錆の記録 上
今日も鉄と潮の匂いが、辺りを包んでいる。ここは錆と潮風の街。
マリアはそわそわと店の外に視線を送りながら、読みもしない古書をぺらぺらと捲っていた。
店の扉のガラス越しに見慣れた人影が見えた瞬間、マリアは勢いよく立ち上がった。
「いらっしゃい!アインス!!」
「マリア」
扉を後ろ手に閉めながら、現れた青年は口元を僅かに上げて笑みに似た表情を作った。それが青年にとっての満面の笑みであることをマリアは知っていたので、彼女はお返しとばかりに最高の笑顔を目の前の青年――アインスへと返した。
「届いているわよ!新しいの!!きっと気に入ると思うわ。青い花の押し花があしらわれているのよ。どうかしら?」
ありとあらゆる日用品を置いている雑貨屋。それがマリアの両親の稼業だった。幼い頃から店の手伝いをしていたマリアは、今ではすっかり店の看板娘となっている。遠方にある私立の学園に通い始めてからは更に垢抜け、今ではマリアを目的に足繁く店に通う者すらいる程だ。
そんなマリアの輝く様な笑みを前にしながらも、アインスはその表情をほとんど変えていない。
「……ああ、いいですね」
それでも僅かに口元が緩んだのを見て、マリアは自分の審美眼に狂いが無かったことをどこかの誰かに感謝した。ここまでアインスが表情を和らげることはほとんど無い。
マリアがはじめてアインスに出会ったのはもう半年以上も前の事になる。
はじめてアインスが店を訪れた時、その容姿を見てマリアは固まってしまった。
真っ白な髪、それに負けない位の、真っ白な肌。そして、宝石の様な真っ赤な瞳。
まるで人間とは思えない、人形の様に整ったその美貌と、その存在感に、マリアは一瞬で意識を奪われた。
「……すみません。もしかして、今日はお店を閉めているのでしょうか」
マリアが黙ったまま見つめ続けたせいだろう。青年はそう尋ねてきた。
「……え!?あ、違います!違います!ようこそ、いらっしゃいませ!!」
マリアは慌てて、言葉を発する。必死になって、青年が帰らない様に言葉を続けた。
「少しお客さんが途絶えたから、ちょっとぼーっとしちゃっただけなんです!ほんとにちょっとだけですけど!!どうぞ!!じっくり見ていってくださいね!!」
青年は少しだけ瞳を丸くすると、僅かに口角を上げた。笑った、つもり、らしい。眉が下がり、それに伴って冷たい印象だった表情が少しだけ和らいだ。
それだけで、またマリアの心臓が跳ねあがる。
「良かった。……実は、この街に来たばかりで。日用品が切れかかっていたので宿の方にこちらを紹介して頂いたんです。羊皮紙をいくらかと、インク、それに油と……、栞は置いてありますか?」
「ええ、どれも置いてありますけど。……栞、ですか?」
挙げられた物の中では、唯一日用品とは呼びにくい物に、思わずマリアは疑問を覚えた。
「ええ。僕の……趣味と辛うじて言えるものの中の一つなんです。栞集めが」
そう言ってまた僅かに口元を歪ませると、青年はマリアを見つめながら言う。
「……アインス、と言います。露天商の真似事のような事をしているんですが、
しばらく、この街にはお世話になると思います。良かったら、仲良くしてください」
そう言いながら差し出された右手を、マリアは熱に浮かされたように握り返した。
「こ、こちらこそ」
差し出されたアインスの右手は、火照ったマリアの左手と比べると、ぞっとする程に冷たかった。
あれから、思えばもう半年は過ぎているのだ。マリアは思わずため息を吐く。2人が出会った後、アインスは泊まっていた宿で雑用をこなすようになり、その代わりに随分安い費用で半ば住み込みの様な状態を保ち続けているようだ。
まるで人形のような美貌を持つアインスの噂は、あっという間に広がった。アインスの泊まっている宿は、日中は大衆食堂も開いているのだが、今までは近所の肉体労働者の貯まり場だったはずのその食堂は、アインスが手伝いに入るようになってからは、今では女性客がひっきりなしに大勢詰め寄る大人気ぶりだ。
