北窯の食卓「あの子たちは客ではありません」と言われたので自分たちで食卓を作ります
「あの子たちは客ではありません」
そう言われたとき、私は十二枚目の招待札をまだ手に持っていた。告げたのは冬越し祭を取り仕切るグランデル子爵だった。
王都の冬越し祭は十二日後に始まる。祭りの最終日には、貴族も商人も港で荷を担ぐ者も、同じ広場で食事をする。少なくとも、私が子どものころはそうだった。
「失礼ながら、閣下。去年までは北釜の子も招かれておりました」
「去年までの話をしているのではない。あの食卓は今年から招待客のためのものになる。王都の品格を示す席だ。施しを受ける側が並んでは、客人が落ち着いて召し上がれん」
「子どもたちは施しを受けるだけではありません。皿も洗いますし、祭りの前には――」
「私は北釜を十年も支援してきた。あそこに何人いるかも知っている。子どもの善行を聞くために、ここへ来たわけではないのだよ」
北釜は王都北区の共同食堂だ。孤児だけでなく、病気で働けない人、港の仕事が途切れた人、今夜だけ火を使う場所がない家族にも食事を出す。朝と夕方、釜が二度開く。私はそこで料理頭を務めていた。
「ついでに伝えておこう。北釜の運営は春で終了する」
紙の端が、手のひらに食い込んだ。
「……いま、何と」
「用地を売る。北門と港を結ぶ道が拡張されるのでな。老朽化した建物に補修費を出し続ける余裕は、市にはない」
「食べ物を配るだけで、人が自立できるのかね。あの施設を残すより、北区を新しい商業街にする方が、長い目では多くの人を助ける」
「明日の朝食が要る人は、春まで待てません」
「だから冬までは使わせると言っている」
言い返そうとしてやめた。ここで招待札を握り潰しても、明日の小麦粉は一袋も増えない。
退出の礼をしてから廊下を歩いた。城の床はよく磨かれていて、靴音がひどく響いた。腰の袋には、子どもたちが選んだ招待札の飾り紐が入っている。赤、青、黄。裁縫の得意なエッダが、昨夜遅くまで編んでいたものだ。
*
「おかえり! 何の料理が出るって?」
北釜の裏口を開けるなり、エッダが走ってきた。十二歳。ふだんは年下の子の面倒を見ていて、祭りの話になると自分が十二歳だということを思い出す。
「まだ献立は決まっていないそうよ」
「じゃあ、去年の鴨の丸焼き、また出るかな」
「今年は、私たちの招待席がないの」
「……あ、そう」
エッダの声がわずかに上ずった。気にしていないふりをするとき、最後の母音だけ高くなる。
「まあ、いいよ。人が多いと、トーヴは迷子になるし」
「そうね。でも、みんなの紐を編んでくれたでしょう。ごめんなさい」
「別に。余った毛糸だし」
エッダは厨房へ戻った。背中を向けるのが少し早すぎた。
中では、見習いのライが玉ねぎを刻んでいた。十五歳。玉ねぎを切るときだけ、亡き父の形見だという黒い包丁を使う。刃元に小さな欠けがあるため薄切りには向かないが、取り上げると不機嫌になる。
「遅かったですね。豆、もう煮ました」
「塩は?」
「まだです」
「上出来。最後に入れれば皮が割れにくいから」
「何回も聞きました」
「なら一度で覚えて」
長い木べらで鍋を底から混ぜる。白いんげん豆、細かく刻んだかぶの葉、骨から取った出汁。湯気に顔を近づけると、肩の力が戻ってくる。この匂いの中でなら、落ち着いて順番を考えられる。
包丁の音が途切れた。
「エッダ、去年から楽しみにしてたのに。何で泣いてないんですか」
「ここで泣いたら、私が困ると思ってるの」
奥の食堂では、トーヴが木椅子を運んでいた。椅子の脚を床で引きずるたび、本人より大きな音がする。人の数に合わせて並べているが、いつも一脚多い。
数えると、今日も十三脚あった。食べに来る子は十二人。空席を一つ残す理由を、私はまだ聞けずにいる。
「椅子を運ぶの、手伝おうか」
「ぼくができる」
トーヴは一脚の位置を直し、最後に空の椅子へ手を置いた。
「今日も、十三だよ」
その夜、春の閉鎖をマルタさんに打ち明けた。六十五歳の彼女は私を育てた料理人だ。
「子爵は今年の祭りを大層気にしてるからね」
「閉じれば土地が売れる。土地を売れば、見栄えのする道を造れる。道ができれば王都の評判が上がる。筋は通ってるよ。腹の立つ筋だけどね」
「春までに別の家を借りられると思いますか」
「家だけならね。厨房の煙突、貯水槽、毎日荷を運ぶ道、それに今の家賃。全部そろった場所は簡単には見つからない。ここは四十年かけて食堂になったんだ」
窓の外をエッダが通り過ぎた。赤い毛糸が彼女の手首に巻いてあった。招待札に結ぶはずだったものだ。
祭りが始まったころの言い伝えを尋ねると、マルタさんは即答した。
「一つの鍋に、椅子の数だけ」
「最初の冬越し祭は、飢饉のあとだった。店も貴族の家もかまどを持ち寄って、広場で食べた。客を招く祭りじゃない。食べたい人間が座る祭りさ」
「じゃあ、今年は私たちが自分で食卓を作ります」
「どこに?」
「広場に」
「招待されてないんだろう」
「食事をしに行くんです。招待を受けに行くわけじゃありません」
「全員分、椅子を用意します」
「十三人分の気持ちで話してるなら、やめときな」
「祭りの夜、腹を空かせてるのは北釜の子だけじゃない。あんたは最初の皿を誰に渡すつもりだい」
答えが出なかった。
*
翌朝、市会館の窓口で出店を申請すると、事務官は私の書いた「無料」の二文字を指で押さえた。
「それでは市場の出店ではなく慈善事業です。監督官の承認が必要になります」
「監督官は?」
「グランデル子爵閣下です」
有料なら金貨二枚の保証金がいるという。冬の薪代と同じ額だった。
「ミナちゃんかい」
背後から声をかけたのは港の荷役組合長ベルクだった。北釜へ時折、銅貨を置いていく人だ。事情を話すと帽子をかぶり直した。
