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北窯の食卓「あの子たちは客ではありません」と言われたので自分たちで食卓を作ります

作者: MIYA
掲載日:2026/10/18

「あの子たちは客ではありません」


 そう言われたとき、私は十二枚目の招待札をまだ手に持っていた。告げたのは冬越し祭を取り仕切るグランデル子爵(ししゃく)だった。


 王都の冬越し祭は十二日後に始まる。祭りの最終日には、貴族も商人も港で荷を担ぐ者も、同じ広場で食事をする。少なくとも、私が子どものころはそうだった。


「失礼ながら、閣下。去年までは北釜(きたがま)の子も招かれておりました」


「去年までの話をしているのではない。あの食卓は今年から招待客のためのものになる。王都の品格を示す席だ。施しを受ける側が並んでは、客人が落ち着いて召し上がれん」


「子どもたちは施しを受けるだけではありません。皿も洗いますし、祭りの前には――」


「私は北釜(きたがま)を十年も支援してきた。あそこに何人いるかも知っている。子どもの善行を聞くために、ここへ来たわけではないのだよ」


 北釜(きたがま)は王都北区の共同食堂だ。孤児だけでなく、病気で働けない人、港の仕事が途切れた人、今夜だけ火を使う場所がない家族にも食事を出す。朝と夕方、釜(かま)が二度開く。私はそこで料理頭を務めていた。


「ついでに伝えておこう。北釜(きたがま)の運営は春で終了する」


 紙の端が、手のひらに食い込んだ。


「……いま、何と」


「用地を売る。北門と港を結ぶ道が拡張されるのでな。老朽化(ろうきゅうか)した建物に補修費を出し続ける余裕は、市にはない」


「食べ物を配るだけで、人が自立できるのかね。あの施設を残すより、北区を新しい商業街にする方が、長い目では多くの人を助ける」


「明日の朝食が要る人は、春まで待てません」


「だから冬までは使わせると言っている」


 言い返そうとしてやめた。ここで招待札を握り潰(つぶ)しても、明日の小麦粉は一袋も増えない。


 退出の礼をしてから廊下(ろうか)を歩いた。城の床はよく磨かれていて、靴音がひどく響いた。腰の袋には、子どもたちが選んだ招待札の飾り紐(ひも)が入っている。赤、青、黄。裁縫(さいほう)の得意なエッダが、昨夜遅くまで編んでいたものだ。


*


「おかえり! 何の料理が出るって?」


 北釜(きたがま)の裏口を開けるなり、エッダが走ってきた。十二歳。ふだんは年下の子の面倒を見ていて、祭りの話になると自分が十二歳だということを思い出す。


「まだ献立は決まっていないそうよ」


「じゃあ、去年の鴨(かも)の丸焼き、また出るかな」


「今年は、私たちの招待席がないの」


「……あ、そう」


 エッダの声がわずかに上ずった。気にしていないふりをするとき、最後の母音だけ高くなる。


「まあ、いいよ。人が多いと、トーヴは迷子になるし」


「そうね。でも、みんなの紐(ひも)を編んでくれたでしょう。ごめんなさい」


「別に。余った毛糸だし」


 エッダは厨房(ちゅうぼう)へ戻った。背中を向けるのが少し早すぎた。


 中では、見習いのライが玉ねぎを刻んでいた。十五歳。玉ねぎを切るときだけ、亡き父の形見だという黒い包丁を使う。刃元(はもと)に小さな欠けがあるため薄切りには向かないが、取り上げると不機嫌になる。


「遅かったですね。豆、もう煮(に)ました」


「塩は?」


「まだです」


「上出来。最後に入れれば皮が割れにくいから」


「何回も聞きました」


「なら一度で覚えて」


 長い木べらで鍋(なべ)を底から混ぜる。白いんげん豆、細かく刻んだかぶの葉、骨から取った出汁(だし)。湯気に顔を近づけると、肩の力が戻ってくる。この匂(にお)いの中でなら、落ち着いて順番を考えられる。


 包丁の音が途切れた。


「エッダ、去年から楽しみにしてたのに。何で泣いてないんですか」


「ここで泣いたら、私が困ると思ってるの」


 奥の食堂では、トーヴが木椅子(きいす)を運んでいた。椅子(いす)の脚を床で引きずるたび、本人より大きな音がする。人の数に合わせて並べているが、いつも一脚多い。


 数えると、今日も十三脚あった。食べに来る子は十二人。空席を一つ残す理由を、私はまだ聞けずにいる。


「椅子(いす)を運ぶの、手伝おうか」


「ぼくができる」


 トーヴは一脚の位置を直し、最後に空の椅子(いす)へ手を置いた。


「今日も、十三だよ」


 その夜、春の閉鎖をマルタさんに打ち明けた。六十五歳の彼女は私を育てた料理人だ。


「子爵(ししゃく)は今年の祭りを大層気にしてるからね」


「閉じれば土地が売れる。土地を売れば、見栄えのする道を造れる。道ができれば王都の評判が上がる。筋は通ってるよ。腹の立つ筋だけどね」


「春までに別の家を借りられると思いますか」


「家だけならね。厨房(ちゅうぼう)の煙突、貯水槽(ちょすいそう)、毎日荷を運ぶ道、それに今の家賃。全部そろった場所は簡単には見つからない。ここは四十年かけて食堂になったんだ」


