煙の記憶
公園の中心から、僅かに離れた、冷たい石畳の上。
その上で、体を踏みつぶされ、びたびたと悶える芋虫のように全身を躍らせる男がいる。
それは唐突で、理不尽で理解不能な永遠にも思える激痛。
アルノルドは余りの痛みに声を上げる。血を吐くほどの咆哮を。けれど声は上がらない。
アルノルドの喉は潰されていた。ひゅーっ。ひゅーっ。空気が抜けるような音が路地に響き渡る。
ひゅーーーーーっ。ひゅーーーーーーっ。ひゅーーーーーーーーーーーーーーっ。
叫び声は上がらない。
アルノルドは喉を掻き毟ろうと両腕を喉元まで降り上げようとした。だが両腕は上がらない。
アルノルドの両腕は切断されていた。肩口から脇、そこに付いていて然るべきの腕がそこには無い。鋭利な刃物で切り取られた様な傷口からは突然外界に解放された動脈、静脈から漏れ出した、様々な赤色を混ぜた夥しい量の血が噴き出している。
アルノルドは絶叫したが、それはやはりただの空気の圧縮にしかならない。潰れた喉を震わせながら今度は両足でもがこうとした。
それでもアルノルドの両足はもう存在しない。両腕と同じ様に。綺麗であるとすら言える切断面からアルノルドの骨、筋肉、脂肪が露わになって血に濡れていた。
アルノルドは自分の現状がただただ理解できなかった。理解出来ない事が理解出来ず、そして自分が目を開いても尚、目の前を見ることが出来ない事に混乱した。
アルノルドの両目はくりぬかれていた。ぽっかりと顔に空いた2つの孔の奥は真っ暗な闇でしかなかった。
そうしてアルノルドは狂いそうな程の痛みの中で、ようやっと、今の自分がどんな状態であるかを理解した。理解し、それでも尚。
存在しない両手を振り回した。両足でもがいた。潰れた喉を潰すほどに叫んだ。潰された両の目をぎょろぎょろと動かしながら、必死で探した。
エリザ。
エリザエリザエリザエリザエリザどこだエリザそんな馬鹿な君がどうして俺がそばにいながら死んでいた?そんな心臓が誰だ誰なんだあいつはエリザが殺された殺された殺されて
ひゅーーーーーーーーーーっっ!!!ひゅーーーーーーーーーーーーーっ!!!!
小さく、静かに、アルノルドの喉から空気が漏れる。
ひゅーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっっ!!!!
街の喧噪の中であれば、あっという間にかき消され、気づく者など誰も居ないであろう、空気が漏れたようなその音は、ただの音に過ぎなかった。
だが音は途切れない。止まない。
エリザ!!死んだエリザが死んだどうしてどうしてエリザどうして君が痛い俺の腕一体どうなっている?エリザが殺された?なぜ?ちくしょう痛い死ぬ死んでしまうエリザ助けて助けられなかった?俺が?
エリザがころされた。
ひゅーーーーーーーーーーーーーーーっ!!!ひゅーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!!
ひゅーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっぅぅぅぅぅぅうううううううぉオオおおおおおおおおおおおおおおおおあああああアアアアアアアアああああアアああああああアアアアアアああああああ!!!
『ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ああああアアぁあああアア゛ア゛アアア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ぁああああああ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!』
潰れている喉から、決して上がることの無いはずの絶叫が上がった。
『嘘だああああああああああ!!!!エリザぁああああああああ!!!!あぁああぁあああ!!!どうして!?どうしてえぇえええエエエエええええ!!!誰、だ誰誰誰誰だあああああああああ!!!殺してやる殺してやる殺してやるぞ!!殺して殺して殺す殺してやるうぅうウウウゥウ!!!!』
アルノルドの喉は完全に潰されていた。だがその怨嗟の声はびりびりと周囲を震わせる程のものだった。アルノルドのその絶叫によって傷つき、血を流すように、周囲が段々と光を失って闇に染まっていく。
『殺す!!殺してやる!!』
流れる血もそのままに、誓いとも言える叫びが放たれた瞬間だった。
ずしり。
闇が熱を持った。質量を伴った。アルノルドを、暗い闇が包み込む。
「……成程。それが君の願い、なのですね」
眼窩から流れ落ちる血をそのままに、アルノルドは声のした方向へ身を捩じらせて顔を向ける。
そしてぽっかりと空いた2つの穴で見た。見た。見た。
見える。
病的なまでに真っ白な肌の、灰色の髪の男が立っている。こちらを見つめ返した瞳はまるでルビーの様に真っ赤に燃えていた。
「……奇跡、と言えるでしょう。あなたは私の事を望んでは居なかったのに。決して開かれぬはずの扉が開いたのです。あなたは喪ったはずの声で、瞳で、両の腕と脚で私を呼びました。……はじめまして。私の名前は、トイフェル。」
アルノルドは一目『見た』瞬間に理解する。目の前の男が決して人間では無いと言うことに。
「悪魔を呼び出す儀式」そうあの男は言っていた。こいつだ。
こいつがそうなのだ。
アルノルドは目の前の灰色の髪の男――トイフェルを睨みつける。
『……あの男の声には、応えなかったのに、何故今、俺の前に現れる』
「……質問にお答えします。あなたのいう<あの男>に対し、応えなかった事にははっきりとした理由があります。<あの男>は、あなたの恋人の命を奪いました。心臓を……。ですが、他者を捧げたところで、扉は開きません」
『……?』
「<あの男>は間違っています。確かに私達悪魔は人間達と取引をします。ですが、それは私達の持ち物と、人間達の持つ体の一部の交換に限ります。誰か他人の体を捧げたところで、私達との取引は叶いません。あくまでも本人が、望んで、体の一部を捧げることで取引は開始されます」
『つまり……』
「あなたは四肢と目、喉を喪いましたね。それでも、受動的な結果であるならば、そこには何の交渉の余地もありません。いえ、ありませんでした。あなたの意志によるものでは無いのですから。……ですが、あなたは望まずに私に取引を持ちかけました。だから奇跡だと言っているのです」
『つまり……エリザの死は?……死の意味は?』
「……私達にとっても、非常に遺憾な事です。……さて、時間ももう余りありません。早速ですが商談に入りましょう」
『待てよ。……エリザが死んだのは、無意味だったのか?』
「……それは」
『いいから、答えろ』
「……私達を呼び出す、という点では、そうなります」
『……』
「……商談に移っても?」
『かまわない』
殺してやる。
「……それでは、取引の内容をご説明します。私達は、取引相手の人間から、体の一部、例えば目や耳、鼻や口、手足や臓器を提供してもらう代わりに、望みの物を道具として与えます。望みの制限は、私達の裁量の範囲内であるならば基本無いと考えていただいて結構です。……ですが、あなたの場合……」
『……何だ?言ってみろよ』
「あなたの望みは<あの男>への復讐、ですね?いえ、より具体的に言えば、自分自身の手によって、考えうる限りの苦痛を味あわせた末に殺す……というところでしょうか。その為には……今、あなたが陥っている状態を回避する必要がありますね?」
『……』
「とっくにお気づきのはずですが、あなたはもう死の淵にあります。私が急いているのもこの為です。取引、とは言ってみたものの、あなたの望みと照らし合わせても、条件はもう決まっていると考えていいでしょう。つまり、延命です。ですが、あなたが今喪っている体の全ては、あくまでもあなたの意志の埒外にある喪失でした。その為申し上げにくいのですが、今回の私との取引に使用することは出来ません」
アルノルドの喪った四肢、喉、両の目は取引に使えないということだ。にも拘わらずアルノルドは黙ったままトイフェルの言葉に集中し続けている。アルノルドにとっては、そんな事は問題にはならなかった。何を、どう喪おうとも関係無かった。今のアルノルドはエリザを喪ったのだ。今更、自分の体を幾ら喪っても構わなかった。
