竜の里の武道家と、空白の言葉
王都を離れ、手配書に記されていた東の里へと向かう道すがら。
私は、ただひたすらに前へ足を動かすことに【 】中になっていた。
……うん、やっぱり気持ちが悪い。
頭の中で言葉を紡ごうとするたびに、ひどいノイズが走るのだ。
先日、私は自分の将来の目標だった【 】という概念をシステムに奪われた。そのせいで、夜眠っている時に見る映像のことも、何かに没頭している状態を表す「【 】中」という言葉も、すっぽりと私の辞書から抜け落ちてしまった。
言葉のパズルに穴が空いているような、ひどく歪で不安な感覚。
「アイリス、顔色が優れぬな。歩き疲れたか? 案ずるな、我が背負ってやろう」
隣を歩くルナリアが、気高い顔つきを少し崩して心配そうに覗き込んでくる。
「ううん、大丈夫。ルナリアの方こそ、太陽の光とか平気なの?」
「ふん。我が月光を魔力に変えられるようになったのを忘れたか? 直射日光とて、今の我には心地よい微風にすぎぬわ」
そう言って胸を張る彼女の漆黒のドレスは、太陽の下でも美しい。
彼女の存在が、空っぽになりかけている私をかろうじて世界に繋ぎ止めてくれていた。
数日間の旅路の末、私たちは切り立った山々の奥底に隠された巨大な集落――『東の里』へとたどり着いた。
そこは、王都の整然とした街並みとは打って変わって、極彩色の提灯が連なり、銅鑼の音が鳴り響く、活気に満ちた武闘都市だった。
街の至る所に闘技台が設けられ、屈強な武道家たちが拳を交え、熱気を放っている。
「これが、竜神武闘大会……」
私がその熱気に圧倒され、辺りを見回すのに【 】中になっていた、その時。
「そこの銀髪のお主! ワタシと勝負するよろし!」
頭上から、銅鑼の音にも負けない元気な声が降ってきた。
見上げると、闘技台の柱のてっぺんに、小柄な人影が立っていた。
燃えるような紅い武闘着に、金色の長い髪をお団子のようにまとめた少女だ。
彼女は軽やかに宙を舞い、私たちの目の前にふわりと着地した。
システムが彼女の情報を表示する。
『種族:竜神族/状態:闘気充実』
「お主、ただ者じゃないアルな! 世界の枠組みから浮いているような、不思議な『気』を感じるアル!」
少女はビシッと私を指差し、挑戦的な笑みを浮かべた。
「ワタシの名前は鳳鈴! この里で一番強い武闘家ある! 謝謝、こんな辺境までよく来てくれたアルな!」
「えっ、私? 私は別に大会に参加しにきたわけじゃ――」
「気安く我のアイリスに近づくな、小娘」
私が戸惑っていると、ルナリアがスッと私の前に立ち塞がった。赤い瞳が冷たく細められ、圧倒的な真祖の魔力が周囲の空気を凍らせる。
だが、鳳鈴は全く怯むことなく目を輝かせた。
「吸血鬼の真祖アルか! すごい魔力ある。でも、ワタシが興味あるのはその後ろの銀髪アル!」
言うが早いか、鳳鈴の姿がブレた。
「えっ……!?」
速い。ルナリアの死角をすり抜け、鳳鈴の拳が私の胸ぐらへと一直線に突き出される。
神のシステムによって定義された『速度』の上限すら無視するかのような、恐るべき踏み込み。
――だが、私の体は思考よりも先に動いていた。
タンッ、と軽く地を蹴り、半歩だけ軸をずらす。
鳳鈴の拳が私の頬をかすめるが、私はその力を利用してクルリと身をかわし、彼女の背後へと回り込んだ。
「ほう!」
鳳鈴が驚きの声を上げる。
当然だ。今の回避は、私が騎士団で何千回、何万回と木人を叩き続け、血の滲むような努力で身につけた完璧な体捌きなのだから。
1.93秒と1.94秒というコンマ以下の隙間を縫うように最適化された、私だけの無駄のない動き。最強の力を使わずとも、私には積み上げてきたこの『技術』がある。
「すごいアル! 今のワタシの踏み込みを、純粋な体術だけで避けた人間は初めてアルな!」
鳳鈴は嬉しそうに飛び退き、バチンッと自分の拳を打ち合わせた。
「アイリスと言ったあるな! お主となら、ワタシも全力が出せるよろし!」
ゴォォォォッ!!
鳳鈴の小さな体から、金色の闘気が爆発的に噴き出した。
「アイリス、下がれ! 奴の魔力回路が変質しておる!」
ルナリアが叫ぶ。
見ると、鳳鈴の両腕を覆うように、黄金に輝く硬質な『竜の鱗』がビッシリと浮かび上がっていた。
部分的竜化。伝説の竜神族が持つ、物理法則を捻じ曲げるほどの圧倒的な破壊の権化。
「遠慮はいらないアル! いくよろし! 竜神流・崩天撃!!」
竜の腕と化した鳳鈴の拳が、空間そのものを叩き割るような轟音と共に私へ迫る。
避けれらない。私の鍛え上げた技術を以てしても、あの質量と速度の前では紙切れ同然だ。
このままでは、木っ端微塵に粉砕される。
『――定義、改変……!』
私は咄嗟に、世界の裏側へアクセスしようと手を伸ばした。
しかし。
脳裏に過ぎるのは、またあの残酷な破砕音。
これを使えば、私はまた【 】のように、大切な何かを失う。
名前? 記憶? それとも、今私を支えてくれているこの『戦うための技術』すらも、システムに没収されてしまうのか?
「いや、だ……!」
恐怖で声が震え、私は目を固く閉じた。
圧倒的な竜の拳が、すぐ目の前まで迫っていた。