 窓の外をエッダが通り過ぎた。赤い毛糸が彼女の手首に巻いてあった。招待札に結ぶはずだったものだ。


 祭りが始まったころの言い伝えを尋ねると、マルタさんは即答した。


「一つの鍋(なべ)に、椅子(いす)の数だけ」


「最初の冬越し祭は、飢饉(ききん)のあとだった。店も貴族の家もかまどを持ち寄って、広場で食べた。客を招く祭りじゃない。食べたい人間が座る祭りさ」


「じゃあ、今年は私たちが自分で食卓を作ります」


「どこに?」


「広場に」


「招待されてないんだろう」


「食事をしに行くんです。招待を受けに行くわけじゃありません」


「全員分、椅子(いす)を用意します」


「十三人分の気持ちで話してるなら、やめときな」


「祭りの夜、腹を空かせてるのは北釜(きたがま)の子だけじゃない。あんたは最初の皿を誰に渡すつもりだい」


 答えが出なかった。


*


 翌朝、市会館の窓口で出店を申請すると、事務官は私の書いた「無料」の二文字を指で押さえた。


「それでは市場の出店ではなく慈善事業(じぜんじぎょう)です。監督官の承認が必要になります」


「監督官は?」


「グランデル子爵閣下(ししゃくかっか)です」


 有料なら金貨二枚の保証金がいるという。冬の薪代(まきだい)と同じ額だった。


「ミナちゃんかい」


 背後から声をかけたのは港の荷役組合長ベルクだった。北釜(きたがま)へ時折、銅貨を置いていく人だ。事情を話すと帽子をかぶり直した。


「金は工面できても、子爵(ししゃく)に逆らえば港の契約が危うい。組合にも家族がいる。話だけは持ち帰るが、当てにしすぎるな」


 食事を受け取る人ばかり思い浮かべていた。届ける側にも、夕飯を待つ誰かがいる。


 昼過ぎ、薪商人(まきしょうにん)のフーゴが黒い石炭の見本を持ってきた。混ぜ物が多く、これを燃やせば厨房(ちゅうぼう)に煤(すす)が回る。


「来月から良い薪(まき)を回せない。新しい道路の工事で運び賃が変わるんだ」


「今月の分は?」


「契約どおり。ただ祭りには人手を出せない」


 先代から北釜(きたがま)へ納めている人が、今日は戸口から中へ入ろうとしない。私は朝のパンを半分渡した。


「食べきれなくて」


 そんな大きなパンではなかった。フーゴは石炭の袋を引き取り、「こんな物は使うな」とだけ言って去った。


*


 その夜、エッダの皿だけが半分残っていた。


「お腹がいっぱい?」


「そういう日もあるよ」


 私が下がると、エッダはまた一口食べた。三口で終え、残りを陶器(とうき)の蓋(ふた)つき容器へ移した。夜中に起きる子用に置いてある容器だ。


 片付けのあと、私はそこを開けた。


 白い豆と、一切れの肉。給仕のとき、エッダの皿には肉を二切れ入れた。今日はトーヴが熱を出しかけていたので、栄養をつけるために多めにしたのだ。エッダは自分の肉を食べず、トーヴの夜食へ回したらしい。


 エッダには別の家で暮らす六歳の妹がいる。あの子は食べ物を分けるとき、いつも先に妹の分を考える。


 私は容器の蓋(ふた)を閉じ、彼女の寝床へ行った。毛布の下で膝(ひざ)を曲げ、眠っている。枕元(まくらもと)には木箱があり、赤い毛糸の紐(ひも)が丸く収められていた。


 それでも私は、母と暮らしていたころの癖(くせ)を直すのに三年かかった。母は働けなくなると、私にだけ肉を食べさせた。最後の冬には自分の皿へ一度も肉を盛らなかった。


 足りないことを子どもに隠しても、子どもは知る。


 朝になったらエッダと話そう。そう決め、私は厨房(ちゅうぼう)に戻った。


 けれど翌朝、彼女はいなかった。


 食堂の隅には、短い黄色の紐(ひも)が一本残っていた。


*


 エッダが見つかったのは、北門の市会館だった。


「十二歳の娘を使いに寄こすとは、ずいぶんなやり方だな」


 声の主はグランデル子爵(ししゃく)だった。


 彼の前にエッダが立っていた。両手に抱えているのは、うちで使っている木の椀(わん)。欠けた縁を薄い銅板で修繕(しゅうぜん)してある。エッダが初めて銅板を打ったとき、釘(くぎ)が曲がってしまった椀(わん)だ。


「使いではありません!」


 人垣(ひとがき)に割って入ると、エッダが振り向いた。目のふちは赤いが、泣いてはいない。


「ミナさん。これ、持ってきたの」


「どうして黙って出たの。心配したでしょう」


「この子は私の前に椀(わん)を突き出し、祭りで食べさせてほしいと頼んだ。慈善(じぜん)の場にふさわしくない振る舞いだ」


「違う!」


 エッダの声が石段に響いた。


「私が料理を出したいって言ったの。北釜(きたがま)はいつも食べる側だと思われてるから、ちゃんと料理ができるって見てもらおうと思ったの」


「この子の言うことに間違いはありません」


 私は子爵(ししゃく)に一礼した。


「許可は出さん」


「慈善(じぜん)の食卓だろうと市場の屋台だろうと、今年は認めない。北釜(きたがま)は招待されていないのだ」


「組合が管理する場所でもですか」


「必要だ。祭りの期間、市の保安については私が最終責任を負う。衛生上の不安がある出店を認められると思うかね」


 私はもう一度、頭を下げた。エッダを連れて歩きだす。


「ミナさん。私、変なことした?」


 会館が見えなくなってから、彼女が聞いた。


「黙って出たのは駄目。遠くへ行くなら、必ず誰かに話して。あなたが帰ってこない間、トーヴもライも食事を忘れて探してた」


「……うん」


「でも、料理を出したいって考えたことは、変じゃない」


「私、去年の鴨(かも)、好きだったから。みんなにも食べさせてあげたかった」


「うちの子たちにもさ、誰かが作ったごちそうを食べさせてやりたいじゃない。だから私が上手になれば、食べられるでしょ」


 橋の手前で私は立ち止まり、腰を落として彼女と目を合わせた。


「エッダ。あなたは、誰かに食べさせるためだけに料理を覚えなくていい。自分が食べたい物から作ってもいいんだよ」


「……じゃあ、今日は肉?」


「今日は肉」


「二切れ?」


「あなたのお皿に、二切れ」


 彼女は返事をせず、空いている方の手で私の袖(そで)をつかんだ。


*


 北釜(きたがま)に戻ると、マルタさんが私を厨房(ちゅうぼう)の裏へ呼んだ。


「春で終わりだってね」


「誰から聞いたんですか」


「フーゴさ。北区の商人へ、新しい道路の工事図が回ってる。釜(かま)の建物もその中だ」


「子どもたちには、まだ話していません」


「でしょうね」


「頼んだだけだろう。フーゴは祭りの薪(まき)を運べない。麦の仕入れ先からは、今朝、前払いを求める知らせが来た」


「知りませんでした」


「知ろうとしなかったからね」


「私が何とかします」


「そう言うと思った」


「その言い方をやめな。北釜(きたがま)はあんた一人の台所じゃない」


「分かっています」


「だったら、今日の午後に皆を集めるよ。子どもたちにも、働いてる者にも、食べに来る大人にも。春の話もそこでしよう」


「不安にさせます」


「黙っていれば安心すると思うのかい」


「それだけじゃない。あんたが毎晩遅くまで何か書きつけてるのを見て、自分も働かなきゃいけないと思ったんだ。女の子には女の子の心配がある。そこまで大人の顔をしていれば、なおさら」


