箱庭の神様と、削り取られた原点
セレスティアから旧神の知識を受け取った瞬間、私の脳内を強烈な防衛システムが焼き払った。
深い、深い暗闇の底へと意識が沈んでいく。
『……アイリス。今日は、どのお話を読もうか?』
プツ、プツ、とノイズ混じりの映像が、暗闇のスクリーンに浮かび上がる。
ひどく懐かしい匂いがした。
暖炉のパチパチとはぜる音。私を膝の上に乗せて、古い【 】のページをめくる【 】の優しい手。
もう顔も名前も思い出せないその人が、毎晩のように私に読み聞かせてくれたのは、私の大好きな、ある神様のおとぎ話だった。
『むかしむかし、あるところに、とても強くて優しい神様がいました。神様は、ガラスみたいに脆くて儚い【 】たちを、自分の箱庭で大切に育てていました』
絵本の挿絵が、脳裏にふわりと浮かぶ。
星屑のマントを羽織った神様が、小さな【 】たちを愛おしそうに見守っている絵だ。
『でも、箱庭のそとには、恐ろしい魔物がたくさんいました。魔物たちは、弱い【 】たちをいじめようと、毎日箱庭にぶつかってきます。神様は、みんなを守るために戦いました』
『神様はとっても強いから、負けません。でも、魔物を追い払うたびに、神様の体は少しずつ、透明になって消えていく呪いにかかってしまったのです』
――パキンッ。
暗闇の中で、嫌な音がした。
絵本のページが、端から黒い泥のようにドロドロと溶け始めている。システムが、私の原点たる記憶をフォーマットしようと侵食してきているのだ。
待って。消えないで。
私は必死に、記憶の断片をかき集めようとする。
そのおとぎ話の神様は、まるで今の私みたいだった。みんなを守るために、自分の大切なものを少しずつ代償にしていく。
『右腕が消えても、神様は笑っていました。「大丈夫、左腕でみんなを抱きしめられるから」』
『両目が消えても、神様は笑っていました。「大丈夫、みんなの笑い声は聞こえるから」』
『そして最後に、神様は【 】を消して、一番大きな魔物を倒しました』
パキンッ、パキンッ!
崩壊が加速する。【 】の優しい声が、ひどい機械音のノイズに掻き消されていく。
だめだ、思い出せない。
最後に神様は、何を犠牲にしたんだっけ?
すべてを失って、透明になってしまった神様は、そのあと、どうやって幸せになったんだっけ……?
「……お願い、消えないでよ」
暗闇の中で、私はボロボロと涙をこぼした。
私はあの神様みたいに、誰かを守るために傷つくことを恐れない、強くて優しい騎士になりたかったんだ。
あの【 】は、私に勇気をくれた、私の魂の形そのものだったのに。
『……透明になった神様は、最後にこう言いました。――』
ズザザザザァァァッ!!!
激しいノイズと共に、【 】の結末は完全にホワイトアウトした。
そして、私を膝に乗せてくれていた温かい【 】の感覚も、その【 】を大好きだった幼い私の感情も、真っ白な空白へと塗り潰された。
「あ……」
空っぽだ。
私、何に憧れてたんだっけ。
自分を犠牲にしてまで、誰かを守りたいって……どうして、そんなに強く思えたんだっけ。
理由がわからない。原点が、ない。
自分がただの空虚な人形になってしまったような絶望感に、私の意識が完全に暗闇に溶けようとした、その時だった。
「――アイリス!! 戻ってこい、アイリス!!」
「お願いある! 目を開けるよろし!!」
真っ暗な世界に、二つの強い引力が生まれた。
右の手のひらを、ひんやりと冷たい、でも力強い指先がギュッと握りしめている。
左の手のひらを、小さな、けれど熱を帯びた温かい両手が包み込んでいる。
「我を置いて、どこへ行く気だ! 貴公が明日を失うのなら、我が語り継ぐと約束しただろうが!」
「ワタシたちがついてるアル! どこにも行かせないよろし!!」
ルナリアの悲痛な叫びと、鳳鈴の涙声。
その声が、私の意識を真っ暗な水底から強引に引き上げた。
「……っ、はあっ!!」
大きく息を吸い込み、私は勢いよく目を開けた。
視界に飛び込んできたのは、古代遺跡の天井と、私を覗き込んでボロボロと涙を流しているルナリアと鳳鈴の顔だった。
二人は私が目を覚ましたのを見ると、子供のように声を上げて私に抱きついてきた。
「アイリス……! よかった、本当によかった……!」
ルナリアが、私の肩に顔を埋めて震えている。あの気高い真祖の吸血鬼が、なりふり構わず私に縋り付いていた。
「バカアイリス! 突然息をしなくなるから、ワタシ、心臓が止まるかと思ったアル……!!」
鳳鈴も私の胸に顔を押し付け、大粒の涙で武闘着を濡らしている。
私は、ポカンとしたまま、自分の両手を見た。
何も、思い出せない。私がなぜ、こんなに胸を痛めながら強くなろうとしていたのか。その一番大切な「理由」が、すっぽりと抜け落ちている。
でも。
私に縋り付いて泣いてくれる、この温かい重み。
「ごめんね……ルナリア、鳳鈴。私、また……忘れちゃったみたい」
私がそう呟くと、ルナリアは顔を上げ、赤い瞳を真っ直ぐに私に向けた。
「構わぬ。貴公がどれほど空っぽになろうと、我らがその空白を何度でも愛で埋めてやる。だから……もう二度と、我らを置いていこうとするな」
その言葉に、私の目からもポロポロと涙がこぼれ落ちた。
私の中にあったはずの優しいおとぎ話は、もう二度と思い出せない。
私が憧れた神様が、最後にどうなったのかも、もうわからない。
けれど、きっと。
「……うん。私、もう一人じゃないから」
私は二人の背中に腕を回し、力強く抱きしめ返した。
少し離れた場所で、セレスティアが慈愛に満ちた目で私たちを見守っている。
「アイリス。システムの防衛反応を、己の魂の繋がりだけで跳ね除けるとは……。やはりあなたは、私の見込んだ通り、世界を新しく書き換える力を持っています」
彼女の言葉に、私は静かに頷いた。
過去がなくなったのなら、未来を創ればいい。
私は、私をこんなに大切に想ってくれる【仲間】のいるこの世界を、冷酷なシステムから絶対に解放してみせる。
「行こう、天の塔へ。……神様を、壊しに」
私たちは立ち上がり、偽りの空の向こうにある、現行神の居城へと決意の眼差しを向けた。
ぐりとぐらがすきでした




