泥臭い再出発と、新しく上書きする温もり
東の里の朝は早い。
日が昇り始め、薄紫色の空が少しずつ白み始めたばかりの宿屋の中庭で、私は一人、汗だくになりながら木人を叩き続けていた。
「っ……ふぅ、はぁっ……!」
ドスッ、という鈍い音が響く。
だが、その音はどうしようもなく軽く、そして私の拳にはビリビリとした痛みが走った。
システムに【 】を丸ごと没収された私の体は、まるで他人のもののように重く、ひどくぎこちない。
かつて騎士団で血を吐くような努力を重ね、1.93秒と1.94秒というコンマ以下の隙間を縫うように最適化させた、私だけの完璧な連撃。その記憶は、指先の感覚に至るまですっぽりと抜け落ちている。
「痛っ……」
拳を開くと、マメが潰れて痛々しい血が滲んでいた。
以前の私なら、木人を千回叩こうが皮一枚剥けなかったはずなのに。今の私の動きは、素人に毛が生えた程度の不格好なものだ。力の入れ方も、重心の置き方も、何一つわからない。頭の中にあったはずの『武術の教科書』のページが、すべて真っ白に漂白されてしまったような感覚。
でも、立ち止まるわけにはいかない。
世界のルールを書き換える最強の力を使えば、どんな敵だって消し去ることはできる。でも、その度に私は自分自身の記憶を、心を削り取られていく。
ルナリアを、鳳鈴を、そしていつか失ってしまった大切な何かをこれ以上失わないためには、バグの力に頼るだけでなく、私自身が強くなって、自分の身を守れるようにならなきゃいけないんだ。
「……よし、もう一回。構えを低くして――」
「ストップある! 全然だめだめネ!」
背後から声がして、タンッ!と身軽な足音が響いた。
振り返ると、寝起きの紅い武闘着姿の鳳鈴が、呆れたように腰に手を当てて立っていた。その背後からは、朝日に当たらないよう黒い日傘を差したルナリアが、優雅な足取りでこちらへ歩いてくる。
「鳳鈴、ルナリア……ごめん、起こしちゃった?」
「お主の無様な拳の音がうるさくて起きたアル。……場所を貸すよろし」
鳳鈴は欠伸を噛み殺しながら私の横に並ぶと、キュッと帯を締め直した。
「腰が高すぎるアル。拳に体重が乗ってないから、ただ腕力で木を叩いてるだけになってるよろし。それじゃあ自分の拳を壊すだけアルよ。……ワタシの動きをよく見るアル!」
シュッ!
空気が鋭く鳴った、と思った次の瞬間。
ドォォォォンッ!!
鳳鈴が軽く放った正拳突きが、強固な魔法陣が刻まれていたはずの木人を一撃で粉砕し、木っ端微塵に吹き飛ばした。
一部竜化の力すら使っていない。闘気を用いた、純粋な武の極致。あまりの美しさと無駄のなさに、私は息を呑んで目を奪われた。
「すごい……」
「ふふん、当然アル。お主は基礎の基礎からやり直しよろし! ワタシが直々に、手取り足取り教えてやるアル! まずは足を開いて、大地に根を張るように――」
「ほれ、アイリス。汗を拭け」
熱血指導を始めようとする鳳鈴を遮るように、ルナリアが冷たいタオルを私の顔に優しく押し当ててきた。彼女の真祖の魔力でひんやりと冷やされたタオルは、火照った体にとても気持ちよく、甘い夜の香りがした。
「無茶をするな。……貴公が戦えぬのなら、我とあの小娘が戦えば済む話だ。貴公のその柔らかい手を、これ以上傷つける必要がどこにある」
「そうアル! ワタシたちがバグでも天使でも、全部ぶっ飛ばしてやるから安心するよろし!」
左右からかけられる、呆れるほど過保護で、底抜けに優しい言葉。
私はタオルを握りしめながら、俯いてポツリとこぼした。