「私たちは別の場所を探す。それでも見つからなければ、春には離ればなれになるかもしれない。その話を子どもにするのが怖いんです」


「怖いなら、一緒に座るんだよ」


 マルタさんは立ち上がった。


「逃げずに話すことと、必ず助けられると約束することは違う」


 その日の午後、私は初めて北釜(きたがま)の食卓の端に座って、春の話をした。


*


 春の話を聞いて、最初に泣いたのは大人だった。


 向かいの路地で洗濯屋をしているリネさんだ。夫は港で脚を傷め、冬は仕事が減る。昼の仕込みを手伝う代わりに、二人分の夕食を北釜(きたがま)で受け取っている。


「うちの人は、また遠い施療院まで歩けってことかい」


「まだ移転先は決まっていません。市の補助金も春以降は未定です」


「未定って、今だってぎりぎりなのに」


 彼女は顔を覆った。私には何も言えなかった。


 マルタさんが黒板を引き寄せた。


「今できることを決めようか。移転先を探す人。日々の食事を回す人。祭りの食卓を作る人。三つに分けるよ」


「祭りまでやるのか」


 ゲルトが顔を上げた。


「十三人の子を招待してもらえなかったのが、そんなに悔しいか」


「悔しいです」


「エッダの紐(ひも)を見たとき、本当に悔しかった。でも、それだけで動こうとしたのは間違っていました」


「祭りの日だけでも、北釜(きたがま)を知らない人と同じ食事をしたいんです。施しを受ける人と施す人に分かれずに。お金を払える人は払って、払えない人は食べる。それが王都にとって何の役に立つか、私はまだ上手に説明できません。だから、一緒に考えてほしい」


「俺は食器を運ぶ」


 最初に手を上げたのはライだった。


「料理は俺も作れる。ミナさん一人で何百人分も作るの、無理ですから」


 ゲルトが移転先探しに手を挙げ、リネさんは布を集めて屋台の日よけを縫(ぬ)うと言った。港から来ていた二人の荷役が、祭りの日なら仕事が休みだと話した。


 そのうちトーヴが手を上げた。


「ぼくも」


「何ができる?」


「いすをならべる」


「ひとつ、あまらせていい?」


 聞かれて、私は初めて彼の空席の理由を尋ねた。


「いいけれど、誰の席?」


「おかあさん」


 トーヴの母親は三年前、病気のため北釜(きたがま)から別の街の施療院へ移された。生きているという知らせは届いているが、長い旅をできる状態ではない。母親の顔をはっきり覚えている子も少なくなってきた。


「帰ってきたら、いすがないと困る」


「でも、ぼくは十三ばんめにはすわらない。おかあさんのだから」


 マルタさんは何も言わず、黒板の一番下に「椅子(いす)を並べる トーヴ」と書いた。


 私はその横に「予備一脚」と付け加えた。


*


 祭りまで九日。


 まず試したのは、近所の許可を得て北釜(きたがま)の前の通りに食卓を出すことだった。


 試作の献立は、冬野菜のとろみ汁(しる)と小さな丸パン。肉は入れない。出汁(だし)を取った骨から、取れるだけの肉をほぐして戻した。


「一皿、銅貨三枚。払えない人は無料です」


 五分たっても客が来ない。


 港から帰る人たちは看板を見たあと、食堂の前を急いで通り過ぎる。「払えない人は無料」の文字を見て、わざと距離を取る人もいた。


 エッダは通りを見渡した。


「じゃあ、食べてもらえばいいじゃん」


 彼女はパンをひとつ割り、通りかかった靴職人の老人に差し出した。


「味見だけどうぞ」


「買えと言うのかい」


「いいえ。食べてから決めてください」


「一皿くれ。パンは二つにできる?」


「追加は銅貨一枚です」


 やがて二人、三人と腰かけ、席はいっぱいになった。食べた人が別の人を呼び、鍋(なべ)の底が見えたのは日が沈む前だった。


 初日の売上は銅貨九十二枚。食材と燃料の費用を差し引くと、残ったのは二十三枚だった。百人分の食事には到底届かない。もっと悪いことに、支払える人ばかりが来たため、無料で食べたのは二人だけだった。


