第2話 埋没費用(サンクコスト)と土石流
「正気ですか!? 裏山の杭を抜けば、この砦ごと土砂に飲み込まれます!」
セリアの悲鳴が、雨上がりの湿った空気に響いた。
彼女の言うことはもっともだ。裏山に打ち込まれた数千本の杭は、長年の雨で緩んだ地盤を辛うじて支えている「栓」だ。それを抜けばどうなるか、子供でもわかる。
「砦がなんだ? あんな穴だらけの城壁、資産価値はゼロだ」
俺は吸い殻を泥の中に捨て、新しい薬草タバコに火をつけた。
目の前の女騎士は、俺が何を計算しているのか全く理解していない。
「いいか、計算してみろ。お前らが正面からぶつかって、何人死ぬ? 相手はオークとゴブリンの混成部隊250体だ。まともにやり合えば、こちらの被害は最低でも30人は出る」
俺は指を3本立てて見せる。
「30人死ねば、契約に基づき俺は国に金貨3万枚の罰金を払うことになる。だが、このボロ砦が壊れたところで、再建費用はせいぜい金貨500枚だ」
「人の命を……金と天秤にかけるのですか!」
「違うな。俺は『安く済む方』を選んでいるだけだ。――やれ!」
俺の一喝に、怯えていた兵士たちが動き出した。
恐怖で支配したわけではない。「戦わなくていい」「作業をするだけでいい」という甘い言葉が、死に怯える彼らの背中を押したのだ。
数分後。
杭が引き抜かれると同時に、地響きが始まった。
まるで山の神が嘔吐するような、湿った轟音。
「退避! 高台へ走れ!」
セリアが声を張り上げるまでもない。俺たちは既に、計算済みの安全地帯(高台の貴族用テラス)からその光景を見下ろしていた。
北の森から殺到していた魔王軍の先鋒――オークの巨体とゴブリンの群れが、眼下の渓谷に差し掛かった瞬間だった。
裏山が、崩れた。
茶色の濁流が、生き物のように斜面を滑り落ちる。
それは砦の古びた外壁を紙細工のように押し潰し、そのまま渓谷へとなだれ込んだ。
剣を振り上げ、雄叫びを上げていた魔物たちが、一瞬にして茶色の奔流に呑み込まれていく。悲鳴すら上げる暇はない。ただ物理的な質量が、生命を圧殺していく。
「あ……あぁ……」
セリアが手すりを握りしめ、青ざめた顔で震えている。
彼女が想像していた「戦場」とは違う。そこには騎士の誉れも、激しい剣戟もない。
あるのはただの「災害」と、一方的な「処理」だけだ。
ものの数分で、全てが終わった。
かつて砦の入り口だった場所は、数メートルの土砂で完全に埋め立てられていた。
動くものはいない。泥の中から突き出したオーク의腕が、ピクリとも動かず天を指している。
「……死者ゼロ。怪我人なし。消費した物資はゼロ」
俺は懐から手帳を取り出し、ペンを走らせる。
「敵勢力、全滅確認。オーク50、ゴブリン200。合計250体の殺害証明完了」
俺はセリアを振り返り、ニヤリと笑った。
「おい、副官。国への請求書を作るぞ」
「せ、請求書……?」
「契約書を忘れたか? 雑魚1体につき金貨100枚だ。締めて金貨2万5000枚。……俺が一生遊んで暮らせる額だな」
セリアは開いた口が塞がらない様子だ。
無理もない。辺境の年間予算をたった一度の「作業」で稼ぎ出したのだから。
だが、俺の目は笑っていなかった。
土砂に埋もれた魔物たちを見下ろしながら、ある違和感を覚えていたからだ。
(……妙だな)
俺は常に相手の心理を読む。
魔物は本能で動く。通常なら、食料(人間)の匂いを嗅ぎつけ、もっと散開して村を襲うはずだ。
だが、こいつらは違った。
まるで軍隊のように密集し、一目散にこの「領主の館」を目指していた。
村の倉庫や民家には目もくれず、真っ直ぐにここへ。
「まるで、何かを『回収』しに来たみたいじゃねえか」
俺の呟きは、誰の耳にも届かなかった。
だが、これは間違いなく伏線だ。魔王軍の目的は、単なる殺戮ではない。
奴らは、このボロ屋敷のどこかにある「何か」を狙っている。
「カイ……様」
セリアが、初めて俺の名を呼んだ。侮蔑ではなく、畏怖を含んだ声で。
「本当に、誰も死なせずに……」
「言ったろ。俺は自分の資産(お前ら)をドブには捨てない」
俺はタバコの煙を長く吐き出した。
これでシードマネー(元手)はできた。
次は、この金を元手に、国という巨大なカジノのルールを書き換える番だ。
「さあ、シャベルを持て。死体を掘り起こして耳を削げ。換金するまでが戦争だぞ」
俺の無慈悲な命令に、兵士たちは歓声を上げて泥の海へと飛び込んでいった。
地獄の沙汰も金次第。
そしてこのデッド・エンドでは、俺が地獄の支配人だ。
(第2話 完)




