2000年の渇きと、月光の誓い
荒野の夜風は、私の心を体現するように冷たく、容赦なく吹き荒れていた。
王都を追放され、命を狙ってきた暗殺部隊を「自壊」へと書き換えた直後。私は、自分を支えていた一番古い記憶――私に木彫りの剣をくれた【 】の存在をシステムに奪われた。
自分のルーツがぽっかりと抜け落ちた喪失感は、想像を絶するものだった。
足元が泥沼になったように重い。自分が誰に愛されて育ったのか、その温もりすら思い出せない。暗闇の中で一人ぼっちになってしまったような錯覚に陥りながら、私はただあてもなく、崩れかけた古代遺跡の石柱が並ぶ地帯へと足を踏み入れていた。
「……人間か。そこから、去れ……」
不意に、岩陰から掠れた声が響いた。
ビクリと肩を震わせ、私は視線を向ける。
雲の切れ間から差し込んだ月明かりの下、そこに倒れていたのは、夜の闇をそのまま切り取ったような漆黒のドレスを纏う少女だった。
透き通るような白い肌に、月光を弾く美しい銀色の髪。しかし、その体はひどく痩せ細り、こちらを睨みつける血のように赤い瞳は、極限の飢えと虚無でひどく濁りきっていた。
私の瞳の奥で、世界の理を記述するシステムが勝手に彼女の情報をポップアップさせる。
『種族:吸血鬼(真祖)/状態:極度の魔力欠乏(2000年間未吸血)・生命活動停止寸前』
吸血鬼の、真祖。
おとぎ話でしか聞いたことのない、夜を支配する伝説の存在。それがなぜ、こんなボロ雑巾のようになって荒野で行き倒れているのか。システムが告げる『2000年間未吸血』という異常な数値が、彼女の凄絶な過去を物語っていた。
「……どうして」
私は、警戒するよりも先に、吸い寄せられるように彼女へ近づいていた。
「どうして、血を飲まないの。あなたがその気になれば、人間なんていくらでも襲えるはずなのに」
「……愚問だな。人間など、脆く、儚い生き物よ……」
少女は自嘲するように、血の気のない唇を歪めた。
「我が少しでも牙を立てれば、貴公らは容易く壊れ、死に至る。我はこの世界を、そこで懸命に生きる者たちを愛している……だから、我は……我が飢え続けることで世界が平和であるならば、それでよいのだ……」
絶大な力に振り回されず、他者を守るために自分を犠牲にする道を選んだ人。
王都の騎士団長や、私を追放した人間たちとはまるで違う、高潔な魂。
2000年。途方もない時間、彼女はたった一人でこの身を切るような飢えと孤独に耐え続けてきたのだ。
それは、すべてを「0」と否定され、たった今大切な記憶を失って孤独になった私の心に、強く、深く突き刺さった。
「……そっか。あなたは、すごく優しいんだね」
気づけば、私はひんやりと冷たい彼女の頬に、そっと手を伸ばしていた。
「な、にを……触れるな、我の理性が、いつまで保つか……!」
「大丈夫。私が、あなたをその呪いから解放してあげる」
私は静かに目を閉じ、私にしか見えない「世界の裏側」へと意識をダイブさせる。
無数の文字と数式が滝のように流れるシステムの海。私はそこに手を突っ込み、彼女を縛り付ける理を直接掴み取った。
「定義改変」
私の声に呼応し、世界という名の巨大なパズルが一斉に組み替わる、重厚な音が響く。
「真祖ルナリアの吸血対象を、『人間の血』から『降り注ぐ月光』に書き換える」
カシャッ。
空間が歪み、新たな定義が世界に上書きされた瞬間だった。
空から降り注ぐ銀色の月光が、まるで意思を持った光の粒子のようにルナリアの体へと集束していく。
「な、んだこれは……! 月の光が、我の魔力経路に直接……力が、満ちていく……!?」
彼女はゆっくりと立ち上がった。
先ほどの弱々しい姿は嘘のように消え去り、その赤い瞳には強烈な生気と、夜の統治者たる圧倒的な覇気が宿っていた。
「貴公……神の理を、書き換えたというのか? 貴公は一体……」
驚愕に目を見開くルナリア。
しかし、私がそれに答えるよりも早く。
――パキンッ!!
頭の奥で、先ほどよりもさらに鋭く、残酷な音が響いた。
「あ、が……っ!?」
胸の奥から、何かがごっそりと抉り取られる感覚。
待って。やだ。また、消える。
騎士団でお金を貯めて、いつか絶対買おうと決めていたんだ。4月の15日、活気あふれる『アスラ』の区画で、新しい土地の抽選申し込みがあるって聞いて。どんな家具を置こうか、どんなお庭にしようか、毎日ワクワクしながら手帳に予定を書き込んで。
いつか私だけの居場所を作るんだっていう、私の、大切な将来の【 】。
それが今、ノイズに塗れ、黒くドロドロに溶けていく。
『土地? アスラ? ……それって、なんだっけ。私、なんでそんなにお金が必要だと思ってたんだっけ……?』
完全に消え去った。
未来への希望が。私が明日を生きるための理由が。
「あ……れ? 私……何のために……これから、どこに帰れば……」
目の前が真っ暗になり、膝から崩れ落ちそうになる。
目標を失い、未来さえも空っぽになってしまった強烈な喪失感。
だが、私が冷たい土に倒れ込むより早く。
ふわりと、夜の香りがした。
「……アイリス、と言ったな」
ルナリアの細く、しかし力強い腕が、ガタガタと震える私の体をしっかりと抱き止めていた。
「ル、ナリア……私、また……わからなくなっちゃった……私の、明日が……」
「案ずるな。恐れることはない」
ルナリアは私の背中を優しく撫でながら、耳元で優雅に、そして力強く囁いた。
「貴公が過去を忘れ、明日を恐れ、未来を失うというのなら。我がその全てを新しく綴り、語り継ごう」
赤い瞳が、真っ直ぐに私を射抜く。
「我こそは貴公の『記憶の墓標』にして、唯一の理解者なればな。……もう、貴公は一人ではないぞ」
その重く、不器用で、包み込むような温もりに、私の凍りついていた心は少しだけ救われた気がした。
だが、私たちが夜の底で出会い、契約にも似た絆を交わしたその時。
「――エラーコード、検知。システムの致命的バグ、及びその加担者の排除を実行します」
頭上の空間が、まるでガラスのようにピキピキとひび割れた。
無機質で冷酷な声と共に、夜空を切り裂いて現れたのは、真っ白な光の輪を背負い、巨大な剣を構えた神の尖兵――『天使』の群れだった。
あなたの将来の【 】はなんですか?




