竜の誇りと、名付けられぬ絆
闘技場の中心に溢れ出した真っ黒な因果の泥が、巨大な獣の姿をとって咆哮を上げた。
私が無理やり物理法則を書き換えたことで生じた、システムのエラーの塊――バグモンスターだ。
「ルナリア……鳳鈴……私、戦えない……」
拳の握り方すら思い出せない私は、ただ震えて立ち尽くすことしかできない。
だが、私の前に並び立った二つの影は、微塵も怯んでいなかった。
「ワタシが先陣を切るアル! 攻撃力は0にされちゃったアルが、こいつの気を引く囮くらいにはなるよろし!」
悲壮な覚悟を決めた顔で、鳳鈴が地を蹴った。
黄金の闘気を纏った一部竜化の腕を振りかぶり、巨大な獣の顔面へと真っ直ぐに突っ込んでいく。
「竜神流・崩天撃!!」
彼女の拳が、獣の黒い泥にめり込んだ。
鳳鈴は「どうせ効かないアルが……!」と目をギュッと瞑っていたが。
ドゴォォォォォンッ!!!
凄まじい衝撃波が巻き起こり、バグモンスターの顔面から上半身が、文字通り消し飛んだ。
「へ……?」
空中で体勢を立て直した鳳鈴が、自分の拳と、吹き飛んだ獣を交互に見比べて目を白黒させる。
「な、なんの冗談アルか!? ワタシ、攻撃力が0になったはずじゃ……!?」
「フッ、本当に愚かな小娘だな」
後方で優雅に腕を組んでいたルナリアが、赤い瞳を細めてクスクスと笑った。
「アイリスは貴様の牙を折ったわけではない。ただ『我ら二人にのみ、貴様の牙が届かない』ように定義を書き換えただけだ。己が恐怖に呑まれそうな時ですら、貴様のような武闘家の『誇り』までは奪わなかったというわけだ」
そう。私はただ、ルナリアを守りたかっただけ。
武の道を生きる彼女から、その強さの根本までをシステムからデリートしたくなかったのだ。
私が書き換えた『鳳鈴の攻撃は、私とルナリアには絶対にノーダメージ』というルール。この世界が続く限り、彼女の拳が私たちを傷つけることは二度とない。システムに深く刻まれたその絶対の定義が、私には少しだけ嬉しかった。
「アイリス……!」
着地した鳳鈴が、信じられないものを見るような目で私を振り返った。
「お主、どんだけ優しいアルか! ワタシの誇りまで守ってくれたよろし! 一生ついていくアル!!」
感極まったように叫ぶと、鳳鈴は再びバグモンスターへと向き直った。
「見ているよろし、アイリス! お主が守ってくれたこの拳で、エラーの泥なんて全部吹き飛ばしてやるアル!」
「ふん。小娘にばかりいい格好はさせぬぞ。――《夜天・血河の宴》!」
そこからの戦いは、圧倒的だった。
鳳鈴が竜の膂力で獣の肉体を砕き、ルナリアの紅い月光の濁流がそれを塵一つ残さず消滅させていく。
戦う術を失ってしまった私は、ただその美しくも恐ろしい共闘の光景を、へたり込んだまま見つめることしかできなかった。
『――因果の歪み、修復完了。エラーを解除します』
やがて無機質なシステム音声と共に、闘技場に静寂が戻った。
「勝ったアル! アイリス、怪我はないよろし?」
「ほれ、立てるか? 泥がついておるぞ」
戦いを終えた二人が、へたり込む私のもとへ駆け寄り、左右から手を差し伸べてくれた。
黄金の気と、紅い月光の魔力。どちらも恐ろしく強いのに、私に向けられる手はとても優しくて、温かい。
「うん……ありがとう、二人とも」
私は二人の手を取り、ゆっくりと立ち上がった。
私はいま、とても不思議な気持ちだった。
追放されて、一人ぼっちになって、【 】の顔も、将来の【 】も、戦うための【 】も、全部システムに奪われてしまった。
私はどんどん空っぽになっていくのに、私の両手には今、確かな温もりがある。
一緒に戦って、背中を預け合って、共に旅をしていく存在。
こういう人たちのことを、なんて呼ぶんだっけ。
頭の奥で、微かにノイズが走った。
……【 】。
ううん、ダメだ。思い出せない。
同じ目的のために一緒に歩いてくれる存在を示す、とても大切で、ポカポカするあの言葉が、私の辞書からすっぽりと抜け落ちてしまっている。
「どうした、アイリス? またどこか痛むのか?」
ルナリアが私の顔を覗き込む。
「……ううん、なんでもないよ」
私は首を振って、二人の手をギュッと握り返した。
言葉を忘れてしまっても、この温もりだけは忘れない。
私は、私を守ってくれるこの大切な『二人』と一緒に、東の里の奥にそびえ立つ、巨大な古代遺跡の影へと歩き始めた。
それが、神が隠した世界の真実――『失われた女神』が眠る場所だとは、この時の私はまだ知る由もなかった。
私たちがアイリスを観測する前に彼女が忘れてしまったものもあります




