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静止の海と、偽りの【  】

天の塔へと続く道は、物理的な距離ではなく「概念の距離」だった。

セレスティアに導かれ、私たちが辿り着いたのは、世界の果てにある『静止の海』。

そこは、打ち寄せた波が空中で結晶化し、音さえも凍りついたかのような、白く輝くデータの墓場だった。


「ここを越えれば、天の塔の門が見えてくるはずです。ですが気をつけて……。ここは現行神が捨てた『不要なデータの残滓』が漂う場所。あなたの弱った心に、過去の幻影が入り込む隙を与えてしまいます」


セレスティアの警告に、私はゴクリと唾を呑んだ。

ルナリアが私の手を強く握り、鳳鈴が私の背中をそっと押してくれる。

「案ずるなアイリス。何が見えようとも、我が貴公の現実を繋ぎ止めてやる」

「ワタシもついてるアル! 幻なんて全部、ワタシが粉砕してやるよろし!」


二人の温かさに励まされ、私は一歩、結晶の海へと踏み出した。


その瞬間、視界がぐにゃりと歪んだ。


「――おかえり、アイリス」


耳に届いたのは、ありえないはずの声だった。

気づけば、私は真っ白な海ではなく、懐かしい木の温もりに満ちた部屋の中に立っていた。

鼻をくすぐる、焼きたてのパンの匂い。

窓から差し込む、柔らかい午後の光。

そして、キッチンで鼻歌を歌いながらスープを混ぜている、一人の女性。


「……お母、さん?」


心臓が跳ね上がる。

忘れてしまったはずの、私の根源。

顔も、名前も、声も、システムに消去されたはずの人が、そこにいた。

彼女は振り返り、私に最高の笑顔を見せる。


「どうしたの、そんなに呆然として。今日はあなたの好きなシチューよ。さあ、座って。みんなで【  】を楽しみましょう?」


その「【  】」という言葉が、私の耳には完璧な音声として聞こえていた。

そうだ。私は、この時間が大好きだったんだ。

厳しい修行から帰ってきて、お母さんが作ったご飯を食べて、今日あったことを笑いながら話す。

そんな当たり前で、何よりも幸せな、家族の……。


「アイリス! 目を覚ますアル! それは罠アルね!!」


遠くから鳳鈴の叫び声が聞こえる。でも、今の私にはお母さんの差し出すスプーンの温もりの方が、ずっとリアルに感じられた。

「いいのよ、アイリス。もう頑張らなくていいの。あんな怖い力なんて捨てて、ずっとここで一緒にいましょう?」


お母さんの手が、私の頬を包み込む。

温かい。あまりにも温かくて、私はすべてを投げ出して、このままこの腕の中に沈んでしまいたかった。

神様なんてどうでもいい。記憶を失う恐怖からも解放されて、ただの「娘」に戻れるのなら。


――パキンッ。


不意に、脳裏をあの残酷な音が掠めた。

お母さんの後ろの壁が、一瞬だけノイズを走らせて剥がれ落ちる。

その向こうに見えたのは、暗闇の中で、血を流しながら私の手を離さないルナリアの姿だった。


『……案ずるな……我が、語り継ぐと……』


「あ……」

私は、お母さんの手を振り払った。

「アイリス? どうしたの?」

「……ごめん。お母さん。私、あなたに会いたくて、ずっと泣いてた気がする」


溢れ出す涙を拭いもせず、私はお母さんの瞳を見つめる。

「でも、私が今守らなきゃいけないのは、過去のあなたじゃないんだ。……今、私のためにボロボロになって戦ってくれてる、大好きな人たちなんだよ!」


私は震える手で、空をなぞった。

お母さんの姿が、偽りの幸せな風景が、ひび割れていく。


定義改変システム・オーバーライド!! この偽りの安らぎを――『明日へ進むための闘志』に書き換える!!」


カシャッ。

世界が、悲鳴を上げるように組み替わった。

【 お母&# 】の姿が光の粒子となり、私の体へと吸い込まれていく。


――パキンッ!!!


その瞬間、今までで一番長く、そして決定的な喪失の音が響いた。

「あああああぁぁぁぁっ!!」

絶叫しながら、私は現実の世界へと引き戻された。


目の前には、私を必死に守りながら天使の群れと戦うルナリアと鳳鈴の背中があった。

「アイリス! 戻ったか!」

「よかったある……! もう少しで、お主に拳を向けるところだったある!」


二人がボロボロの体で私を振り返る。

私は、彼女たちの名前を呼ぼうとして――言葉に詰まった。


「……なか、ま」

私は、先ほど覚え直したばかりの言葉を口にした。

「ルナリア、鳳鈴。私、今、何かを捨てたよ。……すごく、温かくて、ポカポカして。だれかと一緒にご飯を食べるみたいな、そんな時間を表す言葉」


【  】。

家族で囲む食卓の、あの空気感。

それを定義する概念そのものが、私の中から完全に消滅していた。

もう二度と、誰かと食事をしても、私はそれが「幸せな【  】」であると理解することはできない。

ただ「栄養を摂取している」という無機質な事象としてしか、感じられなくなってしまったのだ。


「……馬鹿な、アイリス。貴公、そんなものまで……」

ルナリアの赤い瞳から、涙がこぼれ落ちる。

「お主……そこまでして、ワタシたちを選んだアルか……。」

鳳鈴が私の手を、壊れ物を扱うように優しく、けれど強く握った。


失ったものは、もう戻らない。

幸せの時間さえも、私はシステムに差し出してしまった。

だけど、私の前には天の塔の巨大な門が、その冷徹な姿を現していた。


「行きましょう。……もう、迷わない」


私は、唇を噛み締め、神が待つ最後の戦場へと足を踏み出した。

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