錆の記録 中
立ちすくむアインスの姿を茫然と見つめていたマリアの肩を、誰かが掴んだ。
「おい、出るぞ」
「……え?」
「いいから。ずっと店中の視線を受け止めるつもりか?」
「で、でも」
アインスは凍り付いたように動かないままだ。その瞳はずっと目の前の男、アルを捉えて離さない。
「……アインス、でいいのか?」
アルの言葉に、びくりとアインスが反応する。
「……あぁ」
「そうか。……俺は……、アルだ。そう呼んでくれ」
「……」
「誤解してるようだが、いいか、こっちのお嬢ちゃんと、俺はお前が思ってるような関係じゃ、無い」
「え?」
「……何ですって?」
アインスとマリアは呆気にとられた様子でアルを見つめた。
「俺はこの街に来たばっかだし、このお嬢ちゃんと出会ったのもたまたまだ。宿を探してた俺を、ここまで案内してくれただけだ。分かったか?」
そこまで聞いてからやっと、マリアはアルの言わんとする事を理解した。
アインスが、マリアがアルとやってきたことにショックを受けていると言っているのだ。
「な、何言ってるの!?」
思わず怒鳴る様に叫びながらマリアはアルの方へ向き直った。
「……す、みません」
同時に背中から聞こえたか細い声に、再びマリアはアインスを見つめる。
「す、こし体調が……思わしくなくって……失礼、します」
深々と頭を下げると、アインスはそのまま止める暇も無く食堂から宿に続く扉を開けると、茫然とその様子を見送るマリア達を置き去りにして、走り去ってしまった。
「……さて、今のうちに俺らも逃げるぞ。早くしろ。他の客から質問攻めされる前にな」
こっそりと耳打ちしたアルの言葉の意味を、少し時間をかけた末に理解したマリアは、こくこくと頷くとアルとともに急いで食堂を飛び出した。
2人は急ぎ足で宿から距離を取ると、大きく肩で息をしながら立ち止まった。
「……どういう、こと?」
マリアは息を整えながらアルに尋ねる。
「あ?何がだ?」
「……今の、アインスの態度。あなた……、あなたアインスを知ってるの?」
眉を潜めながらアルはマリアを見つめた。真剣なまなざしをマリアが返すと、アルはしばらく黙った後、大きく息を吐いた。
「……何言ってんだ?話聞いてなかったのか?せっかく俺が弁解しといたんだ。後でちゃんと誤解を――」
「誤魔化さないで、アル」
マリアがじっとアルを見つめると、アルの瞳が一瞬大きく揺れ動いた。アルは、また深く溜息を吐くと、口を開く。
「お嬢ちゃん、反則だぜその顔は……」
「マリアよ」
「……マリア。……ったく、気持ちいい位自分の気持ちに真っ直ぐだな。……でもやっぱり……エリザにそっくりだな」
マリアは黙ったまま、アルの次の言葉を待った。
「……あー、マリア。話長くなるんだが、どっかゆっくり腰を落ち着けられる場所は無いか?」
「それなら私の店に戻りましょう。店内ならゆっくり出来るわよ」
「……俺は構わないけどな。ったく、無防備過ぎんぜ」
「あら、どちらかっていうとあなたは私を守ってくれるんじゃないの?」
軽口を叩いたつもりだったマリアは、アルの瞳がまた大きく揺れたのを見て思わずアルに駆け寄った。
「どうしたの!?大丈夫?」
アルはひどく青ざめた表情で、浅く呼吸をしていた。目の焦点が合っていない。
「……だい、じょうぶだ。……マリア。少し、思い出した……だけ」
よろよろと起き上がると、アルは覚束ない足取りで歩きはじめる。
「……アル、あなた……」
……一体、何者なの?マリアは喉元まで出かかった言葉を、必死に飲み込んだ。
◇◆
店の備品である椅子にアルを腰かけさせると、マリアは向かいに自分の椅子を用意して腰を下ろした。すっかり日も落ちて真っ暗な店内の中、2人の間に置いたランプの灯りだけが、
温かい光を放っている。
「……ねえ、具合が悪いならこの話は――」
「いいんだ」
「でも」
「いいんだ。マリア。話したいんだ。……今まで、誰にも話したことは無かった。どのみち、信じてもらえるような話じゃ、無いしな。でも……マリア。不躾な質問かもしれないけど、教えてくれ。……あいつの事が……アインスが、好きなのか?」
「ええ」
マリア自身が驚いた程、するりとその言葉がマリアの中から発せられた。
「好きよ。とても」
「……そうか」
暫くの間、沈黙が場を支配した。
「なら、話そう」
アルはおもむろに胸元をまさぐると、灯りを受けて鈍く光る首飾りを取り出した。
ブローチになっている部分を開けると、アルはそれをマリアの方へと向ける。
愛らしい笑顔を浮かべた少女が、こちらに微笑み掛けていた。
「……この写真の女の子が、エリザだ。……俺の、最愛の人だ」
写真を見つめたまま、アルは微笑む。
「……彼女は殺された。俺は、彼女を殺した男を追って、大陸中を旅しているんだ」
「……殺された?」
「あぁ。それも、『悪魔を召喚する』なんていう馬鹿げた目的の為にだ」
「……悪魔?」
「そう。でもな、信じがたい事に……。悪魔は本当に実在したのさ。そうして、最愛の恋人を殺された男は、悪魔と契約を交わした」
そうしてアルはマリアに語り始めた。遠い遠い昔、霧と煙に包まれた街で起きた悲劇を。
◇◆
アルが話しを終えると、マリアは大きく息を吐いた。無意識に息を止めていたのだ。
「……そんな、事って……ねえ、でも待って。今の話が、アインスとどう関係があるの?」
「疑問に思わなかったのか?」
「え?」
「あの髪、あの肌、あの瞳。まるで人形みたいな表情を浮かべて。まるで人間じゃないみたいだ、とは思わなかったのか?」
「!!」
まさか、そんな。
アインスは……人間じゃ、無いの?