「……ですがそんなあなただからこそ、おすすめできるものがあります。……今まで私達が人間相手に交渉して、この道具を選んだ人間はほとんどいませんが。これです」
トイフェルは光を宿さないアルノルドの両の孔からよく見えるように、かちゃりとそれを地面に置いた。
『……時計?』
「そうです。私が今付けている腕時計と対になっているものですが……。この時計の用途と、交換する部位は一つだけです。それはあなたの心臓であり、用途は<体の時を永遠に刻み続ける>と言うものです」
『何だそれは?』
「心臓と時計が交換されたその瞬間の状態で、あなたの体を今の状態のまま、永遠に維持するというものです。老いる事も、病む事も、死ぬ事からも解放されます。これは永遠を刻む時計ですから」
『成程な。……死にかけのままではあっても、もう死ぬ心配は無いわけだ』
「ええ。……どうしますか?というか、私としてもあなたにおすすめできる道具はこれ以外考え付きません。こうしている間にも、あなたの肉体的な死は近づいています。……どうしますか?」
『それでいい。それにしてくれ』
「……契約は成立です」
灰色の男は時計を置いた時と同じような姿勢を取り、地面に置かれていた時計を拾い上げると、そのまま何の力も込めずにアルノルドの背に触れた。
触れただけになのにも関わらず、アルノルドの背は貫かれた。
心臓のある位置。そこにトイフェルが時計をねじ込んだのだ。
そして代わりにアルノルドの心臓が、トイフェルによって掴まれる。
そして気づけばアルノルドは茫然と、トイフェルに握られている自分の心臓を見ていた。
見ていた。自分の目で、見ていた。見える。本来の、アルノルドの瞳で見る、景色だ。
「……どういう、事だ?」
アルノルドの喉から、声が発せられた。思わず、アルノルドは喉元を確かめようと手を。
アルノルドの両腕と、両足が揃っている。
「……どうして」
アルノルドは目の前の灰色の髪の男に問いかける。
「……まさか。まさか本当に。こんな事が起きるなんて。信じられません。信じられない。
心臓だ。まさか、私が心臓を手に入れるなんて……」
アルノルドの問いに、答えは無い。
代わりに、灰色の髪の男はアルノルドの心臓を見つめながら独り言のように呟いている。
「……あぁ、信じられない!!やった!!心臓だ!!とうとう私は、心臓を手に入れました!!」
次の瞬間、トイフェルはまったく自然な動作で心臓を持った手を、そのまま自分の胸に突き刺した。そうして、自分の胸に手を当てる。
「……ああ!聞こえます!!分かりますよ!!胸の鼓動が!!味気の無い、時計の音では無い音が!!」
ぼんやりとトイフェルを眺めながら、自然とアルノルドは自分の胸に手をやる。
そこにあるはずの、脈打つ心臓は、もう存在しない。
そして気づく。僅かに、耳を澄ませば聞こえてくるその音に。
カチ、コチ。 カチ、コチ。
時計が針を進める音が、確かにアルノルドの胸の中から聞こえてきていた。
「素晴らしい!!ありがとうございます。感謝します。私が今まで、どんなに欲しても決して手に入らなかったのが心臓です。私はこの部分を求めて、これまでずっと過ごしていました。ほとんど居ないんですよ!!私達を呼び出すために自分の心臓を捧げる人間は。いつも、いつも、犠牲になるのは他者の心臓です!!それが今回、ついに奇跡が起きたんです!!!」
笑っている。そんなトイフェルをアルノルドは茫然と見つめていた。
「アルノルド。こんな言葉、あなたはきっと欲していないでしょう。ですが、感謝しています。本当にありがとう。……せめてもの気持ちとして、あなたが喪った全ての体の部分を『埋めて』おきました。道具ですら無い『紛いもの』ですが、私の持っていたものであることに変わりはありません。人間では決して手に入れられない力が込められています。これは私の僅かばかりの感謝の気持ちとしてお受け取りください」
もちろん、アルノルドはトイフェルの言葉にも、感謝の気持ちにも興味は無い。
それでも、アルノルドはトイフェルに感謝の言葉を返した。
「いや、助かった。手足が無くても目と耳が潰されていても、俺は別に問題は無かったけどな。でも、見た目で警戒されてはたまらない」
トイフェルは僅かに目を見開くと、また声を上げて笑った。アルノルドの言葉を、強がりか、冗談として捉えたのだろう。アルノルドは自分の心の有り様に少し驚いた。猛り狂う程であった怒りと憎しみが、今は鳴りを潜めている。
目的と意志が揃い、それを可能とする道具も、今はアルノルドの手の中に存在する。
礼を言いたいのはこっちの方だと、声には出さずアルノルドは呟いた。
「……これで復讐がしやすくなった」
黒衣の男を、必ず探し出して殺してやる。
アルノルドは自らの掌を強く握りこんで爪を立てた。本来であれば血が滲むべき部分から、真っ黒な滴が一滴、流れて零れ落ちた。