霧の記憶 下
あの日と何も変わらないように見える霧深い公園のベンチで、エリザは一人思い出をなぞっていた。あの日、アルノルドとエリザの気持ちが通い合った日は、エリザの中で少しも色褪せずに今でも鮮やかなままだ。
あれからちょうど一年の時が過ぎた。まだこの街に慣れていなかったエリザを、アルノルドはたくさんの場所へ連れて行った。祝日にだけ開かれる露店市、雑多な出店や見世物で賑わう下町、灰色に鈍く輝く、この街の煙の要因である工場地。そして街から大きく外れたところにある緑豊かな田園。2人はたくさんの事をした。木陰で読書をしたり、アルノルドの趣味の釣りに出かけたり。2人の好物をひたすら食べ歩いたり、公園でのんびりしたり。お互いが知っている素敵な物、楽しい事を教え合うように、2人は一緒の時間を過ごした。
この街に来てからずっとふさぎ込んだようだったエリザが、急に元気になったのを訝しんでいた両親にとうとう問い詰められ、エリザはアルノルドと付き合い始めてからちょうどひと月経った頃、アルノルドをわが家へと招待した。
エリザの母親は温かく迎えたが、エリザの父親の方はアルノルドが玄関の扉を開けてから、別れの挨拶を告げて扉を閉めて去るまで、むっつりとして笑顔一つも見せなかった。アルノルドが去った後、エリザと父親が口論になった程だ。次の日にエリザがアルノルドに会うとひどく落ち込んでいて、エリザはアルノルドを慰めるのに必死になった。当時はどうにもならないかもしれないと思われたエリザの父親の態度が軟化したのは、アルノルドの趣味は川釣りだと知ってからだ。エリザ自身も知らなかった事だが、エリザが生まれる前の父親の趣味は、釣りだったという。
エリザの母親からその話を聞き出したアルノルドが、さりげなく釣りの誘いをした時の父親の顔を思い出すと、今でもエリザは笑いがこみあげる。目を輝かせてから咳払いをして、海釣りか山釣りかを尋ねた。アルノルドが、川釣りが大好きで、釣り場所の探索自体にも面白みがあると言うと、エリザの父親は相好を崩して大きく頷いた。
それから数日後、何と2人きりで釣りへ出かけた時は、エリザはほっとしながらも少しだけ呆れた気持ちだった。
その日、帰ってきたエリザの父親はとても上機嫌だった。アルノルドが良い釣り場所の探索に秀でていることを手放しに褒めた。エリザは、母親からこっそりと、自分の父親が釣りが一緒に出来る男の子を欲しがってた事を聞きだしていたので、これで2人の仲は大丈夫だろうと、ほっと胸をなでおろした。
エリザは、アルノルドを待っていた。今日は、2人にとっての特別な日だ。お互いが、お互いを大切に思っている事を知ったあの日からちょうど1年。2人にとって今日は大切な記念日だ。
「実は俺からエリザに伝えたいことがある」
今日、公園で待ち合わせする事を決めた日、アルノルドは真剣な目つきでエリザを見つめながらそう言った。
「でも、それは今度会ったときにする。エリザ、楽しみにしていてくれ」
「うん、分かったわ」
エリザはアルノルドを待ちながら、頬を緩ませていた。エリザはアルノルドが自分に何を告げようとしているのか、見当がついていた。父親にも仲を認められ、2人の間に最早障害は何もないのだ。まだまだ幼さの残る2人ではあるけれど、エリザはアルノルドを運命の相手だと信じていたし、アルノルドからもそう思われていると信じても居た。それ程2人の絆は大きなものになっていた。
だから今、エリザは優しい思い出に浸りながら、最愛の恋人を待っている。
待っている。
待っている。
……けれど、アルノルドが現れない。
微かな不安が、エリザの胸をよぎる。アルノルドは、エリザとの約束の時間に遅れる事は無い。この一年間、アルノルドが約束の時間を過ぎて現れた事は無かった。
どうしたのかしら?