アインスは真っ白なその外見に比例するように、表情をほとんど変化させることが無かった。決して無愛想なわけでは無く、穏やかで、とても人当りが良いのにも関わらず、その表情は氷のように凍てついたままだ。
それでもアインス目当ての客は止まる事を知らない。
そこまで考えてから、マリアは店のカウンターに顔を伏せた。マリア自身も、彼女達と大した違いは無いように思えたからだ。
でも、それでも。マリアは思い直す。少なくとも彼女達よりはきっと、自分はアインスに近しい存在に違いないと。
「……どうか、しましたか?」
覗き込むように見つめてくるアインスに、マリアは一瞬で顔を真っ赤に染めあげるとぶんぶんと顔の前で手を振った。
「え!?う、ううん!!何でもない!!何でもないの!!あはは!!ちょっとばてちゃってるのかな!?最近妙に気温の変化が激しいから!」
マリアの言葉にアインスは眉を潜める。少し考え込むように視線を伏せると、ややあって顔を上げた。
「それはいけませんね。……良かったら夕方、私のいる宿まで、食事を取りに来ませんか?」
「え?」
「実は、私のお世話になっている宿なんですが、日中開いている食堂の評判がとても良いらしくって。夜にも食堂を解放することになったんですよ。そんなに長い時間では無いんですけど。ただ、宿泊して居なくても昼と同じ様に食事が取れるようになったんです。もし良かったら来てください。腕によりをかけてご馳走しますよ」
アインスの提案は、マリアにとっては望外の申し出だ。まるで、マリアを特別に思っているとでもいうような口調に、マリアの胸の鼓動が高鳴っていく。
「っ行く!!絶対、絶対行く!!!」
「そ、そうですか。それは良かった。……マリアが元気でいるのは、僕の望みですから」
そういってマリアを見つめるアインスの表情に、マリアは息をすることを忘れた。
笑っている。いつもの様な、口角をただ上げるだけでは無い、本当の笑顔。
マリアの反応に、アインスは少ししてから気が付いたのか、まじまじとマリアを見つめ、それから自分の顔を撫でまわすと、深い皺を眉間に寄せ、口元を引き締めた。
「……それでは、マリア。また後で」
すぐにいつも通りの表情へ戻ったアインスは、逃げるように身を翻すと、声を掛ける間も与えずに店を飛び出して行ってしまった。
マリアは茫然と、アインスが出て行った店の扉を見つめていた。
……アインス、何も買わずに出て行っちゃった……。
ううん、それよりも。今の笑顔。アインスの、本当の笑顔……。
マリアは自分が泣き出しそうになっていることに気付いた。何故かは分からない。そのうち、本当に一筋の涙がマリアの頬を伝った。マリアは混乱したまま、アインスの笑顔を思い返していた。
今まで見てた笑顔は、全部全部作りものの笑顔だったんだ。あれが、アインスの、本当の笑顔だったんだ。
自らが初めて、アインスの笑顔を引き出した優越感を、マリアはまったく感じていなかった。ただひたすらに衝撃で、ただひたすらに悲しかった。
アインス、笑ったことに気が付いて凄く辛そうだった。……笑いたくないんだ。ずっと、笑わないつもり、なんだ。
どうしてかも分からず、マリアはただただ泣き続けた。マリアの胸が、張り裂けそうに痛む。それがなぜなのか分からず、分からない事が悲しくて、マリアは更に泣いた。
店の扉に付いた鈴が鳴った。来客を告げる鈴だ。慌ててマリアは涙を拭い、無理やり笑顔を張り付けた。
「……はい、いらっしゃい!!」
店内を見回しながら男が店に入ってきた。見かけない顔だ。黒髪で鳶色の目、無精ひげを生やしているが、見てくれから言ってきっとこの街に入ったばかりの旅人だろう。疲れを浮かべた表情で、視線を自分の足元に向けたまま、気だるげに話し始めた。
「……わりい、この店に頑丈な紐は置いてあるか?後、ついでにマッチも多めに……」
そう言いながら視線をマリアに向けた男は、表情を消して茫然とマリアを見つめてきた。
「……エリザ……」
「え?」
何かの聞き間違えかとマリアが思わず聞き返す。男は弾かれた様にはっとすると、ばつが悪そうに笑いかけた。