「金は工面できても、子爵に逆らえば港の契約が危うい。組合にも家族がいる。話だけは持ち帰るが、当てにしすぎるな」
食事を受け取る人ばかり思い浮かべていた。届ける側にも、夕飯を待つ誰かがいる。
昼過ぎ、薪商人のフーゴが黒い石炭の見本を持ってきた。混ぜ物が多く、これを燃やせば厨房に煤が回る。
「来月から良い薪を回せない。新しい道路の工事で運び賃が変わるんだ」
「今月の分は?」
「契約どおり。ただ祭りには人手を出せない」
先代から北釜へ納めている人が、今日は戸口から中へ入ろうとしない。私は朝のパンを半分渡した。
「食べきれなくて」
そんな大きなパンではなかった。フーゴは石炭の袋を引き取り、「こんな物は使うな」とだけ言って去った。
*
その夜、エッダの皿だけが半分残っていた。
「お腹がいっぱい?」
「そういう日もあるよ」
私が下がると、エッダはまた一口食べた。三口で終え、残りを陶器の蓋つき容器へ移した。夜中に起きる子用に置いてある容器だ。
片付けのあと、私はそこを開けた。
白い豆と、一切れの肉。給仕のとき、エッダの皿には肉を二切れ入れた。今日はトーヴが熱を出しかけていたので、栄養をつけるために多めにしたのだ。エッダは自分の肉を食べず、トーヴの夜食へ回したらしい。
エッダには別の家で暮らす六歳の妹がいる。あの子は食べ物を分けるとき、いつも先に妹の分を考える。
私は容器の蓋を閉じ、彼女の寝床へ行った。毛布の下で膝を曲げ、眠っている。枕元には木箱があり、赤い毛糸の紐が丸く収められていた。
それでも私は、母と暮らしていたころの癖を直すのに三年かかった。母は働けなくなると、私にだけ肉を食べさせた。最後の冬には自分の皿へ一度も肉を盛らなかった。
足りないことを子どもに隠しても、子どもは知る。
朝になったらエッダと話そう。そう決め、私は厨房に戻った。
けれど翌朝、彼女はいなかった。
食堂の隅には、短い黄色の紐が一本残っていた。
*
エッダが見つかったのは、北門の市会館だった。
「十二歳の娘を使いに寄こすとは、ずいぶんなやり方だな」
声の主はグランデル子爵だった。
彼の前にエッダが立っていた。両手に抱えているのは、うちで使っている木の椀。欠けた縁を薄い銅板で修繕してある。エッダが初めて銅板を打ったとき、釘が曲がってしまった椀だ。
「使いではありません!」
人垣に割って入ると、エッダが振り向いた。目のふちは赤いが、泣いてはいない。
「ミナさん。これ、持ってきたの」
「どうして黙って出たの。心配したでしょう」
「この子は私の前に椀を突き出し、祭りで食べさせてほしいと頼んだ。慈善の場にふさわしくない振る舞いだ」
「違う!」
エッダの声が石段に響いた。
「私が料理を出したいって言ったの。北釜はいつも食べる側だと思われてるから、ちゃんと料理ができるって見てもらおうと思ったの」
「この子の言うことに間違いはありません」
私は子爵に一礼した。
「許可は出さん」
「慈善の食卓だろうと市場の屋台だろうと、今年は認めない。北釜は招待されていないのだ」
「組合が管理する場所でもですか」
「必要だ。祭りの期間、市の保安については私が最終責任を負う。衛生上の不安がある出店を認められると思うかね」
私はもう一度、頭を下げた。エッダを連れて歩きだす。
「ミナさん。私、変なことした?」
会館が見えなくなってから、彼女が聞いた。
「黙って出たのは駄目。遠くへ行くなら、必ず誰かに話して。あなたが帰ってこない間、トーヴもライも食事を忘れて探してた」
「……うん」
「でも、料理を出したいって考えたことは、変じゃない」
「私、去年の鴨、好きだったから。みんなにも食べさせてあげたかった」
「うちの子たちにもさ、誰かが作ったごちそうを食べさせてやりたいじゃない。だから私が上手になれば、食べられるでしょ」
橋の手前で私は立ち止まり、腰を落として彼女と目を合わせた。
「エッダ。あなたは、誰かに食べさせるためだけに料理を覚えなくていい。自分が食べたい物から作ってもいいんだよ」
「……じゃあ、今日は肉?」
「今日は肉」
「二切れ?」
「あなたのお皿に、二切れ」
彼女は返事をせず、空いている方の手で私の袖をつかんだ。
*
北釜に戻ると、マルタさんが私を厨房の裏へ呼んだ。
「春で終わりだってね」
「誰から聞いたんですか」
「フーゴさ。北区の商人へ、新しい道路の工事図が回ってる。釜の建物もその中だ」
「子どもたちには、まだ話していません」
「でしょうね」
「頼んだだけだろう。フーゴは祭りの薪を運べない。麦の仕入れ先からは、今朝、前払いを求める知らせが来た」
「知りませんでした」
「知ろうとしなかったからね」
「私が何とかします」
「そう言うと思った」
「その言い方をやめな。北釜はあんた一人の台所じゃない」
「分かっています」
「だったら、今日の午後に皆を集めるよ。子どもたちにも、働いてる者にも、食べに来る大人にも。春の話もそこでしよう」
「不安にさせます」
「黙っていれば安心すると思うのかい」
「それだけじゃない。あんたが毎晩遅くまで何か書きつけてるのを見て、自分も働かなきゃいけないと思ったんだ。女の子には女の子の心配がある。そこまで大人の顔をしていれば、なおさら」
「私たちは別の場所を探す。それでも見つからなければ、春には離ればなれになるかもしれない。その話を子どもにするのが怖いんです」
「怖いなら、一緒に座るんだよ」
マルタさんは立ち上がった。
「逃げずに話すことと、必ず助けられると約束することは違う」
その日の午後、私は初めて北釜の食卓の端に座って、春の話をした。
*
春の話を聞いて、最初に泣いたのは大人だった。