エリザは立ち上がると、公園の入り口の方へ目を向けようとして――。
これは、何?
思わず息を止めた。真っ白だ。煙のように濃い霧が、いつの間にか辺りを包み込んでいる。
いくら霧の公園という名前がついていると言っても、いくら霧と煙の街であると言っても、一目で異常と分かる光景だった。
「……こんにちは、お嬢さん」
自分の真後ろから聞こえた呼び声に、エリザはびくりと身を強張らせながら振り返った。
其処には、まったく見覚えの無い男が立っていた。真っ黒な修道着のような服で全身を包んだ男だった。
髪も、髭も、眉すらも無い。のっぺりとした顔は無表情で曖昧な印象を持つのに、こちらを見つめている瞳だけがぎらぎらと異質に輝いている。
エリザは悲鳴を上げかけて初めて、体の自由が効かない事に気付いた。
◇◆
「エリザ!!エリザどこだ!?」
アルノルドは霧の中、エリザを呼びながら彷徨っていた。異常だった。アルノルドにとっては、目を瞑ってでも歩ける程に慣れ親しんだ公園にも関わらず、まったく公園の中心地に辿り着けない。真っ白い霧が煙の様に立ち込めて、アルノルドの視界を塞いでしまっている。自分がいる場所すら見失ってしまうような得体の知れない恐怖を感じ、アルノルドは自由に動けずにいた。いつも聞えてくるはずの、木々や草花が風にざわめく音も、鳥たちの囀りもまったくアルノルドの耳には届いてこなかった。じわじわと、染み出してくるような不安を感じながらアルノルドはただひたすらにエリザを呼び続けた。
「……成程、お嬢さんの名前はエリザと言うんだね?いい名前だ」
エリザは悲鳴を上げ続ける。だがエリザの喉は震える事は無い。全身も、まるで石にでもなってしまったかのようだ。唯一動かす事の出来る視線が、男が持っている注射器を捉えた。
「……怯えているのかい?声も出せないから、仕方のない事ではあるけれど。……でもね、心配することは無いよ。動けないだけじゃないんだ」
ほら。
男は一切表情を変えずに、エリザの腕に持っていた注射器を突き立てた。エリザの表情はぴくりとも変わらなかったが、動かない表情の下でエリザは悲鳴を上げ続けていた。
いやああああああああああ!!!
「……ね、痛くないだろう。少しも痛く無いんだそうなんだ。そういう薬だからね痛くない。全然痛く無い痛く無い」
いやあ。いや。何、何何、誰なの。何を、しているの?私をどうするつもりなの!!
まるで人形のような表情のエリザの瞳からは、止めどなく涙が溢れている。今エリザの感情を表現出来ているのはエリザの瞳だけだった。
「痛くなーい、痛くなーい」
子供をあやすような声をかけながら、黒衣の男が取り出した『それ』は、鋭利なメスだった。
……嫌あああああアアアああああ!!!アルノルド!!アルノルドたすけてぇええ。
「大丈夫、大丈夫だよー」
男は躊躇いもせずに右手を振り上げると、エリザの目の前でメスを一閃した。
それだけで、はらりとエリザの服の胸元が切り裂かれ、胸が露わになる。
嫌!!嫌!!嫌!!嫌よ!!嫌あああぁあぁああああ!!!
ボロボロと零れる涙がエリザの胸に落ちていく。
「……怖い?何も、分からなくって怖いかい?あのね、これは儀式なんだ私はね。
……そうだな、少し教えてあげても良いよ」
エリザは余りの恐怖に気を失う寸前だった。それでも、気を失ってしまうことが余りに恐ろしく、エリザは心の中でひたすら悲鳴を上げ続ける。
「こんな風に、さ」
男の持つメスが、ゆっくりとエリザの胸に食い込んでいく。
……ぎ。
ぎゃああああああああああああアアアアアアあああああああああああ!!!!