「……あぁ、いや悪いな!!あんたが一瞬……。いや、何でもない。……俺の名前はアル。今日、この街に着いたばっかりなんだ。怪しい人間じゃない。驚かせたなら済まないな」
そういいながらその男――アルは人懐っこい笑顔を浮かべた。マリアが思わず警戒心を解いてしまう位の、屈託の無い笑顔だ。
「ここ、日用雑貨を色々置いてるところだろ?手荷物の中で紐が切れちまった分があってな。宿探す前に、取り急ぎ直したいと思って寄ったのさ。ついでに、最寄の宿なんか教えてくれたら助かるんだけどな」
「そう!長旅だったの?」
マリアはまじまじと男の恰好を見つめる。衣服のところどころが酷く痛み、全体的に薄汚れている。かなりの長旅で無いと、こうはならないだろう。
「まぁな。……実は今まで、この街に寄る機会は何度もあったんだ。でもぐるっと回ってな、この街だけは避け続けてきた。……それが良くなかったんだろうと思い直してな。この大陸の街という街は、もう調べつくしたんだ。……この街以外はな」
「?」
「……こう見えても地質学者なんだ。俺は。この大陸中、調べて回ってんのさ」
「ふーん?大陸中を?」
「そうだ。凄いだろ?」
ふふんと僅かに胸を張ったアルの様子を見て、マリアは笑い声を上げた。
「騙されないわよ?一人で大陸中の街を見て回るなんて、人間業じゃないわ!!それこそ何十年、下手したら百年以上もかかっちゃうわよ!」
マリアが期待していた追従の笑い声は、アルから起きなかった。
代わりにアルは少し困った様に微笑んだ。
「……あぁ。そうだな。その通りだ。……でも!!長旅でくったくたなのは本当だぜ?
ってなわけでお嬢さん。宿を教えてくれないか?あ、もちろん日用品はここで買わせてもらうよ」
「マリアよ」
「え?」
「私の名前。マリアって言うの。アル、長旅ご苦労様。錆ついた街だけど、ゆっくりしていってね?」
「……マリア、か。いい名前だな」
にこりと笑い合うと、マリアとアルはどちらともなく手を差し出した。
アルが差し出した左手はマリアの右手よりも温かかったが、何故かマリアはアインスの事を思いだしたのだった。
「……そうだった!!」
握手をした瞬間叫び声を上げたマリアに、アルは思わず飛び上がる。
「な、何だどうしたんだ」
「あのね、私これからどうしても外せない用事が……。そうだ!!ねえ、あなたも一緒に来ない?」
「あ?どこにだよ」
「今から私、知り合いがやっている食堂に行くんだけど、そこって元々は宿屋さんなの。
私の知り合いも、元々はその宿屋さんの宿泊客だったのよ。今はもうほとんど住み込みで働いてるけど」
「へえ、それは」
「でね。ちょうどいいじゃない。アルもそこに泊まったら?」
「……うん、まぁ断る理由はねえな」
「うん、決まりね?」
「……なぁ、お嬢ちゃん」
「マリアよ」
「……なぁ、マリア」
「なあに?」
「……その知り合いっての、ひょっとしなくても男だろう?」
真っ赤になったマリアを見て、アルはいたずらっぽく笑った。
◇◆
「アインス!!来たわよ!!」
食堂の扉を開くと、アインスが店の真ん中で食事を運んでいるところだった。
「マリア!!いらっしゃ……っ!?」
がしゃあああん。
喧噪に包まれていた店内の空気が、一瞬で止まる。
マリアも呆気にとられてアインスを見つめた。
アインスが両手に持っていた料理皿を床に落としたのだ。信じられない光景だった。どんなに店内が込んでいようが、涼しい顔をして淡々と仕事をこなすのがアインスだ。そのアインスがこんな初歩的な失敗をするところをマリアは初めて見た。だがそれは店内にいるどの人間も同じだったらしい。皆が呆気にとられていた。
「……ま、さか」
絞り出す様に、震える声でアインスが呟く。その顔はいつにも増して青白く見えた。
「……こんな所で、会うとはな。いや、こんな所だから……か」
マリアのすぐ後ろで呟かれた声に振り返ると、アルがアインスを見つめていた。思わずマリアはもう一度アインスに視線を戻す。アインスも茫然とアルを見つめていた。
どこからか、カチ、コチと時計の音がするのをマリアは聞いた気がした。