向かいの路地で洗濯屋をしているリネさんだ。夫は港で脚を傷め、冬は仕事が減る。昼の仕込みを手伝う代わりに、二人分の夕食を北釜で受け取っている。
「うちの人は、また遠い施療院まで歩けってことかい」
「まだ移転先は決まっていません。市の補助金も春以降は未定です」
「未定って、今だってぎりぎりなのに」
彼女は顔を覆った。私には何も言えなかった。
マルタさんが黒板を引き寄せた。
「今できることを決めようか。移転先を探す人。日々の食事を回す人。祭りの食卓を作る人。三つに分けるよ」
「祭りまでやるのか」
ゲルトが顔を上げた。
「十三人の子を招待してもらえなかったのが、そんなに悔しいか」
「悔しいです」
「エッダの紐を見たとき、本当に悔しかった。でも、それだけで動こうとしたのは間違っていました」
「祭りの日だけでも、北釜を知らない人と同じ食事をしたいんです。施しを受ける人と施す人に分かれずに。お金を払える人は払って、払えない人は食べる。それが王都にとって何の役に立つか、私はまだ上手に説明できません。だから、一緒に考えてほしい」
「俺は食器を運ぶ」
最初に手を上げたのはライだった。
「料理は俺も作れる。ミナさん一人で何百人分も作るの、無理ですから」
ゲルトが移転先探しに手を挙げ、リネさんは布を集めて屋台の日よけを縫うと言った。港から来ていた二人の荷役が、祭りの日なら仕事が休みだと話した。
そのうちトーヴが手を上げた。
「ぼくも」
「何ができる?」
「いすをならべる」
「ひとつ、あまらせていい?」
聞かれて、私は初めて彼の空席の理由を尋ねた。
「いいけれど、誰の席?」
「おかあさん」
トーヴの母親は三年前、病気のため北釜から別の街の施療院へ移された。生きているという知らせは届いているが、長い旅をできる状態ではない。母親の顔をはっきり覚えている子も少なくなってきた。
「帰ってきたら、いすがないと困る」
「でも、ぼくは十三ばんめにはすわらない。おかあさんのだから」
マルタさんは何も言わず、黒板の一番下に「椅子を並べる トーヴ」と書いた。
私はその横に「予備一脚」と付け加えた。
*
祭りまで九日。
まず試したのは、近所の許可を得て北釜の前の通りに食卓を出すことだった。
試作の献立は、冬野菜のとろみ汁と小さな丸パン。肉は入れない。出汁を取った骨から、取れるだけの肉をほぐして戻した。
「一皿、銅貨三枚。払えない人は無料です」
五分たっても客が来ない。
港から帰る人たちは看板を見たあと、食堂の前を急いで通り過ぎる。「払えない人は無料」の文字を見て、わざと距離を取る人もいた。
エッダは通りを見渡した。
「じゃあ、食べてもらえばいいじゃん」
彼女はパンをひとつ割り、通りかかった靴職人の老人に差し出した。
「味見だけどうぞ」
「買えと言うのかい」
「いいえ。食べてから決めてください」
「一皿くれ。パンは二つにできる?」
「追加は銅貨一枚です」
やがて二人、三人と腰かけ、席はいっぱいになった。食べた人が別の人を呼び、鍋の底が見えたのは日が沈む前だった。
初日の売上は銅貨九十二枚。食材と燃料の費用を差し引くと、残ったのは二十三枚だった。百人分の食事には到底届かない。もっと悪いことに、支払える人ばかりが来たため、無料で食べたのは二人だけだった。
「大成功だったじゃん」
「売れたけど、北釜を知らない人は、無料って書いてあっても座りにくいみたい」
「じゃあ、無料って書かなければ」
「払えない人が困るでしょう」
「お皿に値段を書かなくていいんだよ。食べる前にお金の話をされるの、嫌だもん」
「最初に席へ案内して、帰りに払える人だけ払えばいいのか」
「うん。逃げる人もいるだろうけど」
「逃げたい人を追いかけるより、食べたい人を呼んだ方がいいよな」
翌日の看板には、金額の代わりに一行だけ書いた。
『まず、お座りください』
その日、無料で食べたのは十一人。売上は前日より減ったが、寄付箱には小さな銅貨のほか、きれいな針が一本と、薪の引換札が二枚入っていた。
寄付箱を覗いたゲルトが笑った。
「金がないときは、物を持ってくる。北区らしいやり方だ」
*
祭りまで七日。試しの食卓に来る人が増え、エッダは食べた人から味の感想を集めた。
「汁が薄いって」
「薄くない。塩は高いんだぞ」
ライは言い返したが、翌朝には塩壺の前へ「一つまみずつ」の札を置いた。私はその字を見て笑った。
笑っていられないのは食堂の勘定だった。薪は値上がりし、麦商は前払いを求める。私は自分の給金を二度延ばした。
「自分を抜いた勘定は勘定じゃない」
マルタさんに布巾を取り上げられた。
「昔あんたが働きすぎて寝込んだとき、代わりに釜を守ったのは誰だった? あんたが倒れれば、ライたちが余計に働く。少し休みな」
翌朝の仕込みをライに任せると、彼は「できます」と言った。喜ぶでも威張るでもない返事だった。
*
午前のうちに、北釜へ衛生検査官が来た。
ひびのある貯水槽の前で、検査官の一人が顔を曇らせた。
「外から汚水が入る可能性があります。水質を調べるまで、飲用と調理には使えません」
貯水槽は厨房のすぐ裏にある。井戸は一つ先の通り。毎日二百人分の水を運ぶには、荷車と人手が要る。
「その間、井戸水を運んで使うのは」
「煮沸し、容器の衛生を保てるなら認めます。ただし次回の検査で確認します」
検査官は口調を和らげた。
「こちらも止めたいわけではありません。あなた方の規模で汚染が起きれば、被害は大きい」
検査官の言い分は正しかった。これを子爵の嫌がらせと決めつけて無視することはできない。
彼らが帰ると、私はすぐにゲルトへ相談した。荷車を貸してもらい、リネさんには予備の大桶を集めてもらう。ライが飲用と洗浄用の容器に別々の印をつけた。