「ね、痛く無いだろう?……凄いだろう?痛覚をね、全て遮断する薬なんだ。見える?見えてる?見るしかないよね?目も閉じられないからね、見るしかないんだよ」
ひぃいいい!!!いいいあああああああ!!嫌アアアアやめてええぇえええエエエえええ!!
「さぁ、これからね。君の心臓を取り出す。生きたまま。大丈夫。痛く無いからね。
それに、心臓を取り出してもすぐに死ぬわけじゃない。血を失い過ぎるまでは、死なないからね。だからね、ちゃんと見ていてね。……ああ、若い女の心臓を食べるのは久しぶりだなぁ」
ぎょろぎょろと壊れた様に動き続けるエリザの瞳だけが、彼女の叫びとなった。
◇◆
アルノルド、たすけ て
弾かれたようにアルノルドは声のした方を振り返った。エリザの声だ。確かに今のはエリザの声だった。
助けてと、言っていた。俺を呼んでいた。
アルノルドは駆けた。ほとんど転げるような姿勢で、全速力で声がした方へ走り続ける。
わずかに拓けた視界には何も見えない。何も。
アルノルドはいつの間にか公園の中心に辿り着いていた。夢中で花壇の上を走り続ける。次々と色鮮やかな花たちを踏みつけていく。
エリザ。
エリザどこだ。
「エリザ!!!」
アルノルドの叫びとともに、霧が晴れた。
「あ……あ?」
アルノルドの視界に飛び込んだのは。思い出のつまったいつものベンチ。
そこに座る、最愛の恋人。
凍り付いた表情を見せる恋人の胸元には大きな孔が開いている。
そのすぐ傍に立つ、黒衣の男が握っているそれは。
それは。
男が咀嚼しているそれは。
「あ……」
ああ、あ。ああああああああああああああああああああああああああああああぁああああああぁ
あああああああああぁああああああぁああ。
アルノルドは叫ぶことも出来ずに、ただ喘ぐようにひたすら悲鳴にもならない呻き声を出し続けた。
「……ここに辿り着くだなんて。エリザの恋人かな?」
くちゃり。口元を拭うと、真っ赤な口元を歪ませて、黒衣の男はぎらついた瞳をアルノルドへと向ける。
「少し遅かったなあ。もうすぐ食べ終わるところだ」
アルノルドはその場に崩れ落ちると、口をぱくぱくと開いたまま男を見つめる。
「……うん、神聖な儀式だからね。邪魔が入ってしまってとても残念だ。私と、エリザしかこの場にはふさわしくないからね」
何時の間に、男はアルノルドに近づいたのか。気が付けば、アルノルドの全身は、鋭利な刃物で切り裂かれていた。
それでもアルノルドは変わり果てた姿のエリザを見つめ続ける。
「……今回はきっと、成功すると思ったのに。邪魔が入るから。いつも上手くいかないんだ。どうしたら成功するのだろう。どうしたら、私は悪魔に会える?」
男の呟く言葉など、アルノルドに理解出来るはずも無かった。
「……そうだ。たまには、男も使ってみよう。そうしよう」
エリザ。
エリザ、どうして。どうしてこんな。どうしてこんな事に、なっているんだ?
悪い夢なのか?エリザ、笑ってくれ。俺に微笑みかけてくれ。遅かったねって、少しだけ拗ねたような口調で。
俺は今日、お前に。お前に言おうと思ってた事が、あるんだ。
結婚してくれって。
一生、幸せにするって。
俺がお前を、ずっと守るって。
だから。
「……あぁあああああアアアあああアアア゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!」
獣のようにアルノルドは黒衣の男に飛び掛かった。
「うるさいな」
音も無く、黒衣の男の持つ注射器の針が、アルノルドの喉元に突き刺さる。
「……やっぱりやめだ。お前の心臓はいらない。悪魔への生贄にしよう。そうしよう」
ぶつぶつと男が呟く声を聞きながら、アルノルドは意識を手放した。
無表情のままに絶命したエリザが、アルノルドを見つめていた。