烏鳴く
夜風に吹かれて私の中に野心が運ばれてくる。闇に溶け込んだ風が、眼前にそっと置き去りにした。バルコニーに触れた夜風はその手すりに沿って滑らかに空間を満たす。毎夜の様に外界からの誘いを受ける。断る術もなく、そのままバルコニーへと引き出される。空には濁りのない海が広がって、満点の星空が地面に落ちている。じんわり手を包み込む冷感に安らいだ。彼方此方で光る街灯が星と成り、マンションは群れて銀河を為す。
自室に戻る頃には、心が寧ろ部屋の喉を詰まらせる。廊下のあたりを一歩、また一歩と踏み締める度に部屋がギシギシと苦しそうに泣く。空を舞う白いカーテンが、肺のように息を吸って吐いている。それでも私は胸の辺りをトンとひと叩きし、その扉に開け方を尋ねることも無く灯りの点る闇の中へと混ざっていった。大きく膨らんだ心は、光と闇の狭間で尚その膨張を止めようとしない。
のっそりとした扉は、後を押すかのように一人でに閉じた。鍵穴が此方を見つめて声をあげる。呼応するかのように左のポケットに手を突っ込んだ。其処には独特の凹凸を帯びた銀色が住んでいるようで、取り出すと闇の中に一筋の光を見せる。鍵穴が嬉しそうにその銀塊を呼ぶので、その鍵穴の奥まで探検をさせる。独特の形状の銀塊はちょうどすっぽりとはまり、何も意識をせずともカチッと音を立てながら穴が左に回転する。静寂の夜に一つ音が与えられた。閑静な街の中を少し汚してやったが、膨らんだ心を抑えつけるには、あまりに小さな抵抗であった。
そのまま、部屋が一つずつ私の左を通り過ぎてゆき、エレベーターの方までやってきた。ガタンと大きな音を立てて、私のことを迎えにくる。触れることもなく扉が開くと、一段と大きな光で私を照らしながら待ち構える。ボタンを押すと、外界への移動を始めた。一定テンポで刻まれる金属音に体が弾む。十数秒のセッションを終わらせた後に、私を静寂の闇へと誘なう扉は開かれた。そのまま体が外へと向かう。部屋の一つ一つの目の前を通ると生活音が漏れ出ている。食器のぶつかる音、テレビのアナウンサーの声などが耳を通り、数秒もすれば闇に吸われていく。妙に明るくなったエントランスを通り、静寂の世界へと一人置き去りになる。
元来私には静寂というのは好ましくない。閑静な街というのは、窓一つをとっても目がついて此方を見つめているようで、心が落ち着くことはなかった。口をつぐんでじっとしていることなどは尚更である。地面からすっと生えた星々が此方を見つめてくる。その目線に身体が強張り、小さい頃の記憶がまざまざと浮かんでくる。
「前へ倣え」
と声を掛けられて、手をピンと張った。喉を震わせることなく、体を静寂に保つのはなんと難しいことか。このまま手を緩めて左右に振れば、なんと心地が良いことだろうか。しかし、それをするほどの傲慢さを持ち合わせてはいない。ちょうど引っ張られたゴムの様に、一人で戻ることは出来ない。少し早く生まれて、立派なフリをしている人間の声に体が反応して、ようやく正常に戻される。
終わる度に筋肉が緊張し、慣れることはなかった。最前列で両手を腰に当てるという行為を何度羨んだか。この時ばかりは、自分が僅かながら人よりも大きく生まれてきたことを恨む羽目になった。その数は計り知れない。声を出してこの静寂を汚してやろうと思ったが、私の勇気はそれをするには幼過ぎたようだ。
星々に見られた緊張から解け、コツコツと歩みを進める。バルコニーから覗かせた夜空に浮かんでいた銀河も、近づいてみると星の集合に過ぎない。靴と地面が出会う音が、街全体を驚かせる。前の通りを横切る車の豪快さに、度肝が抜かれた。街を汚すことに一切の抵抗を持たない大胆さが羨ましい。少し歩みを進めると、小さな公園に辿り着く。大きな神社の付随した公園には、昔ながらの大木がある。葉が全てなくなり天井が空洞になった大木は、星でないにも関わらず明らかに異様な存在感を放っている。
公園には砂場があった。誰かが作り置いたトンネルの通った山が聳えている。横には山の七分の一ほどの赤いスコップが添えてある。そのすぐ横には鉄棒の兄弟が大人しく座っている。昔は見上げるほどの大きさだった鉄棒も、今では兄の方と背比べをしても勝てるほどになった。
昼は賑わう公園も、今になると昼の喧騒が嘘の様に声がなくなる。広場の砂は寂しそうに樹々と会話をしていた。うっすらと灯る街灯と、それと対比するように自動販売機が闇の中に冴えている。だが、この公園には私の心を抑えつけるアレがなかった。
