霧の記憶 上
今日も濃い霧が、街を被っていた。隙間なくさまざまな店が密集している商店街の外れ、
「霧と煙の街」に相応しい天気の朝。一人の青年がいつもの様にモップを手にして、店先の石畳を磨き始めた。
「おはようアルノルド!」
アルノルドと呼ばれたその青年は、声の主に振り返ると、満面の笑みを浮かべた。
「あぁ、おはよう、エリザ!」
鮮やかな赤い髪をした少女は、アルノルドの笑顔に応えるように微笑む。
「今日はまた、特に早いな。少し、待てるか?……おーい!エリザがもう来たぞ!!」
アルノルドは店のドアを後ろ脚で蹴り開けると、厨房の奥に居る店主に声を掛けた。
「あ、あ。まだ、開店時間じゃないのに。急かしたみたいでごめんなさい」
「かまわないさ。すっかりうちのパンが気に入ってくれたんだな?ありがとな」
アルノルドはにこにこと微笑みながら、すっかり常連となった目の前の少女を見つめる。
「ううん……。す、凄く美味しいから……」
顔を伏せ、恥ずかしそうに応えるエリザというこの少女は、数か月前からこの店に足繁く通ってくれるようになった。
元々はここからもっともっと東の海際の街に住んでいたのを、両親の都合でこんな死にかけた霧と煙の街にやってくる破目になったという。とてもこの街ではお目にかかることの無い、教養と礼節を身につけた少女だった。
或る日、アルノルドがちょうど店主である父親の代わりに店に立っていた時、偶然店に立ち寄ったのがエリザだった。
年が近そうで、それでいて見ない顔だった少女に、少しだけ興味を惹かれたのかもしれない。アルノルドは、かじりつくように菓子パンを見つめていたエリザに話しかけた。
「……美味しそうだろ?それは、クルミとレーズンのパンだ。こっちのは中にリンゴと洋梨、それにカスタードが入ってる」
突然話しかけられた少女は、目を白黒させていたけれど、アルノルドが身に着けている店のエプロンを見て、警戒を解いたようだった。
「……は、はい。凄く美味しそうです。色んな種類のものがあるんですね」
アルノルドは少しだけ目を見張って少女を見つめ直した。話し方といい、佇まいといい、アルノルドの持った印象よりももしかしたらずっと年上の女の子なのかもしれない。
「甘いものだけじゃないぞ。こっちは中に輪切りにしたサラミと、後はマスタードも練り込んである。こっちなんかは俺の一押しだ。3種類のチーズを包んで、胡麻とハーブで香りづけしてある。焼き立てだぜ。何より、このパンは全部俺が作ったもんだし」
アルノルドの言葉に、少女は驚きに目を見開いた。そんな様子に、アルノルドは思わず微笑んでしまう。聡明な雰囲気が少し崩れ、幼さが見え隠れした。ころころと印象の変わる、不思議な少女だ。けれどとても可愛らしい。
「あなたが?……す、すごい」
少女は目を輝かせながら言う。今度はアルノルドが目を白黒する番だった。アルノルドの家はパン屋だ。父親がパン屋である以上、アルノルドも必然的にパン屋になるだろう。なるはずだ。そこに疑問の余地は無い。物心ついてからずっと父親の手伝いに励んできたのだから。こうして店番に立つのもそうだ。いずれ、この店を継ぐ為の修行に近い。
当たり前の事だから、アルノルドは自分が凄いとは欠片も思っていなかったし、家族も、周りの人間も同様だった。当たり前の事を、当たり前過ぎる位に、やっているだけだ。
だからこそ、目の前の可憐な少女の言葉はまっすぐにアルノルドの胸に届いた。
「……そ、そうか?そうか。……あーー、ちょっと、ちょっと待ってな」
アルノルドは少女の眺めていた自分の焼き上げたパンを一つ、ひょいとつまみあげてから店の袋へと投げ込む。
「ほら。これ、持っていってくれ」
「え?あの」
「買い食いなんてしたことないか?金ならいらない。俺のおごりだ」
「そ、そんな!ただでなんて、受け取れません」
「いいんだよ一つ位。俺が焼いたんだし。あんたのおかげで、今俺めちゃ気分いいんだ。
これはお礼」
半ば押し付けるようにしてアルノルドは少女にパンを渡す。
「これでうまいって思ってくれたら、あんた常連になるかもしれないだろ?そしたらめっけもんだ」
もう一度この少女に会いたい。もっと話がしたい。アルノルドは少女をしっかりと見つめながら強く思う。
「……あ、あの……。ありがとう、ございます」
困った様に、それでも少し嬉しそうに微笑んだ少女は、そうやってアルノルドの店の常連になった。
◇◆
足繁く通う少女の名前がエリザだということも、彼女がアルノルドの一つ年下だと言うことも、読書が好きだということも、話をしていくうちに知っていった。
