願っていた。このまま終わりでは悲しすぎる。せめてもう一度。トリオを聴かせてくれ……。不器用な男たちが集うバーボンストリートに冷たい冬が訪れた。二十三時を回っても客たちは帰らず、切実なピアノとドラムに聴き入った。
駆け抜けるように、また一曲が終わった。アンクルミットはスティックを叩いて、ワン、トゥー、とカウントを取り、次の曲を始めた。
カウベルが鳴ったのは、ピアノが流れ始めてから数秒後だった。
黒い革靴が木の床を駆け抜ける。
来た!
風に揺さぶられた水面のように、客たちに微かなざわめきが生じる。演奏を絶やさないように一切の言葉はない。アンクルミットは微かにほっとした表情でリズムを刻み続ける。ラッキーウルフの鋭い視線が、メロディアの横顔を一瞥し、眼の端が少しだけ綻ぶ。メロディアの艶やかな唇が、マウスピースを包み込む。
久しい重厚なトリオに鳥肌が立つ。
もつれるように、高く昇っていくサックスの響き。それを支えるピアノ、規則正しく昂ぶっていくドラムス。客たちは密かに目配せをし、感動を分かち合った。
最後の音が駆け抜けると、メロディアがステージの後方を振り向き、3人は満足したふうに僅かな言葉を交わした。割れんばかりの拍手で、彼らが何を云ったか正確に聞き取るのは難しかった。僕は唇の動きを視ていた。
「遅いぞ。何してたんだよ」
とは、ラッキーウルフ。アンクルミットはやれやれというふうに、肩をすくめて、閉じた瞳で静かに笑っている。メロディアが何か呟き、三人はまた笑う。
メロディアがセッションに戻ってきた。それだけで、全てが完結していた。
それから僕は、水割りを二杯呑み、カウンターに紙幣を置いてそっと立ち去った。いつまでも聴いていたかったが、閉店まで居残るのは野暮なふうにも思えた。
外に出ると、羽毛のような雪が降り始めていた。吸い込んだ空気の冷たさが、誇らしかった。
コートのポケットに両手を入れ、アスファルトのを歩き出しながら、僕はメロディアの唇を思い出し、一人にやにや笑いを浮かべた。
「ちょっと世界を救いに、ね」
彼女は、そう呟いたのだった。
END
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
最近寒いですね。飲み過ぎにご注意ください。