竜の爪痕と、忘れられた握り拳
「遠慮はいらないアル! いくよろし! 竜神流・崩天撃!!」
黄金の闘気を纏い、一部竜化した鳳鈴の拳が迫る。
避けられない。私の鍛え上げた技術を以てしても、あの質量と速度の前では紙切れ同然だ。
このままでは、木っ端微塵に粉砕される。
『――定義、改変……!』
世界の裏側へアクセスしようと手を伸ばした。しかし、脳裏に過ぎるのはあの残酷な破砕音。
これを使えば、私はまた大切な何かを失う。恐怖で足が竦み、私は鳳鈴の拳から目を逸らすことに【 】中になってしまっていた。
「――我の後ろで笑っておれと言ったはずだ、アイリス!!」
その時、私の前に漆黒のドレスが舞い降りた。
ルナリアだ。彼女は己の身を挺して、真祖の魔力で編み上げた幾重もの紅い障壁を展開した。
ドゴォォォォンッ!!!
闘技場が消し飛ぶほどの轟音。
「くぅ……っ! さすがは竜神の気……だが、我の愛しき者を傷つけさせるものか……!」
ルナリアが歯を食いしばる。だが、限界だった。
パリィンッ! と嫌な音を立てて、最強の吸血鬼が張った障壁にヒビが入っていく。
このままじゃ、ルナリアが死んじゃう。
私を庇って、私のために。
――そんなの、絶対に嫌だ!!
恐怖なんて吹き飛んだ。私はルナリアの背中越しに、世界のシステムを鷲掴みにした。
「定義改変!! 鳳鈴の攻撃力を、『0』に書き換える!!」
カシャッ。
世界が、強制的に理を曲げられた音を立てた。
「もらったアル――って、へ?」
ぽふっ、という気の抜けた音が響いた。
私の顔面すれすれでルナリアの障壁をブチ破った鳳鈴の竜神拳は、まるでふわふわの綿毛のように、私の鼻先を優しく撫でただけだった。
「な、なんの冗談アルか!? ワタシの全力が、なんでただの撫で撫でになってるアルか!?」
目を白黒させる鳳鈴。
ルナリアも驚いて振り返る。「アイリス……貴公、また力を使ったのか!?」
その声と同時に。
――パキンッ!!!
今までで一番重く、冷たい音が脳内に響いた。
「あ……あぁっ……」
私はその場にへたり込んだ。
指先が震える。手のひらを見る。血の滲むような努力で作ったタコがある。
なのに。
私が何千回、何万回と木人を叩き続けて体に叩き込んだはずの、私だけの完璧な【 】。
1.93秒と1.94秒の隙間を縫うあの最適化された動き。どんな強敵が相手でも、それさえあれば戦い抜けるという、私の騎士としての誇りであり、最強の証明だったはずの美しい【 】。
それが今、ドス黒いノイズに侵食され、すっぽりと抜け落ちた。
「アイリス、どうした!? 何を失ったのだ!」
「私……私……」
私は、自分の両手を見つめたまま、ポロポロと涙をこぼした。
「拳の、握り方が……わからない……どうやって、構えるんだっけ……?」
自分の身を守るための【 】という概念そのものを、システムに奪われたのだ。
最強の力と引き換えに、私はただの無防備な少女になってしまった。
その姿を見て、一番驚いていたのは鳳鈴だった。
彼女は一部竜化を解き、ハッとした顔で私に歩み寄ってきた。
「お主……まさか、仲間を庇うために、自分の『武』を代償にしてワタシの攻撃を無効化したアルか……?」
鳳鈴の金色の瞳が、感動でウルウルと潤み始める。
「なんて漢気ある……! 最強の武闘家は、拳の強さじゃない。誰かを守るためのその心意気よろし!! ワタシ、お主のことすんごく気に入ったアル! 謝謝、素晴らしいものを見せてもらったネ!」
彼女は私の手をギュッと握り、満面の笑みを浮かべた。
どうやら盛大な勘違いをされているようだけど、鳳鈴から敵意が消えたことにホッとする。
でも、システムはそんな安息を許してくれなかった。
『――致命的エラー。不自然な物理演算の改変により、空間に因果の歪みが発生』
無機質な声が空から降り注ぐ。
同時に、闘技場の中心に真っ黒な泥のような「バグ」が溢れ出し、巨大な異形の獣の形を成し始めた。
私が無理やりルールを書き換えた反動で、世界がエラーを吐き出したのだ。
「ルナリア……鳳鈴……どうしよう……私、戦えない……」
震える私の前に、漆黒のドレスと紅い武闘着が並び立った。
「案ずるなアイリス。貴公の盾は我が務める。――貴公が戦えぬなら、我が貴公の牙となろう」
「ワタシも手伝うよろし! これからは、アイリスはお主らで守るアル! いくよろし、吸血鬼!」
「気安く話しかけるな、小娘。足手まといになれば貴様から血を吸うぞ」
戦う術を失った私の背中を護るように、吸血鬼の真祖と竜神の武闘家が、圧倒的なバグの塊へと立ち向かっていくのだった。