「大成功だったじゃん」


「売れたけど、北釜(きたがま)を知らない人は、無料って書いてあっても座りにくいみたい」


「じゃあ、無料って書かなければ」


「払えない人が困るでしょう」


「お皿に値段を書かなくていいんだよ。食べる前にお金の話をされるの、嫌だもん」


「最初に席へ案内して、帰りに払える人だけ払えばいいのか」


「うん。逃げる人もいるだろうけど」


「逃げたい人を追いかけるより、食べたい人を呼んだ方がいいよな」


 翌日の看板には、金額の代わりに一行だけ書いた。


『まず、お座りください』


 その日、無料で食べたのは十一人。売上は前日より減ったが、寄付箱には小さな銅貨のほか、きれいな針が一本と、薪(まき)の引換札が二枚入っていた。


 寄付箱を覗(のぞ)いたゲルトが笑った。


「金がないときは、物を持ってくる。北区らしいやり方だ」


*


 祭りまで七日。試しの食卓に来る人が増え、エッダは食べた人から味の感想を集めた。


「汁(しる)が薄いって」


「薄くない。塩は高いんだぞ」


 ライは言い返したが、翌朝には塩壺(しおつぼ)の前へ「一つまみずつ」の札を置いた。私はその字を見て笑った。


 笑っていられないのは食堂の勘定だった。薪(まき)は値上がりし、麦商は前払いを求める。私は自分の給金を二度延ばした。


「自分を抜いた勘定は勘定じゃない」


 マルタさんに布巾(ふきん)を取り上げられた。


「昔あんたが働きすぎて寝込んだとき、代わりに釜(かま)を守ったのは誰だった? あんたが倒れれば、ライたちが余計に働く。少し休みな」


 翌朝の仕込みをライに任せると、彼は「できます」と言った。喜ぶでも威張るでもない返事だった。


*


 午前のうちに、北釜(きたがま)へ衛生検査官が来た。


 ひびのある貯水槽(ちょすいそう)の前で、検査官の一人が顔を曇らせた。


「外から汚水が入る可能性があります。水質を調べるまで、飲用と調理には使えません」


 貯水槽(ちょすいそう)は厨房(ちゅうぼう)のすぐ裏にある。井戸は一つ先の通り。毎日二百人分の水を運ぶには、荷車と人手が要る。


「その間、井戸水を運んで使うのは」


「煮沸(しゃふつ)し、容器の衛生を保てるなら認めます。ただし次回の検査で確認します」


 検査官は口調を和らげた。


「こちらも止めたいわけではありません。あなた方の規模で汚染が起きれば、被害は大きい」


 検査官の言い分は正しかった。これを子爵(ししゃく)の嫌がらせと決めつけて無視することはできない。


 彼らが帰ると、私はすぐにゲルトへ相談した。荷車を貸してもらい、リネさんには予備の大桶(おおおけ)を集めてもらう。ライが飲用と洗浄用の容器に別々の印をつけた。


 井戸へ二往復したあと、腰を伸ばしていると、トーヴがやってきた。


「おみず、おいしい?」


「いつもと同じだよ」


「じゃあ、ここにもってきてよかった」


 彼は両手で小さな水差しを差し出した。中には澄(す)んだ水が半分入っている。


「ありがとう」


 飲みきると、トーヴは空の水差しを受け取った。


「ミナも、すわってたべてね」


「今日はちゃんと座る。約束する」


「じゅうさんばんめに?」


「その椅子(いす)は、お母さんの席でしょう」


「もういっこ、もってくればいいじゃん」


 私は空になった水差しの重さを、しばらく手の中に残していた。


 夕方、子爵(ししゃく)から広場への出店を認めないという書状が届いた。衛生事故を危ぶむのは、監督官として当然だ。


「検査に通らなければ出しません。通れば、許された場所で食卓を作ります」


 使者にはそう返した。


 市の地図を広げ、通行を妨げない場所を探した。広場は使えない。残ったのは北釜(きたがま)の裏の石畳の中庭。半分は北釜(きたがま)の借地、半分は石工組合の土地だった。


 私は夜のうちに石工のゲルトを訪ねた。


「中庭を貸してくれ、か」


 ゲルトは石粉だらけの机で首をひねった。


「客は時間ごとに入れ替えます。井戸水を運び、外では火を使いません」


「それでも組合長の許可が要る。今度の道路工事で、若い石工十六人の仕事が増えるんだ。俺一人の気持ちで決められない」


 彼は北門の図面を裏返した。


「でも道を北へ少し振れば、北釜(きたがま)を残せるかもしれん。仕事は減らさずに済む。明日、組合へ案を持っていく」


「そこまで頼むわけには」


「俺がやりたいからやる。嫌なら一人で石を削るか?」


 台の端には紐(ひも)を通す穴を開けた石の鳥があった。ゲルトはエッダにと一つくれた。「うちの娘の友だちだからな」と笑った。


*


 翌日、石工組合の集まりに行く前、エッダが外出の許可を求めた。


「妹のところへ、少しだけ」


「送っていこうか」


「ミナさん。私がまた勝手に出ていくと思ってる?」


「じゃあ、行ってきます」


 玄関で靴紐(くつひも)を結び、彼女はまっすぐ私を見た。


「夕方には戻る。約束する」


 送り出したあと、私は自分の心配が彼女の自由まで小さくしていることに気づいた。


 北釜(きたがま)は家族だと胸を張るほど、あの子に十分なものを与えられているのか。


 夕食前に戻ったエッダは、丸めた紙を持っていた。


「ミリーから」


 開くと、人の絵が二人と、テーブルが一つ描かれていた。テーブルの上には大きな皿。皿の周りに赤と黄色の点がある。


「ミリー、祭りの日に来たいって」


「もちろん」


 エッダは絵を畳み、しばらく指で折り目を伸ばしていた。


「私、ミリーと一緒に暮らしたいと思ったこと、あるよ」


 返事を急げなかった。


「でも、ここを出たくないとも思う。ライもうるさいけど、いてほしいし。トーヴはすぐ椅子(いす)を引きずるけどさ」


「どっちかだけ選ばなきゃ駄目なのかな」


「今すぐ選ばなくていい。仕立て屋さんと相談して、会える日を増やすことだってできる。暮らす場所を変えたいと思うなら、それも一緒に考えよう」


「ミナさんは、私が出ていったら困る?」


「困るよ」


「玉ねぎをむくのが上手だし、ライと言い合いながらちゃんと味を見てくれる。いなくなったら寂(さび)しい。でも、それを理由に引き止めたくない」


「じゃあ、まだここにいる。ミリーには祭りで会えるし」


 エッダの方から近づき、肩に額をつけた。


「……ちょっとだけ、こうしてて」


 私は彼女の背中に腕を回した。


*


 翌日の石工組合では、ゲルトの道路案に厳しい声が飛んだ。


「石垣(いしがき)が余計に要る。工期も延びる。子爵(ししゃく)が認めるか」


 組合長はそう言いながら、費用の欄(らん)を何度も確かめていた。私は工事の議論が終わるのを待って、中庭を借りたいと申し出た。


「衛生検査で問題があったという食堂に、土地は貸せん」


「給水方法を変え、再検査を受けます。通らなければ中止します」


「組合の土地で事故が起これば、責任を負うのはわしだ」


「ですから、守るべき条件を教えてください」


 組合長は火を使う場所、通路、食品管理を挙げた。前日までにすべて満たせたら、使用を認めるという。


 外へ出るとゲルトが肩をたたいた。


「断られなかったな」


「条件を守れるかは、これからです」


*


 祭りまで五日。


 北釜(きたがま)の貯水槽(ちょすいそう)は使用停止のまま、井戸水の運搬(うんぱん)は毎日続いていた。市の検査官は再び来て、仮の給水方法と食器の洗浄手順に問題がないことを確かめた。ただし貯水槽(ちょすいそう)を修理するまでは、給水量を増やせない。


「祭りの日の人数を考えると、この厨房(ちゅうぼう)で出せるのはせいぜい百五十食だ」


「水も食器も限りがあります。たくさん作れば、それだけ休めなくなる」


 私は二百食を目指していた。いや、心の中ではもっと大きな数字を考えていた。王宮の大食卓に負けないほどの食卓。そんな願いを自分のために持っていた。


「じゃあ、百五十食にしよう」


「できる数だけ、ちゃんと出す。足りない人が出るなら、ほかの店にもお願いする。それならどう?」


「それなら、できるかもしれません」


「俺が献立、考えていいですか」


「鴨(かも)の丸焼きみたいなものじゃなくても、ちゃんとごちそうにしたい」


「冬野菜を焼いたのと、豆の煮込(にこ)み。あと、パン。パンは俺が作りたい」


「父ちゃん、港の小さな食堂で働いてたんです。船員に食べさせるパンを毎日焼いてた。俺は手伝いもせずに外で遊んでたけど、父ちゃんが死んだあと、その店の人が包丁だけ渡してくれた」