エリザは決してお喋りな方ではなかったが、アルノルドが頻繁に話しかけるうちに、段々とエリザの方から声を掛けてくれるようになった。ある日を境に頻繁に店番を手伝うようになった息子を訝しんでいた父親も、エリザの存在を知ってからはにやにやと含み笑いをしながらもエリザが店を訪れるとアルノルドに声を掛けるようになった。
「それで?今日は何にするんだ?」
店先で佇んでいるエリザにアルノルドが微笑み掛けると、エリザはぐっと息を詰まらせたようになり、そして意を決したようにぐいっと身を乗り出してきた。
「あ、あのね。今日……今日って、お昼すぎ、時間無いかな」
「え?」
「あ、あのね。あの……アルノルドに見せたいものがあって……。今日、霧の公園に行けないかな」
「見せたいものか?」
「う、うん」
それっきりエリザはもじもじとして口を閉じてしまった。ひどく照れている。アルノルドは不思議に思ったけれど、午前中は店に出れば、午後から抜ける事は出来るだろう。
「いいけど」
「ホント!?」
エリザはぱっと顔を上げると嬉しそうな表情を浮かべた。アルノルドの心臓が僅かに跳ねる。
「そしたら、正午になったら、また迎えに来るから」
「あぁ、分かった」
「またね!」
「え?あ、おい」
身を翻すと、満面の笑みを浮かべながらエリザが走り去る。あっけにとられながらアルノルドはその姿を見送った。
「……デートか」
何時の間に現れたのか、背後から聞こえた父親の呟きに、アルノルドはぎょっとしながら振り返る。
「な、何だよ親父。居たなら返事位しろって」
「馬鹿野郎。エリザちゃんがパン買いにきたんじゃねーことくらい、あの態度見りゃ分かるだろうが。この盆暗」
「なっ」
「しかしまぁ、まさかエリザちゃんからねえ……。お前みたいなひょろひょろのどこがいいんだろうなぁ」
「よ、余計な事いってんじゃねーよ!!」
耐え切れずにアルノルドは店の奥へと引っ込んでしまった。鼓動が早まる。アルノルドは今のがデートの誘いと捉えていいのか判断が付かなかった。今まで何度も、店の外でエリザと過ごせたらと考えなかったわけでは無い。それでも、聡明で可愛らしい少女を前に、馴染のパン屋とその客という関係を下手に壊したくないという臆病さがアルノルドの中にあった事は確かだった。
アルノルドは思わず時計を見る。正午まではまだまだ時間があった。どくどくと暴れ出した心臓の音を聴きながら、アルノルドは気を取り直して再び店内へと戻っていった。
◇◆
アルノルドは正午の少し前から店先でそわそわとエリザを待っていた。店番に出ていた恰好では無い、一張羅に身を包んでいる。余り意識しすぎてエリザの目的が決してそういうことでは無い可能性も踏まえてはいたが、それでもアルノルドは自分が持っているそう多くは無い服の中から、少しでも上等に見えるものを苦心して選んだ。
通りの向こうからやってきたエリザの姿を見つけて、アルノルドの心臓がまた一際跳ねた。
「アルノルド!」
エリザは朝来た恰好と同じだった。けれど脇にバケットを抱えている。
「ごめんなさい。待たせちゃった」
「いや、まだ正午になってないからな。俺が早すぎた」
待ちきれなかったとは言えるはずも無く、アルノルドはもごもごと言い訳にもならない内容で誤魔化した。
「じゃあ、行きましょう」
にこりとエリザが笑う。控え目ないつもの微笑みでは無く、満面の笑みだ。愛らしさに、アルノルドは正面から捉えきれずに思わず視線を泳がせた。
2人は公園に辿り着くまでにほとんど途切れる事無く話続けた。
エリザの両親の事。遠い街からこの街にやってきて、とても不安だったこと。友人たちとの別れ。霧と煙に包まれた真っ白なこの街に驚いたこと。なかなか親しい人間が出来ず、とても寂しかったこと。
「……だから、アルノルドが話かけてくれた時、驚いたけど、凄く嬉しかったの」
「そんなの、俺のほうだってそうだ」
霧の公園に到着した時にエリザからそんな科白を聞かされた時、アルノルドはほとんど反射的に応えた。
「え?」
「……俺、あの時エリザに凄いって言ってもらえた事、本当に嬉しかったんだ。だって、パン屋の息子だぜ?パンが焼けて当たり前、手伝いをして当たり前。ずっとそんな風に思ってきたからな。エリザに褒めてもらって、凄く嬉しかった」
気が付けばじっと、エリザがアルノルドを見つめていた。アルノルドもじっと、エリザを見つめ返す。そうしてお互いの瞳の奥にあるものを必死に探して、2人ははっとすると、微笑み合った。
「あ、ほら見て。アルノルド」
エリザが指さした方向に視線を向けると、アルノルドは思わず感嘆の声を上げる。