昔は鉄棒などを見ると無性にその鉄に熱を与えたくなったものだが、今ではこの重い身体を動かす程の気力がない。そのまま公園を後にして、宵闇の奥の方へと向かっていく。月の黄色が藍色の海に色を付け加えている。雲で翳り、半月を少し丸めたような形をしている。
静かな住宅の奥を抜ける。先程とは違いここらには夜空が広がっている様子はなく、心を抑えるものはなかった。夜風は無責任に私の中に心を植え付け、何も無かったかのように肌を撫でてくる。
さらに進むともう一つの公園がぬっと現れた。先程とは違い、三日月のような細長い形をしている。ここの公園に世話になることは殆ど無かったのだが、今日は無性に此処が心地よかった。ここにはアレがある。周りにはあまり意味を為さないであろう大きさの黄色の柵が置いてある。月にも負けず劣らずの黄色は、所々黒く錆が塗られている。まさに乗り込んでやろうとしたその刹那に、突如として烏が静寂を断ち切った。
平生の私は烏の事をそこまで良く思ってはいない。寧ろ嫌いと云ってしまっても可笑しくない。昼間の烏は、外とは打って変わって、その身体や頭から嘴に至るまで闇を携えている。利口なもので、ゴミ箱を漁ったりする姿を見せることは殆どない。人間の社会に溶け込み暮らしているばかりで、人々を見下し鳥らしい姿を見せることも珍しい。
黒体の中でも一際目立つその目玉には、僅かながら光が宿っている。ぎょろっとした眼光を向けられると、星々の時とは比にならないほど背筋が凍り、身体中が強張る。嘴は刺々しささえ与えようとするように存在感を放つ。大きな翼が今にもその黒体を空へと押し上げようと懸命に羽ばたいている姿は、死神の様相を帯びている。
だが、夜になればその様子は一変するものだ。当然の様に闇に紛れた烏は、凝視をしないとその存在を視認できない。その声ばかりを辺りに響かせて存在を知らせてくる。昼間の利口さが嘘であるかのように閑静な住宅を汚しながら空を泳ぐ。今日も、その鳴き姿は輪郭を私の頭に鮮明に届けてくる。それを聞いて漸く存在を認識した。ふと上を見上げると、その烏は星々に照らされながら宇宙を背に飛んでゆく。思わず目が奪われた。羽根を上下に揺らしながら泳いで、私の心に破れそうなほど空気を入れる。
私は更に数歩進んだ。黄色の鉄柵が股の下を通る。錆びた鉄からは生臭い香りがした。虫がリンリンと鳴くのが耳に入る。世界の喧騒に掻き消されまいと、私の耳へと必死の訴えを起こす。手に触れた冷たい鉄が、熱を帯びていた心をぐっと握る。少し窮屈な硬い椅子に腰掛けるだけで、膨らみ切った心の膜には一本の針が刺さり始めた。両側にぶら下がった鎖に手を添えつつ、そっと後ろの方に下がる。
まだ地面にくっ付いているはずなのに、心臓が宙に浮いた。誰かに持ち上げられるようにして、ぎゅっと締め付けられるのがはっきりと知覚できる。そのまま前方に向かって身体ごと引っ張られた。身体ごと宙に浮かび始める。足がぶらりと宙に浮いて、ギコッ…と危なげな音を立て始める。膝をグッと此方に曲げると、羽根の可動域を大きくしながら、私の体を後方へと運んでゆく。
先程よりも奥の方まで進み、私の身体はやっと闇の中に浮かび始めた。闇に侵され始めていた身体は、その存在を世界にはっきりと見せつける。空気が抜けているのがわかる。詰まっていた妙なものは取り除かれ始めたが、ある所でその縮小を止めた。膝を伸ばして足を前方へ向けると、操作されたように鉄塊は羽ばたいて私の体を更に前へと押し出す。大きく羽ばたきながら弱々しい鉄の音が静寂を汚し始めた。何度か羽ばたいた。その度に生温い金属音が夜を揺らす。私の心膜には既に針は刺さりきっていた。
錆びた鉄の息遣いは、ゆっくりと闇夜の中に溶け込み始めた。少しずつその羽根の動きは消極的になり始める。暫くすると、その動きは星々と一体化するように停まった。土の上に靴が吸い付く。私はその場を後にして閑静な夜に戻る。まだ私の心には、一抹の膨らみが残っていた。何かに操られるように、もう一度そこに向かっていく。そのまま口を閉じた鉄に息を吹き込むように、後ろの方へと引っ張り始める。拒む様子も見せず、私の腕にそっとその身体を預けてきた。キィ…と情けなくもある金属音を鳴らしながら、その真紅の座部は私の頭よりも高い位置に到達する。
そのまま私はその羽根を静かに手放した。藍色の海の中で、一際目立つ羽が色を添えている。私の息遣いは平生のものに戻った。夜風は何も覚えていないかのようにその羽根を空へと突き動かし続ける。一定のテンポを刻みながら、その羽根は静寂に秩序を与える。
私はまた闇の中に混ざり、烏は再び街を汚し始めた。




