神の玉座と、空っぽの証明
巨大な真っ白な扉が、音もなく開いた。
そこは、塔の最上階でありながら、果てのない宇宙空間のような場所だった。
床も天井もなく、ただ足元にはデータの海が星屑のように煌めいている。
その空間の中心に、『それ』は浮遊していた。
人間のような肉体はない。無数の幾何学的な光の輪が複雑に交差し、絶えず形を変え続ける巨大な多面体。
それが、この世界を『電池』として管理し、人々の運命をステータスという数字で縛り付けている絶対者――現行神だった。
『――よくぞ辿り着きましたね、特異点。並びに、旧世界の残滓たちよ』
声は、空間そのものから響いてくるような脳に直接届いてるような不思議な声だった。
性別も、感情も、一切の揺らぎも感じさせない、完璧で無機質な音声。
「……お前が、神様」
私が無表情に見上げると、多面体はゆっくりと回転しながら光を瞬かせた。
『いかにも。私はこの世界を最適化し、永遠の存続を約束する管理者です。……アイリス。なぜあなたは、この完璧な平和を壊そうとするのですか?』
「完璧な平和……? ふざけるなよろし!」
私の横で、鳳鈴が牙を剥いて叫んだ。
「お主は、人間をただの電池にしてるだけアル! 運命を決めつけて、自由を奪って、ワタシたち竜神族やルナリアみたいな存在に、呪いみたいな役割を押し付けてるだけよろし!」
「その通りだ。我らをただの歯車として扱う貴様の理など、到底看過できぬ」
ルナリアも紅い魔力を手元に集束させ、鋭く睨みつける。
だが、神の光は微塵も揺らがなかった。
『自由。……実に非効率で、破滅的な概念です。かつてこの世界は、人間の自由な感情が引き起こす憎悪や戦争によって、自壊寸前まで追い込まれました。だから私は、レベルという限界を設け、ジョブという役割を与え、予測不可能な「変数」を排除したのです。誰もがシステムに従えば、争いは起きず、世界は永遠に保たれる。これ以上の慈悲がどこにあるというのですか?』
神の言葉には、一切の悪意がなかった。
ただ純粋に、それが「正しい計算結果」であると信じ切っているのだ。
『アイリス。私を壊せば、世界は再び混沌に落ちます。……それに、あなた自身が一番よく理解しているはずだ。感情というバグがいかに脆く、無価値であるかを』
神の言葉が、冷たく私に突き刺さる。
『あなたはここまで来るために、家族との温かい【 】を捨て、食事の【 】を捨て、そしてついに、他者を想って流す【 】の感情すらもシステムに差し出した。今のあなたは、怒りも、痛みも、悲哀も感じない。……私と同じ、ただ目的を実行するだけの『機械』に近づいている』
「……っ」
ルナリアと鳳鈴が、痛ましそうに私を見る。
神は容赦なく、私の心の空白を暴き立てた。
『己の心をフォーマットしてまで手に入れた力が、この程度のものか。今のあなたに、その後ろにいる者たちへの『愛』は残っているのですか? ただ「仲間というデータ」に縛られて、無意味な反逆を続けているだけではないのですか?』
「……愛」
私は、自分の両手を見つめた。
【 】がない。胸の痛みもない。ルナリアや鳳鈴が傷ついても、涙が出る理由がわからない。
私が今、ここに立っているのは、ただの惰性なのだろうか? 感情を失った私は、神の言う通り、ただの壊れた人形なのだろうか?
「……黙れ」
不意に、静かな、けれど地獄の底から響くような声がした。
ルナリアだ。彼女の赤い瞳が、かつてないほどの凄絶な殺気を放って神を睨みつけている。
「貴様のような心無き機械が、我のアイリスを語るな」
ルナリアが一歩前へ出る。
「この娘がなぜ心を削り、感情を失ったか……それはすべて、我らを守るためだ! 貴様が押し付けた理不尽から、我らの誇りを守るために、己の魂を代償にしたのだ!」
「そうアル!!」
鳳鈴も、涙を浮かべながら私の前に立ち塞がった。
「アイリスの心が空っぽなら、ワタシたちが何度でも愛を詰め込んでやるよろし! お前みたいな寂しい神様に、アイリスの流した涙の重さがわかってたまるアルか!!」
二人の言葉が、宇宙のような空間に響き渡る。
私は、二人の小さな背中を見つめた。
心は、相変わらず静かなままだ。温かい感情が湧き上がってくるわけじゃない。
でも。
私は、そっと二人の手に自分の手を重ねた。
ひんやりとした真祖の指先と、熱を帯びた竜の小さな手。
「……うん。神様の言う通り、私にはもう、二人のことを想って胸を痛める感情はないよ」
私は、多面体に向かって真っ直ぐに顔を上げた。
「私の頭の中は、今すごく静かで、空っぽだ。……でもね。仲間だから助けるんじゃない。愛してるから戦うのでもない」
私は、繋いだ二人の手をギュッと握りしめた。
「私が、この二人を守るって『決めた』んだ。感情がなくなっても、記憶が消えても、私が私自身に定義した、たったひとつのルール。……それは、お前みたいなシステムが管理する理屈より、ずっと、ずっと強いんだよ!!」
私が叫んだ瞬間、私の体から眩いほどのバグの光――旧神セレスティアから託された、管理者権限の黄金の魔力が爆発的に膨れ上がった。
『……理解不能。論理的破綻。致命的なエラーを確認』
神の多面体が、危険を知らせるように赤黒く明滅を始める。
『対話による修正は不可能と判断。これより、特異点およびその随伴データの完全消去を実行します』
神の周囲の空間が割れ、幾千、幾万もの光の剣が出現した。
それは天使の持っていたものとは次元が違う、世界そのものを初期化する神の絶対法則の刃。
「来るアル! アイリス、ワタシの後ろに!」
「我らの命、最後の一滴まで貴公の盾となろう!」
「ううん、私がやるよ」
私は二人の前に出て、真っ赤に染まる宇宙空間に向かって両手を広げた。
感情がなくても、心が痛まなくても。私には、この手の中にある体温だけがあればいい。
「定義改変!! この狂った世界のルールを――私たちが、全部上書きしてやる!!」
世界の存亡を懸けた、神とバグの最後の戦いが、今ここに幕を開けた。




