神の尖兵と、夜の統治者
「――エラーコード、検知。システムの致命的バグ、及びその加担者の排除を実行します」
夜空に走った無数の亀裂から、無機質な声が降り注ぐ。
空間がガラスのように割れ、そこから現れたのは、純白の翼と幾何学的な光の輪を背負った者たち――神の尖兵たる『天使』の群れだった。
彼らの手には、システムによって極限まで強化された光の剣が握られている。その顔に感情はなく、ただ私たちを「排除すべきバグ」としてロックオンしていた。
ステータス画面が視界を埋め尽くすほどの赤い警告を点滅させる。
迎撃しなきゃ。殺される。
私は震える手を前にかざし、世界の裏側へアクセスしようとした。
「定義、改変……っ」
言葉を紡ごうとした瞬間。
――パキンッ。
脳の奥底で、先ほどの残酷な破砕音がフラッシュバックした。
『やだ……!』
息が詰まる。喉が痙攣して、声が出ない。
この力を使えば、敵は一瞬で消せる。でも、その代償として、私はまた『私』を失うのだ。
木彫りの剣をくれた【 】の顔を忘れた。いつか自分の居場所を作るという【 】も消え去った。
次に力を使ったら?
自分の名前すら忘れてしまったら? 私を抱きしめてくれている、この美しい吸血鬼のことすら忘れて、本当の空っぽになってしまったら?
「あ、ぁ……っ、いや、だ……」
恐怖で足が竦み、私はその場にへたり込んでしまった。
最強の力を持っているのに、それを使う自分自身が怖くてたまらない。震える両手で頭を抱える私に向けて、天使たちが無慈悲に光の剣を振り下ろす。
終わる。そう思い、強く目を閉じた時だった。
「……下がっておれ、アイリス」
私の前に、漆黒のドレスが舞った。
天使の光剣が彼女に届く直前、見えない壁に弾かれるようにして甲高い音を立てて砕け散る。
月光を浴び、本来の圧倒的な美しさと覇気を取り戻した真祖、ルナリアだ。
「神の使いか何だか知らぬが……我の2000年の静寂を乱し、あまつさえ我が唯一の理解者を害そうとは。万死に値するわ」
彼女が細い腕を振るうと、空から降り注ぐ銀色の月光が、鋭い刃を伴った紅い魔力へと変質した。
「我はルナリア。夜の統治者なり。……さあ、血を流すのは貴公らの役目だ。我の渇きを、その破滅で癒してみせよ!」
ルナリアが優雅に微笑んだまま、指先を鳴らす。
瞬間、荒野の大地から無数の紅い杭が突き出し、天使たちの体をいとも容易く串刺しにしていった。システムによって『絶対防御』を付与されているはずの神の尖兵たちが、まるで紙くずのように引き裂かれ、光の粒子となって消滅していく。
圧倒的。それが、2000年を生き抜いた伝説の吸血鬼の真の力。
「――物理演算の破綻を確認。パッチを適用し、広域殲滅モードに移行します」
だが、システムも黙ってはいない。
生き残った天使たちが一点に集束し、ドロドロに溶け合いながら、巨大な一つの目玉を持つ異形の天使へと姿を変えた。
その中心で、周囲の空間ごと消し去るほどの極大のエネルギーが圧縮されていく。
『対象範囲:半径5キロメートル。存在の完全初期化を開始』
「ルナリア……!」
私は弾かれたように顔を上げた。
いくら彼女が真祖でも、システムが放つ初期化の光線をまともに受ければ無事では済まない。
怖くても、私がやるしかない。私が、彼女を守るんだ。
「私が……やる、から! 定義改――」
「やめよ、アイリス」
私の前に立ち塞がったルナリアが、ふわりと振り返り、優しく微笑んだ。
「貴公が己を削る必要などない。……我を、誰だと思っている?」
ルナリアはゆっくりと宙に浮き上がり、月を背にして両手を広げた。
「我が2000年耐え忍んだ飢えと渇き……その果てに得た月光の恩恵。神の理ごと、喰い破ってくれよう。――《夜天・血河の宴》!!」
紅い月光が、巨大な濁流となって荒野を飲み込んだ。
異形の天使が放った完全初期化の光線すらも、ルナリアの放つ圧倒的な「夜の魔力」の前には無力だった。光線は濁流に飲み込まれ、異形の天使は断末魔を上げることもできず、紅い光の中に完全に消え去った。
勝った。
静寂が戻った荒野で、私は自分の胸に手を当てる。
記憶は……消えていない。自分の名前も、ルナリアのことも、ちゃんと覚えている。
初めて、代償を払わずに生き残ることができた。
「アイリス」
ふわりと舞い降りたルナリアが、震える私の肩を抱きしめる。
「……ありがとう、ルナリア。私、怖くて……」
「案ずるな。貴公が己を失うことを恐れるなら、我が貴公の剣となり、盾となろう。貴公はただ、我の後ろで笑っていればよいのだ」
その言葉に縋りつくように、私は彼女の漆黒のドレスをきつく握りしめ、ポロポロと安堵の涙をこぼした。
しばらくして、荒れ狂っていた風が完全に止む。
私はルナリアに支えられながら立ち上がり、天使が消滅した跡地に歩み寄った。
そこには、一つだけ消え残った黒い金属の『紋章』が落ちていた。
「これは……」
記憶が欠落した頭でも、それが何かはすぐにわかった。
『王都・聖騎士団長』の紋章。私を追放した男の証。
なぜ、神の尖兵である天使がこれを持っていたのか。
システムと王都の間に、何らかの繋がりがあるのは明白だった。
そしてその傍らには、風に飛ばされてきた一枚の古びた手配書のような紙が張り付いている。
『求ム、強者。――竜神武闘大会、東の里にて開催』
「……東の里か」
私は紋章と手配書を握りしめ、夜明けが近づく東の空を見つめた。
自分が何者かもわからなくなりながらも、私には隣を歩いてくれる心強い味方がいる。
神の理不尽に抗うための、本当の旅がここから始まるのだ。