井戸へ二往復したあと、腰を伸ばしていると、トーヴがやってきた。
「おみず、おいしい?」
「いつもと同じだよ」
「じゃあ、ここにもってきてよかった」
彼は両手で小さな水差しを差し出した。中には澄んだ水が半分入っている。
「ありがとう」
飲みきると、トーヴは空の水差しを受け取った。
「ミナも、すわってたべてね」
「今日はちゃんと座る。約束する」
「じゅうさんばんめに?」
「その椅子は、お母さんの席でしょう」
「もういっこ、もってくればいいじゃん」
私は空になった水差しの重さを、しばらく手の中に残していた。
夕方、子爵から広場への出店を認めないという書状が届いた。衛生事故を危ぶむのは、監督官として当然だ。
「検査に通らなければ出しません。通れば、許された場所で食卓を作ります」
使者にはそう返した。
市の地図を広げ、通行を妨げない場所を探した。広場は使えない。残ったのは北釜の裏の石畳の中庭。半分は北釜の借地、半分は石工組合の土地だった。
私は夜のうちに石工のゲルトを訪ねた。
「中庭を貸してくれ、か」
ゲルトは石粉だらけの机で首をひねった。
「客は時間ごとに入れ替えます。井戸水を運び、外では火を使いません」
「それでも組合長の許可が要る。今度の道路工事で、若い石工十六人の仕事が増えるんだ。俺一人の気持ちで決められない」
彼は北門の図面を裏返した。
「でも道を北へ少し振れば、北釜を残せるかもしれん。仕事は減らさずに済む。明日、組合へ案を持っていく」
「そこまで頼むわけには」
「俺がやりたいからやる。嫌なら一人で石を削るか?」
台の端には紐を通す穴を開けた石の鳥があった。ゲルトはエッダにと一つくれた。「うちの娘の友だちだからな」と笑った。
*
翌日、石工組合の集まりに行く前、エッダが外出の許可を求めた。
「妹のところへ、少しだけ」
「送っていこうか」
「ミナさん。私がまた勝手に出ていくと思ってる?」
「じゃあ、行ってきます」
玄関で靴紐を結び、彼女はまっすぐ私を見た。
「夕方には戻る。約束する」
送り出したあと、私は自分の心配が彼女の自由まで小さくしていることに気づいた。
北釜は家族だと胸を張るほど、あの子に十分なものを与えられているのか。
夕食前に戻ったエッダは、丸めた紙を持っていた。
「ミリーから」
開くと、人の絵が二人と、テーブルが一つ描かれていた。テーブルの上には大きな皿。皿の周りに赤と黄色の点がある。
「ミリー、祭りの日に来たいって」
「もちろん」
エッダは絵を畳み、しばらく指で折り目を伸ばしていた。
「私、ミリーと一緒に暮らしたいと思ったこと、あるよ」
返事を急げなかった。
「でも、ここを出たくないとも思う。ライもうるさいけど、いてほしいし。トーヴはすぐ椅子を引きずるけどさ」
「どっちかだけ選ばなきゃ駄目なのかな」
「今すぐ選ばなくていい。仕立て屋さんと相談して、会える日を増やすことだってできる。暮らす場所を変えたいと思うなら、それも一緒に考えよう」
「ミナさんは、私が出ていったら困る?」
「困るよ」
「玉ねぎをむくのが上手だし、ライと言い合いながらちゃんと味を見てくれる。いなくなったら寂しい。でも、それを理由に引き止めたくない」
「じゃあ、まだここにいる。ミリーには祭りで会えるし」
エッダの方から近づき、肩に額をつけた。
「……ちょっとだけ、こうしてて」
私は彼女の背中に腕を回した。
*
翌日の石工組合では、ゲルトの道路案に厳しい声が飛んだ。
「石垣が余計に要る。工期も延びる。子爵が認めるか」
組合長はそう言いながら、費用の欄を何度も確かめていた。私は工事の議論が終わるのを待って、中庭を借りたいと申し出た。
「衛生検査で問題があったという食堂に、土地は貸せん」
「給水方法を変え、再検査を受けます。通らなければ中止します」
「組合の土地で事故が起これば、責任を負うのはわしだ」
「ですから、守るべき条件を教えてください」
組合長は火を使う場所、通路、食品管理を挙げた。前日までにすべて満たせたら、使用を認めるという。
外へ出るとゲルトが肩をたたいた。
「断られなかったな」
「条件を守れるかは、これからです」
*
祭りまで五日。
北釜の貯水槽は使用停止のまま、井戸水の運搬は毎日続いていた。市の検査官は再び来て、仮の給水方法と食器の洗浄手順に問題がないことを確かめた。ただし貯水槽を修理するまでは、給水量を増やせない。
「祭りの日の人数を考えると、この厨房で出せるのはせいぜい百五十食だ」
「水も食器も限りがあります。たくさん作れば、それだけ休めなくなる」
私は二百食を目指していた。いや、心の中ではもっと大きな数字を考えていた。王宮の大食卓に負けないほどの食卓。そんな願いを自分のために持っていた。
「じゃあ、百五十食にしよう」
「できる数だけ、ちゃんと出す。足りない人が出るなら、ほかの店にもお願いする。それならどう?」
「それなら、できるかもしれません」
「俺が献立、考えていいですか」
「鴨の丸焼きみたいなものじゃなくても、ちゃんとごちそうにしたい」
「冬野菜を焼いたのと、豆の煮込み。あと、パン。パンは俺が作りたい」
「父ちゃん、港の小さな食堂で働いてたんです。船員に食べさせるパンを毎日焼いてた。俺は手伝いもせずに外で遊んでたけど、父ちゃんが死んだあと、その店の人が包丁だけ渡してくれた」
「料理を覚えれば、父ちゃんに近づける気がしてた。でも最近、父ちゃんの料理を俺は知らないって、やっと分かったんです。覚えてるのは台所にいた背中だけで」
「だから、俺のパンを作る。エッダが好きだって言ってくれるようなの」
欠けた包丁では、パン生地をうまく切れない。
彼は翌日、その刃を研ぎ屋に預けた。欠けた部分を削ると少し小さくなるが、それでも使いたいと言った。
