無限の幻影と、痛まない心
天の塔の内部は、現行神の冷徹さを体現したような、無機質で真っ白な無限回廊だった。
音もなく、ただ私たちの足音だけが虚ろに響く。
【 】という温かい概念を失ってしまった私の心は、この白い空間と同じように、どこかひんやりと冷めきっていた。
「……アイリス、離れるな。嫌な予感がするぞ」
ルナリアが私の手を引き、鳳鈴が周囲を鋭く警戒しながら進む。
『――エラー対象の侵入を確認。防衛プロトコルを作動。対象の内部バグを利用した相殺テストを開始します』
突然、頭上からシステムのアナウンスが響いた。
その瞬間、鳳鈴の頭上に『天使』と同じ幾何学的な光の輪がガシャン!と嵌め込まれた。
「なっ……なにアルかこれ! 頭が、割れるあル……っ!!」
鳳鈴が頭を押さえて絶叫し、金色の瞳が濁った機械のような光に染まる。システムによる強制的な洗脳だ。
同時に、私たちの周囲の空間が歪み、真っ白な回廊を埋め尽くすほどの「無数の人影」が出現した。
それは、私と、ルナリアの姿をそっくりそのまま模した、不気味な幻影たちだった。
「アイリス! ルナリア!」
洗脳され、視界を弄られた鳳鈴が叫ぶ。彼女の目には、私たちが本物か偽物か区別がついていない。ただ「敵」が群がっているように見えているのだろう。
「偽物ども……! ワタシの大切な『仲間』を返せよろし!!」
鳳鈴が一部竜化し、無数の私やルナリアの幻影に向かって猛然と拳を振るい始めた。
強烈な竜神流の拳が叩き込まれるたび、幻影たちはガラスのように砕け、光の粒子となって消え去っていく。
「鳳鈴! やめよ、我らはここにおる!」
ルナリアが叫ぶが、洗脳された彼女の耳には届かない。
やがて、次々と幻影を粉砕した鳳鈴の拳が、本物のルナリアの腹部へと一直線に突き出された。
「しまっ――」
だが、その拳はルナリアに触れる寸前で、ぱふっ、という気の抜けた音を立てて威力を失った。
私が定義した、『鳳鈴の攻撃は、私とルナリアには絶対にノーダメージ』というバグのルールが機能したのだ。
「……っ!? なんで消えないアル! なんで壊れないあるか!」
混乱した鳳鈴が、今度は私に向かって拳を振り下ろす。
けれど、それも私の頬を撫でるだけで、まったく痛みはない。
「鳳鈴、私だよ! 痛くないから、大丈夫だから!」
私が呼びかけても、洗脳された彼女は恐怖に顔を歪めるだけだった。彼女の狂った視界では、いくら全力で殴っても絶対に死なない私たちが、最も不気味で強大な化物に見えているのだ。
『――定義の脆弱性を確認。対象ルナリアへのダメージ無効化パッチを、管理者権限で強制解除します』
システムの声が響いた瞬間、空気が凍りついた。
「な、に……っ!?」
鳳鈴の次の一撃が、ルナリアの肩に直撃する。
メキッという嫌な音が響き、ルナリアの体が数メートルも吹き飛ばされた。
「ルナリア!!」
嘘でしょ。私のバグが、システムに上書きされた?