「……二人とも。どうして、ここまでしてくれるの?」
「アイリス?」
「私、戦いの基礎も忘れちゃったし、これ以上力を使えば、いつか二人のことまで忘れちゃうかもしれない。何一つ返せないかもしれないのに……どうして、ずっと一緒にいてくれるの?」
私の問いに、二人は顔を見合わせた。
ルナリアはふっと優しく微笑み、鳳鈴は不思議そうに首を傾げた。
「何言ってるアルか。そんなの、お主とワタシたちが『仲間』だからに決まってるよろし!」
「……なか、ま?」
その言葉を聞いた瞬間。
頭の奥で、カチリと、小さな音がした。
いつもの、大切なものが削り取られる『パキンッ』という残酷で冷たい音じゃない。
空っぽだった私の心の引き出しに、温かい光を放つ新しい宝物がポンッと投げ込まれたような、とても優しい音。
私は、その言葉を知らない。
きっと、ずっと昔、王都を追放されるよりも前に、何かの代償としてシステムに奪われてしまった概念なのだと思う。だから、私の辞書にはずっと【 】という空白しかなかった。同じ目的のために一緒に歩いてくれる存在を示す、とても大切で、ポカポカする言葉。
システムは今も私の脳内で、『エラー。定義が存在しません』と警告を発している。
だけど今、鳳鈴が笑って言ってくれた「仲間」という言葉の響きには、ノイズが一切混じっていなかった。
一緒にいて、背中を預け合って、笑い合える関係。
失ってしまったデータ(過去)は戻らない。システムによってデリートされた事実は変えられない。
でも。
こうして新しく記憶を上書きして、覚え直すことはできるんだ。
私の心の空白は、この二人の温もりで埋めることができる。
「……ふふっ」
「どうしたアイリス、急に笑い出して。さては頭までエラーを起こしたか?」
「ううん。ルナリア、鳳鈴。私……もっと強くなるね。二人の【 仲間 】に、ふさわしくなれるように。だから、一から全部、私に教えて!」
私が涙ぐみながらも満面の笑みでそう言うと、ルナリアは少しだけ頬を赤くして「フン、勝手にしろ」と日傘で顔を隠し、鳳鈴は「よーし、じゃあ腕立て伏せ百回からアル!」と元気に笑った。
失ったものは多いけど、私がこれから手に入れるものは、きっとそれ以上に温かい。
朝の厳しい特訓を終えた私たちは、東の里のさらに奥深く、立ち入りが禁じられているという鬱蒼とした森の中へと足を踏み入れた。
目指すは、木々の隙間から時折顔を覗かせる巨大な『古代遺跡』。システムに完全に管理されたこの世界で唯一、神の目が届かないとされる聖域だ。
周囲の空気が露骨に変わる。
システムのホログラム表示がひどいノイズに塗れ、視界の端でステータス画面がチカチカと明滅を繰り返している。ここは、現行神の物理演算が及ばない、古い理で満ちた場所。
苔むした巨大な石扉の前に立つと、私の体から無意識のうちに、あのバグの魔力が溢れ出した。
『――管理者権限を承認。ようこそ、真なる後継者よ』
頭の中に直接響く、透き通った声。
ゴゴゴゴゴ……と地鳴りのような重々しい音を立てて石扉が開き、その奥から、眩いばかりの金色の光が溢れ出す。
光の中心、遺跡の最奥には、巨大な水晶が安置されていた。
そしてその中には、神秘的な六枚の羽を持ち、神々しいドレスを身に纏った美しい女性が、祈るように両手を組んで眠っていた。
彼女の閉ざされた唇が微かに動き、再び私の脳内に直接、慈愛に満ちた声が響く。
『ずっと……待っていましたよ。私の愛しいバグ。いえ――この狂った世界を壊す、新しい神様』
私を呼ぶその声は、なぜか、とても懐かしい響きを持っていた。