「父ちゃんのじゃなくなっちゃったみたいだな」
「嫌だった?」
「……いいや。今度から、俺がちゃんと使うから」
初めてのパンは焦げた。二度目は膨らまず、三度目は中が生だった。
「明日の朝、見てください」
彼は失敗したパンを捨てず、薄く切って乾かした。翌日の汁に入れてみるつもりだという。
祭りまで四日。王宮への納品が増え、麦商組合の議員でもあるシーナは、北釜への小麦粉を半分に減らさざるを得なかった。
「向こうの契約が先なの。うちの息子にも食べさせなきゃならないしね」
「いつもの半分でお願いします」
シーナは奥から売れ残りのひき割り麦を出してきた。
「粒が揃ってないだけ。煮込みには使える。安くするけど、ただにはしないよ」
その夜、ライが四度目に焼いたパンは形こそ悪かったが、中までふっくらしていた。
「これ、祭りでも食べられる?」
エッダに聞かれたライは、返事の前に二個目を手渡した。私は翌朝に残そうとしたパンを、マルタさんに皿へ戻された。
「今、食べるんだよ」
*
翌朝、子爵は護衛を連れず、北釜へ来た。煤で汚れた戸口を見上げ、硬い椅子に腰を下ろす。私はお茶と、ライの焼いたパンを出した。
子爵はパンを半分に割り、一切れ口にした。驚くほど丁寧な食べ方だった。
「思ったより良い。王宮でも通用する」
「そこで話がある。北釜のために、代わりの建物を用意しよう」
子爵は卓上に簡単な見取り図を置いた。
北門を出て、馬車で一時間。倉庫として使われていた石造りの建物。すでに大きな竈があり、井戸も使える。移転費用の一部は市が負担するという。
「なぜ、こんな条件を?」
「悪人に見えるかね、私は」
「建物の老朽化は事実だ。道路が完成すれば、北区の仕事は増える。あの場所を残すより、新しい建物へ移る方が北釜のためでもある」
「子どもたちの学校から遠くなります。港の仕事帰りの人も通えません」
「移転先で新しい利用者を募ればよい」
「では、今食べに来ている人は」
「ミナ。私は王都全体の話をしている。君は自分の食堂から離れて物を見ようとしない。十人が困るから百人が得をする工事を止める。それが果たして慈善かね」
その言葉は胸に残った。北釜を守りたいという私の思いには、確かに自分の過去が絡んでいる。あの建物で育った。台所の匂いも窓の傷も知っている。
「考えさせてください」
「祭りの前日までに返答をくれ。受けるなら、広場で食事を出す話も取り下げてほしい。王都の祝祭を争いの場にするつもりはない」
「パンはうまかった。作った子に伝えてやってくれ」
この子たちの学校、仕事、友だち、これからできる誰かとの関係。その全部を遠くの建物へ動かすことはできない。
北釜はただの建物ではない。けれど、それを私の思い出だけで守ろうとしてはいけない。
考えるために、私は明日の午前を休むことにした。
*
翌朝、私は北門を出て、子爵が示した建物を見に行った。
石造りの倉庫は思った以上に立派だった。厚い壁が風を遮り、井戸の水は透き通っている。古い大竈には少し手を入れる必要があるが、ここなら二百食を作るのも難しくない。
それでも道中、食べ物を買える店は二軒しか見なかった。朝の北門には荷車が列を作るが、夕方には人通りが途絶える。
倉庫の向かいで犬を洗っていた農家の女性に尋ねた。
「食堂ができるなら助かるね。畑仕事のできないお年寄りが増えてるから」
「近くに食事を出す場所は?」
「二日おきに教会がパンを配るくらい。冬はそれも途切れるよ」
北釜がここへ移れば、助かる人がいる。反対に、北区の人は置いていかれる。
どちらかを選べば、どちらかが空腹になる。子爵の用意した図面の上では簡単な移転が、人の暮らしの中では全く別のことだった。
「私はオティーリエ。考えがまとまったら、また来なさい。道を知らない人が夕方に迷うと大変だから」
あの倉庫に食堂を作ることも、いつかできるかもしれない。片方を壊すしかない、と決めつけるのはやめよう。
北門へ戻ると、市会館の前に祭りの予定表が張られていた。最終日の午後に行われる、市議会の冬季予算会議。ここで翌春の工事と北釜の土地利用が決まる。
議員は七人。港、麦、石工、織物、金物、宿屋、市場商人から一人ずつ。子爵は市の監督官として議長を務めるが、予算の可決には議員五人の賛成が必要だ。
誰でも傍聴できる。ただし意見を述べるには、議員二人の推薦が必要だと書かれていた。
私はその場で、今まで自分が見ていなかった人数を数え始めた。
*
ゲルトとベルクに話をしたのは、その日の夕方だった。
「祭りの日の食卓を、議会へのお願いと一緒にしたいんです」
「私が議会で話せるよう、推薦をお願いしたくて」
「推薦はできる。だが港の組合が道路工事に反対するとは、まだ言えん」
「それならできる。ただ、言い方には気をつけろよ。工事そのものに反対すれば、荷役の連中はついてこない」
ゲルトは自分の作った代案を出した。
「北釜の北の通りを広げれば、道はつながる。工期は延びるが、運河沿いの石垣を一部使い回せる。これなら差額を減らせる」
「でも土地を売る収入がなくなります」
「そこが一番痛い」
「グランデルが見込んでる売却金で、新しい水路の補修をする計画だからな。あの金がなければ、水路が古いまま残る」
「北釜の建物を残すために、港の人の仕事や水を犠牲にはできません」
「だから反対するだけじゃ駄目だ。代わりの金と手間を用意しなきゃ、議員は首を縦に振らない」
「祭りだけの食事じゃなく、働く人にも食べてもらう。工事の期間中は朝食と夕食を有料で出します。今の食堂も続けます。今いる人の分を無料にできるよう、工事の食事で得た利益を回すんです」