「料理を覚えれば、父ちゃんに近づける気がしてた。でも最近、父ちゃんの料理を俺は知らないって、やっと分かったんです。覚えてるのは台所にいた背中だけで」


「だから、俺のパンを作る。エッダが好きだって言ってくれるようなの」


 欠けた包丁では、パン生地をうまく切れない。


 彼は翌日、その刃(は)を研ぎ屋に預けた。欠けた部分を削ると少し小さくなるが、それでも使いたいと言った。


「父ちゃんのじゃなくなっちゃったみたいだな」


「嫌だった?」


「……いいや。今度から、俺がちゃんと使うから」


 初めてのパンは焦げた。二度目は膨らまず、三度目は中が生だった。


「明日の朝、見てください」


 彼は失敗したパンを捨てず、薄く切って乾かした。翌日の汁(しる)に入れてみるつもりだという。


 祭りまで四日。王宮への納品が増え、麦商組合の議員でもあるシーナは、北釜(きたがま)への小麦粉を半分に減らさざるを得なかった。


「向こうの契約が先なの。うちの息子にも食べさせなきゃならないしね」


「いつもの半分でお願いします」


 シーナは奥から売れ残りのひき割り麦を出してきた。


「粒が揃(そろ)ってないだけ。煮込(にこ)みには使える。安くするけど、ただにはしないよ」


 その夜、ライが四度目に焼いたパンは形こそ悪かったが、中までふっくらしていた。


「これ、祭りでも食べられる?」


 エッダに聞かれたライは、返事の前に二個目を手渡した。私は翌朝に残そうとしたパンを、マルタさんに皿へ戻された。


「今、食べるんだよ」


*


 翌朝、子爵(ししゃく)は護衛を連れず、北釜(きたがま)へ来た。煤(すす)で汚れた戸口を見上げ、硬い椅子(いす)に腰を下ろす。私はお茶と、ライの焼いたパンを出した。


 子爵(ししゃく)はパンを半分に割り、一切れ口にした。驚くほど丁寧(ていねい)な食べ方だった。


「思ったより良い。王宮でも通用する」


「そこで話がある。北釜(きたがま)のために、代わりの建物を用意しよう」


 子爵(ししゃく)は卓上に簡単な見取り図を置いた。


 北門を出て、馬車で一時間。倉庫として使われていた石造りの建物。すでに大きな竈(かまど)があり、井戸も使える。移転費用の一部は市が負担するという。


「なぜ、こんな条件を?」


「悪人に見えるかね、私は」


「建物の老朽化(ろうきゅうか)は事実だ。道路が完成すれば、北区の仕事は増える。あの場所を残すより、新しい建物へ移る方が北釜(きたがま)のためでもある」


「子どもたちの学校から遠くなります。港の仕事帰りの人も通えません」


「移転先で新しい利用者を募ればよい」


「では、今食べに来ている人は」


「ミナ。私は王都全体の話をしている。君は自分の食堂から離れて物を見ようとしない。十人が困るから百人が得をする工事を止める。それが果たして慈善(じぜん)かね」


 その言葉は胸に残った。北釜(きたがま)を守りたいという私の思いには、確かに自分の過去が絡んでいる。あの建物で育った。台所の匂(にお)いも窓の傷も知っている。


「考えさせてください」


「祭りの前日までに返答をくれ。受けるなら、広場で食事を出す話も取り下げてほしい。王都の祝祭を争いの場にするつもりはない」


「パンはうまかった。作った子に伝えてやってくれ」


 この子たちの学校、仕事、友だち、これからできる誰かとの関係。その全部を遠くの建物へ動かすことはできない。


 北釜(きたがま)はただの建物ではない。けれど、それを私の思い出だけで守ろうとしてはいけない。


 考えるために、私は明日の午前を休むことにした。


*


 翌朝、私は北門を出て、子爵(ししゃく)が示した建物を見に行った。


 石造りの倉庫は思った以上に立派だった。厚い壁が風を遮(さえぎ)り、井戸の水は透き通っている。古い大竈(おおかまど)には少し手を入れる必要があるが、ここなら二百食を作るのも難しくない。


 それでも道中、食べ物を買える店は二軒しか見なかった。朝の北門には荷車が列を作るが、夕方には人通りが途絶える。


 倉庫の向かいで犬を洗っていた農家の女性に尋ねた。


「食堂ができるなら助かるね。畑仕事のできないお年寄りが増えてるから」


「近くに食事を出す場所は?」


「二日おきに教会がパンを配るくらい。冬はそれも途切れるよ」


 北釜(きたがま)がここへ移れば、助かる人がいる。反対に、北区の人は置いていかれる。


 どちらかを選べば、どちらかが空腹になる。子爵(ししゃく)の用意した図面の上では簡単な移転が、人の暮らしの中では全く別のことだった。


「私はオティーリエ。考えがまとまったら、また来なさい。道を知らない人が夕方に迷うと大変だから」


 あの倉庫に食堂を作ることも、いつかできるかもしれない。片方を壊すしかない、と決めつけるのはやめよう。


 北門へ戻ると、市会館の前に祭りの予定表が張られていた。最終日の午後に行われる、市議会の冬季予算会議。ここで翌春の工事と北釜(きたがま)の土地利用が決まる。


 議員は七人。港、麦、石工、織物、金物、宿屋、市場商人から一人ずつ。子爵(ししゃく)は市の監督官として議長を務めるが、予算の可決には議員五人の賛成が必要だ。


 誰でも傍聴(ぼうちょう)できる。ただし意見を述べるには、議員二人の推薦が必要だと書かれていた。


 私はその場で、今まで自分が見ていなかった人数を数え始めた。


*


 ゲルトとベルクに話をしたのは、その日の夕方だった。


「祭りの日の食卓を、議会へのお願いと一緒にしたいんです」


「私が議会で話せるよう、推薦をお願いしたくて」


「推薦はできる。だが港の組合が道路工事に反対するとは、まだ言えん」


「それならできる。ただ、言い方には気をつけろよ。工事そのものに反対すれば、荷役の連中はついてこない」


 ゲルトは自分の作った代案を出した。


「北釜(きたがま)の北の通りを広げれば、道はつながる。工期は延びるが、運河沿いの石垣(いしがき)を一部使い回せる。これなら差額を減らせる」


「でも土地を売る収入がなくなります」


「そこが一番痛い」


「グランデルが見込んでる売却金で、新しい水路の補修をする計画だからな。あの金がなければ、水路が古いまま残る」


「北釜(きたがま)の建物を残すために、港の人の仕事や水を犠牲にはできません」


「だから反対するだけじゃ駄目だ。代わりの金と手間を用意しなきゃ、議員は首を縦に振らない」


「祭りだけの食事じゃなく、働く人にも食べてもらう。工事の期間中は朝食と夕食を有料で出します。今の食堂も続けます。今いる人の分を無料にできるよう、工事の食事で得た利益を回すんです」