そこまで考えてマリアは、自分がアルの話を信じている事に気が付いて戦慄した。悪魔なんて馬鹿馬鹿しいと、一笑に付すことは容易い。けれどマリアの表情は強張ったまま固まっている。何故か、マリアには信じられたのだ。アルの話している事は真実なのだと。
「……もうあの日から67年経ってる。普通に考えれば、黒衣の男はとっくに死んでるはずだ。そう、あの男がただの人間ならな。でもな、俺は旅を続けるうちに知った。生きたまま心臓を抉り取られて殺されたのは、エリザだけじゃない。この67年のうちに、少なくとも5人。場所も、年齢もばらばらだが、女ってことは共通だ。起きる間隔が余りにも離れているから、同一人物の仕業だとは誰も気づかないだろうけどな。……あいつは、あの黒衣の男は生きている」
マリアの動揺をよそに、アルは話し続ける。
「あいつが生きている。エリザをあんな残酷な方法で殺した男がまだのうのうと生きている……。絶対に許さない。俺はあの日からずっと、あの黒衣の男を探し続けてきた。エリザの仇を討つ為に。でも、頭の片隅でずっとあいつの事を……アインスの事を気にかけていた。……あいつがどうして、俺と顔を合わせてあんなに動揺したか分かるか?」
「……いいえ」
「……本当に、分からないのか?」
「え……?」
「分かるはずだ。いや、分かっているはずだぞ、お前には。……俺から言えるのはここまでだ。後は直接、マリア自身があいつから話を聞くんだ」
「……そんな」
「……この街はな、エリザの故郷なんだよ」
「!!」
アルはエリザの写真を見つめながら呟いた。
「どうして俺が、ずっと避けていたこの街に来る気になったのか。どうして、お互いに放浪の旅に出ていて今まで一度も交わることの無かった……アインスに再会することが出来たのか。そして、エリザの故郷の街にどうして、マリア……お前が居たのか。俺はこれが偶然だとは思えない」
「どういうこと?」
「……運命、だと思っている。この運命に決着をつけるんだ」
「全然分からないわ、アルの言いたいこと」
「マリア。お前はエリザに怖い位似ている。……性格は全然違うけどな。笑い方とか、振る舞いとかが、そっくりだ。……エリザが生まれ変わったのなら、きっと……」
「……私は、私よ。エリザじゃない」
「ああ、そんな事は分かっている。分かっているさ。それはアインスだって痛い位分かっているはずだ。でも、それでも……」
アルは拳を握りこんだ。みしみしと軋む音が聞こえた。マリアは息を呑んでその様子を見つめる。
「……ちょっと!!血が出てる!!」
「……与太話にしか、聞こえないような話、だろう?」
だから、証拠を見せてやろう。
アルはゆっくりと右手を灯りに近づける。やがてそれがはっきりと見えた時。
マリアは茫然と、アルの右手から流れる黒い血を眺めた。そしてそのままマリアの意識は、ゆっくりと暗転した。
◇◆
気を失ったマリアが意識を取り戻したのは、朝を告げる太陽の光のおかげだった。
一瞬何が起きたのかが分からず辺りを見回したマリアは、はっとするとアルの姿を探した。しかし、店内にはアルの気配はない。床を見ても、アルの手から滴り落ちていた黒い血が付いている箇所も無い。
マリアはしばらく微動だにしなかった。マリアの頭の中で、アルの言葉が反響する。
『後は直接、マリア自身があいつから話を聞くんだ』
アインス。あなたはいつも、張り付けたような表情を浮かべていたわよね。私はそれが気になって、それでもあなたに理由なんて聞けなかった。あなたが人間じゃなかったなんて。……あなたが悪魔だなんて、そんな事どうやって信じろって言うの?
マリアは店を飛び出した。アインスに会わなければならない。そして、アインスが昨日見せた態度の理由を確かめなければいけない。
マリアはアインスのいる宿へ急いだ。
走る、走る。
まだ夜明けもまもない、闇の残る街をただ走る。
そうして走り続けているうちに、マリアはふと気が付く。
まだ完全に目覚めていないこと以外はいつも通りの街だった。朝の冷たい風が、潮の匂いを運んでいたはずだった。
この霧は何だ。
海から来る強烈な潮風のせいか、この街で霧が立ち込める光景など、マリアは今まで見た事が無かった。それにも関わらず、今マリアの目の前に立ち込めているのは、煙のような霧だった。
煙のような。
マリアの全身がぞっと粟立つ。足を止め、じりじりと後退する。得体の知れない霧は、マリアの行く手を遮る様に立ち込めている。マリアは振り返り、元来た道を行こうとして―――。そこで気が付く。
いつの間にかそこに立っていたのは、全身を黒い服で包んでいる男だった。