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亡霊の【  】と、怒りの竜爪

【  】という感情をシステムにフォーマットされ、自分がなぜ泣いているのかすらわからなくなったあの日から。

私たちは、ただひたすらに天の塔の真っ白な回廊を上り続けていた。


私の心は、驚くほど静かだった。

隣を歩くルナリアと鳳鈴が、時折痛ましそうな、そして腫れ物を扱うような視線を私に向けてくることにも、今の私には何も感じない。ただ「視線を感じた」という事実が、無機質なデータとして脳内に記録されるだけだ。


「……アイリス。貴公、本当に……どこも痛まぬか?」

ルナリアが、私の頬を伝い続ける涙を指先で拭いながら、絞り出すような声で尋ねる。

「うん、痛くないよ。……ルナリアこそ、鳳鈴に殴られた傷、もう大丈夫?」

私が無表情に問い返すと、ルナリアは息を呑み、鳳鈴は顔を背けて唇を噛み締めた。

その二人の反応の理由すら、今の私には理解できなかった。


『――エラー対象の第2防衛ライン突破を確認。最終破棄プロトコルへ移行。対象の失われたデータをサルベージし、兵器として再定義します』


塔の最上階へと続く巨大な扉の前に立った瞬間、無機質なシステム音声が空間に響き渡った。

ゴゴゴゴ……と音を立てて扉が開き、その奥から、眩いばかりの光と共に一機の『天使』が姿を現した。


だが、その天使は今までとはまるで違っていた。

純白の装甲は有機的な曲線を描き、背負った六枚の翼は光の粒子ではなく、まるで鍛え上げられた鋼のような質感を放っている。武器は持っていない。ただスッと両手を開き、拳を握る。


その天使が無駄なく重心を落とした『足運び』と『構え』を見た瞬間。

私の胸の奥で、何かがパチリと弾ける感覚があった。


「あ……」

その構え。私はそれを知らない。

でも、私の細胞が、筋肉が、魂が、その構えの完璧さを知っていると、激しく警鐘を鳴らしていた。


「なっ……なんアルか、あいつの気……!」

鳳鈴が両腕を一部竜化させ、警戒態勢にはいる。

「小賢しい人形め。我が直々に塵にしてくれるわ!」

ルナリアが紅い魔力を迸らせ、天使へと突進した。


だが、天使は動かなかった。

ルナリアの放った紅い杭が心臓を貫く、そのコンマ数秒前。

天使の体がブレた、と思った瞬間には、ルナリアの攻撃はすべて空を切っていた。

完璧な軸移動。最小限の予備動作。


「……嘘アル!」

鳳鈴が驚愕の声を上げる。ルナリアの超常的な速度の攻撃を、純粋な『体術』のみで見切ったのだ。


天使は回避した体勢のまま、吸い込まれるようにルナリアの死角へと入り込み、滑らかな足運びから重い拳を突き出した。

1.93秒。ルナリアが反撃に転じるための隙間。

1.94秒。そのコンマ以下の隙間に、完璧なタイミングで叩き込まれるカウンターの掌底。


「が、はっ……!?」

ルナリアの体が、木の葉のように吹き飛ばされ、真っ白な壁に激突した。


「ルナリア!!」

鳳鈴が叫び、金色の闘気を纏って天使へと襲いかかる。竜神族の圧倒的な質量を持った拳。


だが、天使は鳳鈴の拳を避けるどころか、自らその懐へと飛び込んだ。

鳳鈴の膂力が爆発する直前、天使の足払いが鳳鈴の軸足を正確に刈り取り、体勢が崩れたところに、下から顎を撃ち抜く鋭い蹴りが叩き込まれた。

力の流れを霧散させ、相手の急所を的確に穿つ、完璧な【  】。


「がっ……あ……!」

鳳鈴は床に転がり、ギリギリで立ち上がるも、その顔には驚きと、そして激しい怒りが染まり始めていた。

徒手空拳のみで、一切の魔法も使わずに、強者二人を赤子のようにあしらうその動き。

それはまるで、【  】を忘れる前の『アイリス自身』と戦わされているかのような、残酷な錯覚だった。


「アイリス! 目を開けるよろし!! あいつが使ってる動き、全部お主のアル!!」

「……え?」


私がポカンとしていると、セレスティアの声が脳内に響いた。

『……残酷なことを。現行神は、以前の闘技場での戦いでアイリス様から奪い取ったデータを、あの天使にインストールしたのです。……アイリス様が血の滲むような努力で積み上げた、完璧な徒手空拳のデータを』


私が失った、私の努力の結晶。

それが今、システムの手先として、私の大切な【仲間】を傷つけている。


「あはは……。あの敵、すごく強いね。無駄がなくて、綺麗だ」

私は、他人事のようにそう呟いた。

【  】を失っているから、自分の努力が穢されていることへの怒りも、ルナリアたちが傷つけられていることへの痛みも、何も感じない。ただ「私のデータが使われている」という事実に、感心すらしていた。


「――お前ぇぇぇぇっ!!! よくも、よくもアイリスの『武』をぉぉっ!!」


突然、鳳鈴が獣のような咆哮を上げた。

金色の闘気が爆発し、彼女の両腕だけでなく、両脚にまで黄金に輝く強固な竜の鱗がビッシリと浮かび上がる。全身の竜化は理性を飛ばす危険があるため、彼女が意識を保ったまま引き出せる『極限の部分竜化』だ。


「過去のアイリスが、泣きながら木人を叩いて積み上げたその努力を、誇りを……! そして、今ワタシたちのために空っぽになってまで笑ってるアイリスを!」

鳳鈴の金色の瞳が、天使を、そしてその後ろにいる神を見据えて、激しく燃え上がる。

「お前みたいな機械人形が、神様気取りのクソシステムが、道具みたいに使うなぁぁぁっ!!」


鳳鈴の怒りに呼応し、極限まで高められた竜神族の力が物理法則を捻じ曲げる。

天使がいくら完璧な【  】を使おうとも、鳳鈴の放つ圧倒的な竜の闘気と質量は、その技巧ごと空間を粉砕した。


「竜神奥義・崩天咆哮撃!!」


黄金の闘気が嵐となって天使を飲み込んだ。

完璧な【  】を持った亡霊は、鳳鈴の魂の叫びが込められた一撃の前に、断末魔を上げることもできず、ノイズにまみれて完全に消滅した。


勝った。

鳳鈴は竜化を解き、肩で息をしながら、真っ白な床に膝をついた。その目からは、ポロポロと涙がこぼれ落ちている。


「……ありがとう、鳳鈴。助かったよ」

私が無表情のまま近づき、鳳鈴に声をかける。


「……アイリス。お主、悔しくないアルか? お主の努力が、道具にされてたアルよ……?」

鳳鈴が、涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔で私を見上げる。


「うん……悔しいって感覚、わかんないから。でも、鳳鈴が私のために怒ってくれたのは、データとして記録したよ。ありがとう」


私がそう言って笑顔を取り繕うと、鳳鈴は「……うう、バカアイリス……!!」と声を上げて私に抱きついた。遅れて立ち上がったルナリアも、無言で私たちのことを強く、強く抱きしめる。


【  】がない私の心は、まだ真っ白なままだ。

自分の過去の亡霊を倒したというのに、達成感も喪失感もない。

けれど、私を抱きしめる二人の体温だけは、この真っ白な世界で唯一、確かな現実として、私の心に刻まれていた。

神様システムを壊し、この二人の笑顔を取り戻す。

その目的だけが、感情を失った私の、明日を生きる唯一の駆動プログラム(理由)だった。

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