「役所の工事に働く人間は、食事代を会社が一部負担する。そこへ北釜(きたがま)を使えれば、実際に安くなるかもしれん」


「ただし、厨房(ちゅうぼう)の設備を直さなきゃ無理だ。いまの人手では二食ずつ回せないぞ」


「工事が始まるまで収入はない。先に金を貸す者が必要だ」


 私にはできないことばかりだった。予算も契約も、給水路も。


 でも、それぞれの横にはゲルトやベルクが、自分ならできることを書いていた。


「私は料理を考えます」


 ベルクが笑った。


「初めからそうしてりゃよかったんだ」


*


 翌朝、移転を断り、議会で代案を示す旨を子爵(ししゃく)へ書き送った。


 中庭には三十六席を並べ、食事を四回に分ける。百四十四食。鍋(なべ)も水も、それが精一杯だ。黒板に数を書くと、トーヴが椅子(いす)を指した。


「ひとつ足りない」


「お母さんの椅子(いす)?」


「うん。来なくても、だれかすわれるよ」


 私は「百四十四人分」の隣に「予備一人分」と書き足した。全部で百四十五人分。ライが鍋(なべ)の残りを確かめる。


「一杯多いぶん、俺が考えます」


「いすは、ぼくがもってく」


 二人は仕事の分け方を、もう私に尋ねなかった。


 祭りの二日前、中庭の使用許可が下りた。近所の人が箒(ほうき)を持ち寄り、ゲルトが石畳を直した。リネさんは縫(ぬ)った天幕を張り、ライは水桶(みずおけ)の位置を決める。


「そこへ樽(たる)を置くと台車が通れません!」


「ライ、怒ってる」


「お願いしてるんだ!」


 エッダが笑う。そこへ衛生検査官が来て、運んだ井戸水と食器の管理、調理場所を確認した。


「百四十五食を超えて提供しないこと。予備にも限りがあります」


「承知しました。安全を優先します」


 検査に通った知らせを聞いたエッダは飛び跳(と)ねた。通りを行く子爵(ししゃく)の馬車が一度だけ速度を落とし、また走り去った。


 準備の最後に、私は子どもたちに仕事を強制しないことを皆へ伝えた。手伝わなくても、食事は必ず出す。


「じゃあ、私が看板を書く」


 エッダの字の下に、トーヴが丸い椅子(いす)を何脚も描いた。


『まず、お座りください』


『誰でも、食べていってください』


「誰でも、だと、食事が尽きたら困るかもしれない」


「なくなったら、なくなったって言えばいいでしょ」


 彼女は毛糸を結んで、入口に看板をつるした。


*


 マルタさんが厨房(ちゅうぼう)でしゃがみ込んだのだ。


 鍋(なべ)から立ち上る湯気を避けながら近づくと、額が熱かった。手が震え、立とうとしても足に力が入らない。


「大丈夫じゃありません。横になって」


 寝床へ運び、近くの医師を呼んだ。肺の音を聞いた医師は、高い熱があるので休ませるように言った。重い仕事を続けているうちに、体力が落ちていたのだろう。


「私がやります」


「誰が全部やれと言った」


「私は休む。あんたも一人でやろうとするな。ライがいる。リネもいる。ゲルトもベルクも、あんたを助けようとしてる。頼みなさい」


「それに、祭りの当日、あんたは議会へ行くんだろう。そこでちゃんと話せなきゃ、私が寝てる意味がない」


「食べる物を作るだけなら、私らにはできるんだよ。あんたは、みんなが食べられる場所を残しておいで」


 私はその手を握った。働きづめだった指は節が太く、今夜はいつもより熱かった。


 寝息が整ったのを確かめてから、食堂へ戻る。


 ライとエッダ、リネさん、ゲルトが待っていた。


「明日、マルタさんは休みます」


「だから、予定を変えたい。料理も運搬(うんぱん)も、私だけではできません。みんなの力を貸してください」


「それ、今まで何回も言いました」


「ごめん」


「謝らなくていいです。俺、最初からそのつもりでしたから」


 それから彼は、明日の仕込みを三つに分けた。パンを焼く人、煮込(にこ)みを作る人、食器を管理する人。


 私は三つすべてに自分の名前を書きかけたが、ライに止められた。


「一つにしてください。残りは俺がやります」


 結局、私の担当は煮込(にこ)みだけになった。


「ねえ、ミナさん。明日は自分の皿をちゃんと取ってね」


「これ、約束だから」


「約束する」


*


 私はまだ暗いうちに厨房(ちゅうぼう)へ入り、最初の鍋(なべ)へ豆を移した。


 前の晩に水を吸わせた豆は、指で押すと柔らかい。細かく刻んだ根菜と一緒にゆっくり煮(に)る。最後にひき割り麦を加える。スープより少し濃く、匙(さじ)で一度にすくえる具の多い煮込(にこ)みだ。


 隣の竈(かまど)ではライがパンを焼いている。小麦粉の量を減らし、ひき割り麦を混ぜた生地を、何度も捏(こ)ねた。形が揃(そろ)っていなくても、それぞれに十字の切れ目がある。


「一釜目(ひとかまめ)、焼けます!」


 ゲルトと荷役の男たちが長机を並べ、椅子(いす)の脚に布を巻く。フーゴは井戸水を載せた荷車を入口に寄せた。検査官が来る時刻に合わせ、使用する桶(おけ)はすべてふたをしている。


 祭りの鐘(かね)が一つ鳴ると、最初の客が来た。市場通りの靴職人だった。試しの屋台で最初に銅貨を払ってくれた老人だ。


「今日はお代を先に払っていいかい」


「食べてからで結構ですよ」


 次は洗濯屋の客。次は港の荷役。しばらくすると隣の通りの人も現れ、三十六の席はすぐに埋まった。食べ終えた人が食器を返し、待っている人へ席を譲る。


「誰でもって、本当かい」


「本当です。まず、お座りください」


「金がないんだ」


「食べ終わってから、払えるなら払ってください。払えなければ、それでおしまいです」


 男は靴の泥を拭(ぬぐ)いてから、空いた席へ座った。


 昼前、問題が起きた。


 二つある鍋(なべ)の片方が焦げたのだ。


 煮込(にこ)みの濃度が高くなり、底の麦が張りついてしまった。ひと口味見をすると、焦げた匂(にお)いが舌に残る。ここへ水を足しても食べられるようにはならない。


「いくつ分ですか」


「十五食ほど。これは出せない」


「ミナさん。昨日の薄切りパン、まだあります」


「でも、それは賄い用でしょう」


「今日みんなで食べる分です。汁(しる)と一緒なら柔らかくなる。パンの方を料理にすればいい」


 薄切りパンに温めた出汁(だし)を吸わせ、炒(いた)めた玉ねぎと香草を載せる。北釜(きたがま)で何度も食べた簡単な料理だ。見栄えは良くないが、栄養も量もきちんとある。