「役所の工事に働く人間は、食事代を会社が一部負担する。そこへ北釜を使えれば、実際に安くなるかもしれん」
「ただし、厨房の設備を直さなきゃ無理だ。いまの人手では二食ずつ回せないぞ」
「工事が始まるまで収入はない。先に金を貸す者が必要だ」
私にはできないことばかりだった。予算も契約も、給水路も。
でも、それぞれの横にはゲルトやベルクが、自分ならできることを書いていた。
「私は料理を考えます」
ベルクが笑った。
「初めからそうしてりゃよかったんだ」
*
翌朝、移転を断り、議会で代案を示す旨を子爵へ書き送った。
中庭には三十六席を並べ、食事を四回に分ける。百四十四食。鍋も水も、それが精一杯だ。黒板に数を書くと、トーヴが椅子を指した。
「ひとつ足りない」
「お母さんの椅子?」
「うん。来なくても、だれかすわれるよ」
私は「百四十四人分」の隣に「予備一人分」と書き足した。全部で百四十五人分。ライが鍋の残りを確かめる。
「一杯多いぶん、俺が考えます」
「いすは、ぼくがもってく」
二人は仕事の分け方を、もう私に尋ねなかった。
祭りの二日前、中庭の使用許可が下りた。近所の人が箒を持ち寄り、ゲルトが石畳を直した。リネさんは縫った天幕を張り、ライは水桶の位置を決める。
「そこへ樽を置くと台車が通れません!」
「ライ、怒ってる」
「お願いしてるんだ!」
エッダが笑う。そこへ衛生検査官が来て、運んだ井戸水と食器の管理、調理場所を確認した。
「百四十五食を超えて提供しないこと。予備にも限りがあります」
「承知しました。安全を優先します」
検査に通った知らせを聞いたエッダは飛び跳ねた。通りを行く子爵の馬車が一度だけ速度を落とし、また走り去った。
準備の最後に、私は子どもたちに仕事を強制しないことを皆へ伝えた。手伝わなくても、食事は必ず出す。
「じゃあ、私が看板を書く」
エッダの字の下に、トーヴが丸い椅子を何脚も描いた。
『まず、お座りください』
『誰でも、食べていってください』
「誰でも、だと、食事が尽きたら困るかもしれない」
「なくなったら、なくなったって言えばいいでしょ」
彼女は毛糸を結んで、入口に看板をつるした。
*
マルタさんが厨房でしゃがみ込んだのだ。
鍋から立ち上る湯気を避けながら近づくと、額が熱かった。手が震え、立とうとしても足に力が入らない。
「大丈夫じゃありません。横になって」
寝床へ運び、近くの医師を呼んだ。肺の音を聞いた医師は、高い熱があるので休ませるように言った。重い仕事を続けているうちに、体力が落ちていたのだろう。
「私がやります」
「誰が全部やれと言った」
「私は休む。あんたも一人でやろうとするな。ライがいる。リネもいる。ゲルトもベルクも、あんたを助けようとしてる。頼みなさい」
「それに、祭りの当日、あんたは議会へ行くんだろう。そこでちゃんと話せなきゃ、私が寝てる意味がない」
「食べる物を作るだけなら、私らにはできるんだよ。あんたは、みんなが食べられる場所を残しておいで」
私はその手を握った。働きづめだった指は節が太く、今夜はいつもより熱かった。
寝息が整ったのを確かめてから、食堂へ戻る。
ライとエッダ、リネさん、ゲルトが待っていた。
「明日、マルタさんは休みます」
「だから、予定を変えたい。料理も運搬も、私だけではできません。みんなの力を貸してください」
「それ、今まで何回も言いました」
「ごめん」
「謝らなくていいです。俺、最初からそのつもりでしたから」
それから彼は、明日の仕込みを三つに分けた。パンを焼く人、煮込みを作る人、食器を管理する人。
私は三つすべてに自分の名前を書きかけたが、ライに止められた。
「一つにしてください。残りは俺がやります」
結局、私の担当は煮込みだけになった。
「ねえ、ミナさん。明日は自分の皿をちゃんと取ってね」
「これ、約束だから」
「約束する」
*
私はまだ暗いうちに厨房へ入り、最初の鍋へ豆を移した。
前の晩に水を吸わせた豆は、指で押すと柔らかい。細かく刻んだ根菜と一緒にゆっくり煮る。最後にひき割り麦を加える。スープより少し濃く、匙で一度にすくえる具の多い煮込みだ。
隣の竈ではライがパンを焼いている。小麦粉の量を減らし、ひき割り麦を混ぜた生地を、何度も捏ねた。形が揃っていなくても、それぞれに十字の切れ目がある。
「一釜目、焼けます!」
ゲルトと荷役の男たちが長机を並べ、椅子の脚に布を巻く。フーゴは井戸水を載せた荷車を入口に寄せた。検査官が来る時刻に合わせ、使用する桶はすべてふたをしている。
祭りの鐘が一つ鳴ると、最初の客が来た。市場通りの靴職人だった。試しの屋台で最初に銅貨を払ってくれた老人だ。
「今日はお代を先に払っていいかい」
「食べてからで結構ですよ」
次は洗濯屋の客。次は港の荷役。しばらくすると隣の通りの人も現れ、三十六の席はすぐに埋まった。食べ終えた人が食器を返し、待っている人へ席を譲る。
「誰でもって、本当かい」
「本当です。まず、お座りください」
「金がないんだ」
「食べ終わってから、払えるなら払ってください。払えなければ、それでおしまいです」
男は靴の泥を拭いてから、空いた席へ座った。
昼前、問題が起きた。
二つある鍋の片方が焦げたのだ。
煮込みの濃度が高くなり、底の麦が張りついてしまった。ひと口味見をすると、焦げた匂いが舌に残る。ここへ水を足しても食べられるようにはならない。
「いくつ分ですか」
「十五食ほど。これは出せない」
「ミナさん。昨日の薄切りパン、まだあります」
「でも、それは賄い用でしょう」
「今日みんなで食べる分です。汁と一緒なら柔らかくなる。パンの方を料理にすればいい」
薄切りパンに温めた出汁を吸わせ、炒めた玉ねぎと香草を載せる。北釜で何度も食べた簡単な料理だ。見栄えは良くないが、栄養も量もきちんとある。
