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紅き夜の孤独と、月明かりの備忘録

窓から差し込む青白い月光が、ベッドで眠る少女の顔を照らしていた。

アイリス。

この狂った世界で唯一、神の理に抗う力を持った、恐ろしくも脆い私の主。

彼女は今、静かな寝息を立てているが、その眉間には微かに苦しげな皺が寄っていた。力を使うたびに大切な記憶を削り取られる恐怖が、夢の中にまで彼女を苛んでいるのだろう。


「……馬鹿な娘だ」

私はベッドの傍らの椅子に深々と腰掛け、ポツリと呟いた。

その寝顔は、世界を背負うにはあまりにも幼く、柔らかい。


私の喉の奥で、チリチリと焼け付くような渇きが疼いた。

吸血鬼の真祖として生を受けた私にとって、人間の血を啜ることは呼吸をするのと同じ、逃れられない本能だ。だが、私はこの2000年間、ただの一滴も他者の血を奪ったことはない。


2000年前。私がまだこの世界に絶望していなかった頃。

私は、人間の命がどれほど脆く、そして美しいかを知ってしまった。

数十年の寿命しか持たない彼らは、笑い、怒り、悲しみ、懸命に生きて、そしてあっという間に星屑のように消えていく。その儚い輝きを、私の永遠を繋ぎ止めるための餌にするなど、到底耐えられなかったのだ。


血を拒絶し始めた私を、同胞たちは狂人だと嘲笑い、人間たちは化け物だと石を投げた。

飢えに狂いそうになる夜は幾度もあった。内なる獣が「奪え」と囁き、己の爪で自身の腕を引き裂いて痛みを上書きした夜の数は、とうの昔に数えるのをやめた。


孤独だった。永遠に続く暗闇の中で、私に寄り添う者など誰もいなかった。

世界はシステムに支配され、人間はただの歯車になり下がり、私が愛したあの泥臭くて温かい命の輝きは、すっかり失われてしまったと思っていた。


――この、お人好しで馬鹿な少女に出会うまでは。


「ルナ、リア……」

ベッドの中で、アイリスが微かに寝言を漏らした。

私はそっと手を伸ばし、彼女の銀色の髪を撫でる。私のひんやりとした指先が触れると、彼女は安心したようにふわりと表情を緩めた。


アイリスは、己の過去を、記憶を、未来を差し出してまで誰かを守ろうとする。

その自己犠牲の姿は、飢えに苦しみながら2000年を一人で耐え抜いてきた私自身の孤独と、ひどく重なって見えた。

いや、違う。この娘の孤独は、私よりもずっと深く、残酷だ。

彼女は明日目覚めた時、自分の大切な思い出を、あるいは感情の欠片を、システムに奪われて喪失しているかもしれないのだから。


「……我が、守らねばならん」


私は静かに立ち上がり、月明かりが差し込む机に向かった。

そして、古い革張りの手帳を開き、インクをたっぷりと吸わせた羽根ペンを握る。


サラサラと、静かな部屋にペンが紙を擦る音だけが響く。

私が書き記しているのは、アイリスのすべてだ。

彼女が笑った顔。彼女が好きな食べ物。彼女が今日、誰を助けるためにどんな無茶をしたのか。

そして、彼女がどれほど優しく、どれほど強い騎士であるかということ。


アイリスの記憶が世界からデリートされていくのなら、この私が、彼女の生きた証をすべてこの手帳にバックアップする。

2000年という果てしない時を生きてきた私の記憶と記録は、神のシステムであろうともそう簡単には消し去れないはずだ。


「……ふっ、我ながら過保護なことだ」

自嘲気味に笑いながら、私は筆を走らせ続けた。

吸血鬼の真祖たるこの私が、ただの人間一人のために、こうして夜通し記録を綴っている。だが、その作業は決して苦痛ではなく、むしろ私の干からびた心に、温かい血を注ぎ込まれているかのような安らぎを与えてくれていた。


やがて、夜が白み始めた頃。

私は手帳の最後のページにペンを置き、そっと息を吐いた。

窓の外では、新しい朝が訪れようとしている。今日、アイリスが目を覚ました時、彼女の中から何が消え去っているかはわからない。


もしかしたら。

私と共に過ごしたこの日々の記憶すら、真っ白に漂白されてしまっているかもしれない。

その想像は、2000年の飢えよりも鋭く、私の胸を締め付けた。


けれど、私は決して絶望しない。

彼女が忘れてしまうのなら、何度でも私が教えてやろう。

彼女が空っぽになってしまうのなら、私が何度でも、この手帳に記した温かい記憶を読み聞かせてやろう。


私は手帳を閉じ、その表紙にそっと口付けを落とした。

その最後のページには、流麗な文字で、私のただ一つの祈りが記されていた。


『アイリスが今日、我の名前すら忘れてもいいように……』

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