「それなら、十五食分を作れる」


「俺がやります。ミナさんは次の人を案内して」


 入口には長い列ができていた。子を抱いた若い夫婦、祭り見物に来た老女、仕事の合間に寄った職人。皆が料理を待っている。誰かに謝って列を閉めることになると、覚悟していた。


 でもライが新しい料理を運んでくると、出汁(だし)の匂(にお)いに気づいた人たちが顔を上げた。


「今日は、パンの煮込(にこ)みもあるそうです」


 私が声をかけると、椅子(いす)に座っていた靴職人の老人が真っ先に手を上げた。


「そっちをくれ。昔、女房がよく作った」


 焦げた鍋(なべ)で失った分は戻らなかった。けれどライの工夫で、予定していた食数をほとんど減らさずに済んだ。


「助かった。ありがとう」


「父ちゃんの食堂でも、こういう日があったのかな」


「きっとあったよ」


 ライは嬉(うれ)しそうに笑い、次の皿を取りに行った。


 三度目の食事を出したころ、エッダの妹ミリーが仕立て屋の夫婦とやってきた。


 ミリーは新しい青い外套(がいとう)を着ていた。エッダを見つけるなり走り、抱きついた。


 ミリーが絵を差し出した。そこには椅子(いす)がたくさん並んでいる。人は二人だけで、前の絵より椅子(いす)の数が多い。


 仕立て屋の奥さんが私を呼び止めた。


「それで、少し相談したいことがあって」


「春になったら、エッダにも週に二度ほど、うちへ遊びに来てもらえないかと思って。できれば、いつか一緒に暮らすことも考えてもらいたい。でも、あの子の気持ちもありますから」


「今は北釜(きたがま)にいたいそうです。でも、気持ちは変わるかもしれません。そのときは、私からもお願いに行きます」


「では、まずは春の週二日から。迎えに行く役は夫が引き受けます」


 エッダが聞きつけて戻ってきた。


「ちょっと、勝手に決めないでよ」


「まだ決めてないよ」


「なら、私も入れて」


 彼女は空いている椅子(いす)を一脚運び、大人たちの輪へ加わった。


 四度目の食事が始まったとき、杖(つえ)をついた老女が一人、入口に立った。


 席はすでに埋まっている。私が次の時間を案内しようとすると、トーヴが小さな椅子(いす)を引きずってきた。


「ここ、あいてるよ」


「あなたの、お母さんの椅子(いす)でしょう」


 私が聞くと、トーヴは老女の足元を見た。


「おかあさん、きょうはこないもん。帰ってきたら、またいすを持ってくる」


 老女は何度も礼を言って腰かけた。トーヴは空の椀(わん)を一つ持ってきて、ライに料理を頼んだ。


 それが、その日百四十五杯目の食事になった。


 銅貨だけでなく、小麦粉の引換札、修繕用(しゅうぜんよう)の釘(くぎ)、布の束。食べ終えた人たちが自分にできることを置いていった。


 港の荷役組合から来た男が、ベルクの封筒を持ってきた。


「組合で話はまとまりました。道路工事が決まれば、昼食をここに頼みたいそうです。人数と料金は、正式な見積もりを見てからですが」


「ただし、期日どおりに食べさせられなきゃ困りますからね」


 石工組合からも、道の代案を市会へ提出したと知らせがあった。ゲルトの顔は疲れていたが、以前よりずっと晴れやかだった。


 祭りの鐘(かね)が午後の会議の時刻を告げた。


 私は前掛けを外した。エッダがその紐(ひも)を受け取り、代わりに赤い毛糸を手渡した。


「お守り」


「これ、あなたの招待札の飾りでしょう」


「もう招待札いらないもん。自分たちで食卓を作ったから」


 私は赤い紐(ひも)を手首に巻いた。


「ありがとう。行ってくるね」


「うん。ちゃんとごはん食べてからね」


 私は厨房(ちゅうぼう)に残ったパンを一つ取り、食べた。


 子どもたちが見ている前で。


*


 市会館の会議室には、七人の議員が集まっていた。


 議長席にグランデル子爵(ししゃく)が座り、壁際には工事の関係者、商人、北区から来た住民が並んでいる。私はベルクと石工組合の組合長の推薦で発言を認められた。


「ミナ・ロート。君の報告書は読んだ」


「北釜(きたがま)の移転を断り、道路計画を変更してほしいというのだな」


「はい。ただ、工事を中止してほしいわけではありません」


 私はゲルトとベルクから受け取った二枚の図面を台に広げた。


「北区の建物を残しながら、道を広げる案があります」


 石工組合長が椅子(いす)から立ち上がり、費用と工期の違いを説明した。古い水路の壁を使い回せば石材費を抑えられる。工期は伸びるが、通行を止める日はむしろ少ない。これはゲルトが何晩もかけて確かめた数字だ。


「それでも当初の案より金が要る。北釜(きたがま)の土地を売る収入もなくなる。水路の補修をどうする」


「補修は必要です」


 私は北釜(きたがま)の利用者数と、冬に仕事の減る職人たちの事情を伝えた。近くで食事ができれば、工事に携わる人も助かる。


「港の荷役組合は、道路工事期間の共同食堂として北釜(きたがま)を使うつもりです。組合から一定数の食事を年間契約で注文する。料理の代金は、食べた人数に応じて払う」


「小麦の安定供給について、私たちの組合でも協議しました。北釜(きたがま)は毎日食事を出しています。年間契約なら、こちらも仕入れの予定を立てやすい。安く売れない日もありますが、数量を決めれば融通はできる」


「よその組合が売上を作るのは結構だが、市の土地を売らない損まで埋められるわけではない」


「はい。その差は残ります」


「北釜(きたがま)の設備を直す費用も必要です。今のまま続けたいとは申しません。できる仕事を増やし、維持費を自分たちでも負担します。石工組合の工事案で支出を減らせる分と合わせて、残る負担については時間をかけて返す契約をお願いしたいんです」


「その返済の保証は?」


「私個人の資産では足りません。だから、もし一年後に食堂の収支が合わなければ、条件を見直してください。北釜(きたがま)の代わりの場所を探すことも含めて、もう一度皆さんと話し合います」