「それなら、十五食分を作れる」
「俺がやります。ミナさんは次の人を案内して」
入口には長い列ができていた。子を抱いた若い夫婦、祭り見物に来た老女、仕事の合間に寄った職人。皆が料理を待っている。誰かに謝って列を閉めることになると、覚悟していた。
でもライが新しい料理を運んでくると、出汁の匂いに気づいた人たちが顔を上げた。
「今日は、パンの煮込みもあるそうです」
私が声をかけると、椅子に座っていた靴職人の老人が真っ先に手を上げた。
「そっちをくれ。昔、女房がよく作った」
焦げた鍋で失った分は戻らなかった。けれどライの工夫で、予定していた食数をほとんど減らさずに済んだ。
「助かった。ありがとう」
「父ちゃんの食堂でも、こういう日があったのかな」
「きっとあったよ」
ライは嬉しそうに笑い、次の皿を取りに行った。
三度目の食事を出したころ、エッダの妹ミリーが仕立て屋の夫婦とやってきた。
ミリーは新しい青い外套を着ていた。エッダを見つけるなり走り、抱きついた。
ミリーが絵を差し出した。そこには椅子がたくさん並んでいる。人は二人だけで、前の絵より椅子の数が多い。
仕立て屋の奥さんが私を呼び止めた。
「それで、少し相談したいことがあって」
「春になったら、エッダにも週に二度ほど、うちへ遊びに来てもらえないかと思って。できれば、いつか一緒に暮らすことも考えてもらいたい。でも、あの子の気持ちもありますから」
「今は北釜にいたいそうです。でも、気持ちは変わるかもしれません。そのときは、私からもお願いに行きます」
「では、まずは春の週二日から。迎えに行く役は夫が引き受けます」
エッダが聞きつけて戻ってきた。
「ちょっと、勝手に決めないでよ」
「まだ決めてないよ」
「なら、私も入れて」
彼女は空いている椅子を一脚運び、大人たちの輪へ加わった。
四度目の食事が始まったとき、杖をついた老女が一人、入口に立った。
席はすでに埋まっている。私が次の時間を案内しようとすると、トーヴが小さな椅子を引きずってきた。
「ここ、あいてるよ」
「あなたの、お母さんの椅子でしょう」
私が聞くと、トーヴは老女の足元を見た。
「おかあさん、きょうはこないもん。帰ってきたら、またいすを持ってくる」
老女は何度も礼を言って腰かけた。トーヴは空の椀を一つ持ってきて、ライに料理を頼んだ。
それが、その日百四十五杯目の食事になった。
銅貨だけでなく、小麦粉の引換札、修繕用の釘、布の束。食べ終えた人たちが自分にできることを置いていった。
港の荷役組合から来た男が、ベルクの封筒を持ってきた。
「組合で話はまとまりました。道路工事が決まれば、昼食をここに頼みたいそうです。人数と料金は、正式な見積もりを見てからですが」
「ただし、期日どおりに食べさせられなきゃ困りますからね」
石工組合からも、道の代案を市会へ提出したと知らせがあった。ゲルトの顔は疲れていたが、以前よりずっと晴れやかだった。
祭りの鐘が午後の会議の時刻を告げた。
私は前掛けを外した。エッダがその紐を受け取り、代わりに赤い毛糸を手渡した。
「お守り」
「これ、あなたの招待札の飾りでしょう」
「もう招待札いらないもん。自分たちで食卓を作ったから」
私は赤い紐を手首に巻いた。
「ありがとう。行ってくるね」
「うん。ちゃんとごはん食べてからね」
私は厨房に残ったパンを一つ取り、食べた。
子どもたちが見ている前で。
*
市会館の会議室には、七人の議員が集まっていた。
議長席にグランデル子爵が座り、壁際には工事の関係者、商人、北区から来た住民が並んでいる。私はベルクと石工組合の組合長の推薦で発言を認められた。
「ミナ・ロート。君の報告書は読んだ」
「北釜の移転を断り、道路計画を変更してほしいというのだな」
「はい。ただ、工事を中止してほしいわけではありません」
私はゲルトとベルクから受け取った二枚の図面を台に広げた。
「北区の建物を残しながら、道を広げる案があります」
石工組合長が椅子から立ち上がり、費用と工期の違いを説明した。古い水路の壁を使い回せば石材費を抑えられる。工期は伸びるが、通行を止める日はむしろ少ない。これはゲルトが何晩もかけて確かめた数字だ。
「それでも当初の案より金が要る。北釜の土地を売る収入もなくなる。水路の補修をどうする」
「補修は必要です」
私は北釜の利用者数と、冬に仕事の減る職人たちの事情を伝えた。近くで食事ができれば、工事に携わる人も助かる。
「港の荷役組合は、道路工事期間の共同食堂として北釜を使うつもりです。組合から一定数の食事を年間契約で注文する。料理の代金は、食べた人数に応じて払う」
「小麦の安定供給について、私たちの組合でも協議しました。北釜は毎日食事を出しています。年間契約なら、こちらも仕入れの予定を立てやすい。安く売れない日もありますが、数量を決めれば融通はできる」
「よその組合が売上を作るのは結構だが、市の土地を売らない損まで埋められるわけではない」
「はい。その差は残ります」
「北釜の設備を直す費用も必要です。今のまま続けたいとは申しません。できる仕事を増やし、維持費を自分たちでも負担します。石工組合の工事案で支出を減らせる分と合わせて、残る負担については時間をかけて返す契約をお願いしたいんです」
「その返済の保証は?」
「私個人の資産では足りません。だから、もし一年後に食堂の収支が合わなければ、条件を見直してください。北釜の代わりの場所を探すことも含めて、もう一度皆さんと話し合います」
子爵は机を指でたたいた。
「美しい話だが、慈善に依存する者を増やすだけではないのかね。君が世話をしていれば、あの人々は自分で立とうとしない」
私はいったん口を閉じた。