鳳鈴の竜神の力と、神の管理者権限が混ざり合い、ダメージが通るようになってしまったのだ。
「あぁ……っ、なぜ……ワタシの拳が……」
鳳鈴は自分の意思とは無関係に、倒れたルナリアに向かって容赦なく蹴りを、拳を叩き込んでいく。
「やめ、て……! 鳳鈴、お願い、止まって!!」
戦うための【 】を失っている私には、彼女の動きを止める手段がない。ルナリアは私を庇うように立ち塞がり、反撃もせずに鳳鈴の攻撃を受け続けている。
「案ずるな、アイリス……!」
ルナリアが血を吐きながら、私に微笑む。
「我が盾になると言っただろう……! この程度の小娘の拳、2000年の飢えに比べれば、そよ風のようなものよ……!」
「嘘だ! 血がいっぱい出てるじゃない! ルナリア、もうやめて!!」
私は泣き叫びながら、無数に湧き出し続ける私の幻影たちをかき分け、鳳鈴の正面へと飛び出した。
「私を殴って!!」
「……ッ!!」
鳳鈴の全力の拳が、私の顔面を打ち抜く。
ぽふっ。
私へのダメージ無効化は、まだ生きている。痛みはない。
でも、彼女の拳の震えは、伝わってきた。
「なんで……なんでお前だけ、消えないアルか……! 怖い、怖いある……!!」
大粒の涙を流しながら、何度も何度も私を殴り続ける鳳鈴。
私はその拳を無防備に浴びながら、一歩ずつ、彼女へと近づいていく。
幻影たちは殴られれば消える。でも、私は消えない。
「消えないよ。だって、私は鳳鈴の『仲間』だもん」
私がそっと両手を伸ばし、彼女の小さな体をきつく抱きしめた瞬間。
「あ……」
鳳鈴の動きが、ピタリと止まった。
私が泥臭い特訓の中で彼女から教えてもらった、温かい記憶。
私とルナリアと鳳鈴を繋いでいた『仲間』という概念が、システムが仕掛けた冷たい洗脳の輪を内側から強く叩き割ったのだ。
ガシャンッ!!
鳳鈴の頭上の光の輪が砕け散り、彼女は膝から崩れ落ちた。
「ワタシ……ワタシ……ルナリアを……!」
我に返った鳳鈴が、血まみれで倒れているルナリアを見て絶叫する。
「泣くな、小娘。……貴様の拳など、まったく効いておらぬわ」
ルナリアが強がりながら立ち上がり、真祖の魔力で傷を癒していく。その光景を見て、私は安堵の息を吐こうとした。
――パキンッ!!!
その時。
私の魂の根底を揺るがすような、かつてないほど巨大な破砕音が脳内に響き渡った。
「あ、がっ……!」
立っていられず、私は大理石の床に倒れ込んだ。
ルナリアと鳳鈴が、血相を変えて私に駆け寄ってくる。
「アイリス!? どうした、どこか痛むのか!」
「しっかりするよろし! ワタシのせいで……ワタシが傷つけたせいアルか!?」
二人は、ボロボロと大粒の涙をこぼしながら私を抱きしめている。
私は、彼女たちのその顔を見て、不思議に思った。
どうして、そんなに顔をくしゃくしゃにしてるんだろう。
ルナリアが無事でよかったって、鳳鈴が元に戻ってよかったって、今の今まで思っていたはずなのに。
「……ねえ、ルナリア。鳳鈴」
私は、自分の頬を伝う温かい水滴に触れた。
「どうして二人は、そんな顔をしてるの? ……どうして私から、こんな水みたいなのが出てるの?」
私がそう尋ねると、二人は息を呑み、さらに顔を歪ませた。
「アイリス、お主……まさか……」
「貴公、自分が今……『泣いている』理由が、わからないというのか……?」
【 】。
心が痛み、誰かを想って涙を流すという、その感情の概念。
【 】。切なさ。痛み。
システムは、神に抗おうとするバグから、最も人間らしいその感情を根こそぎフォーマットしてしまったのだ。
「うん……?わかんないよ。私、なんでこんなに胸の奥が空っぽなんだろう……?」
大切な人が傷ついても、もう心が痛まない。
自分がどれほど大切なものを失っても、それを【 】と思うことすらできない。
私は、自分の顔に張り付いたままの無機質な笑顔の理由すらわからないまま、ただ二人の温もりだけを握りしめていた。
【 】時に泣けない事が【 】