 子爵(ししゃく)は机を指でたたいた。


「美しい話だが、慈善(じぜん)に依存する者を増やすだけではないのかね。君が世話をしていれば、あの人々は自分で立とうとしない」


 私はいったん口を閉じた。


「北釜(きたがま)の人たちが何をしているか、ご存じですか」


「食事を受け取っている」


「そのほかに、です」


「リネさんは洗濯の仕事をしながら、うちの天幕を縫(ぬ)ってくれました。ゲルトさんは毎日石を削ったあと、食卓を直してくれました。ライは父親の包丁を研ぎ直し、初めて自分のパンを焼きました。エッダは一度断られても、自分たちが料理を出したいと言いに行きました」


「私が食事を作る側だと思い込んでいた人たちが、今は私に食べさせようとしてくれます。子爵閣下(ししゃくかっか)が十年支援してくださった北釜(きたがま)は、そういう場所になりました」


「今日、百四十五人分の食事を出しました。食べに来た人の中には、お金を払えない人もいました。支払える人は代金を置いていきました。お金の代わりに薪(まき)や釘(くぎ)を持ってきた人もいます。あの食卓で、誰が施す人で誰が施される人なのか、私は分かりませんでした」


「食べ物を必要とする人が、いつまでも誰かに食べさせてもらうとは限りません。食べて、働いて、ほかの人の椅子(いす)を運ぶ日が来るかもしれない。北釜(きたがま)を残したいのは、その日まで座れる場所をなくしたくないからです」


「話は分かった。だが北釜(きたがま)が有料の食事を始めるなら、周りの店と客を取り合うことになる。その点はどう考えている」


「価格を隠して安売り競争をするつもりはありません。職人の昼食は、工事の期間と人数を決めた契約にします。夜の無料の食事は今までどおり、必要な方に。一般の方が払う料理の値段も、材料費と人件費に見合うものにします」


「はい。北釜(きたがま)だけでなく、ほかのお店にも工事の食事を分けてお願いできたら助かります。港から働きに来る人数を、私たちだけで引き受けるのは無理ですから」


 市会の鐘(かね)が鳴り、議長が採決の準備を命じた。


「第一案。北釜(きたがま)の土地を売却し、当初の道筋で工事を行うことに賛成の者」


 札が二枚上がった。


「賛成二、反対五。第一案は否決とする」


「第二案。北釜(きたがま)の建物を残し、石工組合の代替工事案を採用する。北釜(きたがま)の使用期限はまず二年間延長する。施設改修費は組合との共同契約により立て替え、半年ごとに収支と衛生を検査する。賛成の者」


 港のベルクが札を上げた。麦商のシーナも。石工組合長は一度木札をなぞってから上げる。織物組合と金物組合が続いた。


 五枚。


「賛成五。第二案を可決する」


 私は椅子(いす)に座ったまま、しばらく動けなかった。


「北釜(きたがま)の運営は、今日から君一人の腕にかかっていると思うな。承認したのは私ではない。議会だ。半年後には、今日賛成した者たちが収支を確かめる」


「……祭りの招待札については、判断を誤った」


「君たちを招けば品格が損なわれると考えたのは、私の偏見だった。今さら招待すると言っても遅いだろうが、その点は認めよう」


「ありがとうございます。ただ、子どもたちはもう、自分たちの食卓を作りました」


「来年は、子どもたちだけでなく、どなたでも一緒に食べられる席をご用意いただけると、うれしいです」


 やがて、机の端に残っていたライのパンへ手を伸ばした。会議の前にベルクが持ってきたものだ。


「これを作ったのは、あの少年か」


「王宮へ来れば料理人になれると、伝えてやってくれ」


「本人が望めば、お伝えします」


「それがよかろう」


*


 北釜(きたがま)へ戻ると、食堂の明かりがまだついていた。


 エッダは玄関に座り、ミリーの絵を見ていた。私に気づくと飛び上がった。


「どうだった?」


「あと二年、ここで食堂を続けられるよ」


「それって、私たちもここにいていいの?」


「今はそう。春になって急に追い出されることはない。二年の間に建物を直して、食堂を続ける方法をみんなで作るの」


 厨房(ちゅうぼう)から出てきたライが尋ねた。


「……残ったんですか」


「うん。あなたのパンも褒(ほ)められたよ。王宮で料理をしてみないかって」


「王宮?」


「いつか行ってみたい。でも、今じゃないです」


「俺、まだちゃんと作れてないものがたくさんあるし。北釜(きたがま)で、マルタさんとミナさんから教わりたい」


「分かった。作れるようになったら、私たちにも食べさせてね」


「……もちろんです」


 マルタさんは寝床から起き、食堂の戸口で待っていた。熱は下がり始めていたが、顔色はまだ良くない。


「休んでいてください」


「結果を聞くくらい、いいだろ」


「二年間、延長できました」


「はい。半年ごとに検査があります。改修の費用も返さなければいけません」


「そりゃ忙しくなるね」


 彼女は笑って、私の手を握った。


「よくやった、ミナ」


 水桶(みずおけ)で顔を洗い、食堂へ戻る。


 長い机には、最後の夕食が並んでいた。豆と麦の煮込(にこ)み、少し焦げたパン、薄く切った焼き野菜。飾りはないが、私の好きなものばかりだった。


「ミナさん、こっち」


 彼女の皿には肉が二切れあった。トーヴの皿にも二切れある。エッダは自分の肉を一切れ口に運び、しばらく味わってから、もう一切れを食べた。


「今日は全部食べるの?」


「うん。ライがまた明日も作るって言ったから」


「作りますよ。肉があればですけど」


「じゃあ、明日は豆でもいい」


 トーヴは一脚多い椅子(いす)を、私の隣へ引いてきた。いつもなら母親のために空けておく椅子(いす)だ。


「ここ、すわって」


「お母さんの席でしょう」


「おかあさん、まだこないから。きょうはミナがすわっていいよ」


「でも、帰ってきたら?」


「もういっこ、もってくる」


 私はその椅子(いす)に腰を下ろした。エッダがパンをひとつ割り、大きい方を私の皿へ置いた。


「ミナさんも、ちゃんと食べて」


「ねえ、ライ。明日の朝ごはん、何にする?」


「まだ決めてない」


「じゃあ、私、パン焼きたい。ミリーにも持っていくんだ」


「五時に起きられるなら教える」


「起きるってば」


 私は割ってもらったパンをもう一度かじり、空いた手で、トーヴの椅子(いす)が動かないよう脚を押さえた。


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