「北釜の人たちが何をしているか、ご存じですか」
「食事を受け取っている」
「そのほかに、です」
「リネさんは洗濯の仕事をしながら、うちの天幕を縫ってくれました。ゲルトさんは毎日石を削ったあと、食卓を直してくれました。ライは父親の包丁を研ぎ直し、初めて自分のパンを焼きました。エッダは一度断られても、自分たちが料理を出したいと言いに行きました」
「私が食事を作る側だと思い込んでいた人たちが、今は私に食べさせようとしてくれます。子爵閣下が十年支援してくださった北釜は、そういう場所になりました」
「今日、百四十五人分の食事を出しました。食べに来た人の中には、お金を払えない人もいました。支払える人は代金を置いていきました。お金の代わりに薪や釘を持ってきた人もいます。あの食卓で、誰が施す人で誰が施される人なのか、私は分かりませんでした」
「食べ物を必要とする人が、いつまでも誰かに食べさせてもらうとは限りません。食べて、働いて、ほかの人の椅子を運ぶ日が来るかもしれない。北釜を残したいのは、その日まで座れる場所をなくしたくないからです」
「話は分かった。だが北釜が有料の食事を始めるなら、周りの店と客を取り合うことになる。その点はどう考えている」
「価格を隠して安売り競争をするつもりはありません。職人の昼食は、工事の期間と人数を決めた契約にします。夜の無料の食事は今までどおり、必要な方に。一般の方が払う料理の値段も、材料費と人件費に見合うものにします」
「はい。北釜だけでなく、ほかのお店にも工事の食事を分けてお願いできたら助かります。港から働きに来る人数を、私たちだけで引き受けるのは無理ですから」
市会の鐘が鳴り、議長が採決の準備を命じた。
「第一案。北釜の土地を売却し、当初の道筋で工事を行うことに賛成の者」
札が二枚上がった。
「賛成二、反対五。第一案は否決とする」
「第二案。北釜の建物を残し、石工組合の代替工事案を採用する。北釜の使用期限はまず二年間延長する。施設改修費は組合との共同契約により立て替え、半年ごとに収支と衛生を検査する。賛成の者」
港のベルクが札を上げた。麦商のシーナも。石工組合長は一度木札をなぞってから上げる。織物組合と金物組合が続いた。
五枚。
「賛成五。第二案を可決する」
私は椅子に座ったまま、しばらく動けなかった。
「北釜の運営は、今日から君一人の腕にかかっていると思うな。承認したのは私ではない。議会だ。半年後には、今日賛成した者たちが収支を確かめる」
「……祭りの招待札については、判断を誤った」
「君たちを招けば品格が損なわれると考えたのは、私の偏見だった。今さら招待すると言っても遅いだろうが、その点は認めよう」
「ありがとうございます。ただ、子どもたちはもう、自分たちの食卓を作りました」
「来年は、子どもたちだけでなく、どなたでも一緒に食べられる席をご用意いただけると、うれしいです」
やがて、机の端に残っていたライのパンへ手を伸ばした。会議の前にベルクが持ってきたものだ。
「これを作ったのは、あの少年か」
「王宮へ来れば料理人になれると、伝えてやってくれ」
「本人が望めば、お伝えします」
「それがよかろう」
*
北釜へ戻ると、食堂の明かりがまだついていた。
エッダは玄関に座り、ミリーの絵を見ていた。私に気づくと飛び上がった。
「どうだった?」
「あと二年、ここで食堂を続けられるよ」
「それって、私たちもここにいていいの?」
「今はそう。春になって急に追い出されることはない。二年の間に建物を直して、食堂を続ける方法をみんなで作るの」
厨房から出てきたライが尋ねた。
「……残ったんですか」
「うん。あなたのパンも褒められたよ。王宮で料理をしてみないかって」
「王宮?」
「いつか行ってみたい。でも、今じゃないです」
「俺、まだちゃんと作れてないものがたくさんあるし。北釜で、マルタさんとミナさんから教わりたい」
「分かった。作れるようになったら、私たちにも食べさせてね」
「……もちろんです」
マルタさんは寝床から起き、食堂の戸口で待っていた。熱は下がり始めていたが、顔色はまだ良くない。
「休んでいてください」
「結果を聞くくらい、いいだろ」
「二年間、延長できました」
「はい。半年ごとに検査があります。改修の費用も返さなければいけません」
「そりゃ忙しくなるね」
彼女は笑って、私の手を握った。
「よくやった、ミナ」
水桶で顔を洗い、食堂へ戻る。
長い机には、最後の夕食が並んでいた。豆と麦の煮込み、少し焦げたパン、薄く切った焼き野菜。飾りはないが、私の好きなものばかりだった。
「ミナさん、こっち」
彼女の皿には肉が二切れあった。トーヴの皿にも二切れある。エッダは自分の肉を一切れ口に運び、しばらく味わってから、もう一切れを食べた。
「今日は全部食べるの?」
「うん。ライがまた明日も作るって言ったから」
「作りますよ。肉があればですけど」
「じゃあ、明日は豆でもいい」
トーヴは一脚多い椅子を、私の隣へ引いてきた。いつもなら母親のために空けておく椅子だ。
「ここ、すわって」
「お母さんの席でしょう」
「おかあさん、まだこないから。きょうはミナがすわっていいよ」
「でも、帰ってきたら?」
「もういっこ、もってくる」
私はその椅子に腰を下ろした。エッダがパンをひとつ割り、大きい方を私の皿へ置いた。
「ミナさんも、ちゃんと食べて」
「ねえ、ライ。明日の朝ごはん、何にする?」
「まだ決めてない」
「じゃあ、私、パン焼きたい。ミリーにも持っていくんだ」
「五時に起きられるなら教える」
「起きるってば」
私は割ってもらったパンをもう一度かじり、空いた手で、トーヴの椅子が動かないよう脚を押さえた。