「へえ、こりゃ綺麗だ」
公園の中心、大きな花壇に、色とりどりの花たちが咲き乱れている。正午だというのに、霧の公園の名にふさわしく、辺りはうっすらと霧がかかっているが、涼しい空気の中で咲き誇る花たちは生命力に溢れていた。
「そうでしょう?きっと、ここでお昼を食べたら、美味しいだろうなって思ったの!」
エリザとアルノルドは芝生まで歩いていくと見晴しの良いところに敷物を敷くと、腰を下ろした。
「あぁ、確かに外で食べるのはいいもんだ」
それに、アルノルドにとってはエリザと2人きりで居られる事だけで、叫び出しそうな位最高の時間に感じられた。
腰かけると、エリザは抱えていたバケットから次々と料理を広げていった。
色とりどりの料理はどれも手が込んでいるのが一目瞭然で、アルノルドは驚きの声を上げる。
「何だこりゃ凄いな!これ全部エリザが作ったのか?」
エリザは恥ずかしそうに俯きながら、とても嬉しそうに笑う・
「いつも、美味しいパンを食べさせてもらってるから……。そのお礼になればなって。
ど、どうぞ」
おずおずと差し出された取り皿を受け取ると、さっそくアルノルドは卵焼きに手を付ける。
美味い。それに、良く見ればどれもこれもアルノルドの好きな食べ物ばかりだ。
「ど、どうかな?」
エリザがとても不安そうな表情で問いかける。
「うまい!凄い美味しいぞこれ。すげえなエリザ。料理の才能がある」
「……え、えへへ」
アルノルドの言葉にはにかみながら、エリザは料理に夢中なアルノルドをじっと見つめていた。
エリザの視線に気が付いたアルノルドは、取り皿を置くと、不思議そうにエリザを見つめる。
「アルノルド」
「……何だ?」
「もしね、もし……良かったらこうやって。また、一緒に出掛けたり出来ない、かな」
精一杯の勇気を持って、言った言葉なのだろう。慣れない街に訪れて、ずっと不安でいっぱいだったに違いない。そんな彼女に、たまたま声を掛けただけだ。そう思いながらもアルノルドは心の中で叫ぶ。だから、それが何だと言うのだ。きっかけが何にせよ、エリザの気持ちがどこにあろうとも。アルノルドはもう溢れる気持ちを抑えようとは微塵も思えなかった。
「エリザ」
「う、うん」
「俺はこんなうまい料理食ったのはじめてだ」
「そ、そんな。大袈裟だよ」
「凄い美味い。ありがとな」
「う、ううん」
「あと、俺今からちょっと困らせる事言うかもしれないけど、ごめんな」
「え?」
「……初めて会ったときから好きだった」
「え?」
「エリザが可愛くてしょうがない」
「え、え……?」
「エリザはどうだ?……俺の勘違いだったらごめん。ただの友達として俺を見てるんだったらごめん」
「あ、あの……」
「うん」
「わぁ……」
「ん?」
「わたし……」
エリザの顔が見る見る歪んでボロボロと大粒の涙が零れ落ちるのを見て、アルノルドはぎょっとすると体を近づける。
「ど、どうした!?」
「だ、だって……!だって……!!」
ぐすぐすと泣くエリザを前に、アルノルドはおろおろとするばかりで、手を差し伸べかけてはそれを引っ込めたりしていたが、意を決したようにエリザの頬に手を当てると、涙を拭った。エリザはびくりと体を強張らせたが、一瞬止まった様に思えた涙は再びエリザの目から溢れる。
「ど、どうしたらいいか、分からなかったの……!!会いたく、てお店にいって。は、話したくって行くの。でも、私全然話せないんだもの。緊張して、う、上手く言えなくって。
アルノルド、優しいから我慢してくれるのかなって。わ、私にだけ優しいんじゃないって。
だけど……!!」
ぐっと涙をこらえながら、エリザはアルノルドを見つめる。お互いがじっと、見つめ合いながら、アルノルドはほとんど茫然としながらエリザの言葉を待った。
「だ、けど、私頑張ろうって決めた、の。アルノルドに、好きになってもらいたかったから。だからなの。だから今日、一緒にお昼に誘ったの。だからなの」
次の言葉を待たずに、アルノルドはエリザを抱きしめた。
「……今、好きになってもらいたかったから、って言ったよな」
「……!!」
「とっくに好きだ」
「……う、うん……うん……私も……」
体を離すと、アルノルドはエリザの顔を覗き込む。もう涙は止まっていた。
「エリザ」
「はい」
「また、来ような。ここで、お昼食べよう。それだけじゃない。2人で、色んなところに行こう。……ずっと一緒に居ような」
「……はい!」
2人は見つめ合い、嬉しそうに微笑み合う。
いつの間にか晴れた霧の中から、太陽の光で輝くたくさんの花たちが顔を出していた。