校正者のざれごと――言葉のナイフを振りかざして
私は、フリーランスの校正者をしている。
先日、ちょっと悲しい話を聞いた。知り合いの校正者が、ある出版社から「あの人はうちの仕事からはずしてほしい」と言われたという。仕事はきっちりこなす人だ。理由を聞くと、あるゲラ(校正紙)に記入した指摘の言葉がちょっと厳しすぎたとのこと。校正は人の誤りを指摘する仕事だ。間違いを指摘されるのは、誰だってあまりいい気はしない。だからこそ、言葉選びには細心の注意を要する。
本を作る仕事をしている以上、言葉がどんな力を持つのか、理解している必要がある。疲れた人の心を癒すこともできるし、傷つけることもできる。
最近、仕事で蜂飼耳さんの『虹の雌雄』という文章に触れた。こんな内容だ。
ある人から、昨日の虹は見ましたかと聞かれる。見なかったと言うと、ずいぶん大きかかったのにとその人は残念そうに言った。別れたあと、ふと考える。その人はとなりの県に住んでいる。自分の住む場所からは、そもそもその虹は見えなかったのではないか。
「……となりの県からはさすがに見えませんよ。と、もし笑いながらそんなふうに否定していたら、どうだっただろう。相手は一瞬、押し黙り、目をぱちくりさせ、こちらの台詞の意味を考える。次の瞬間には意味を察して、しんとなり、がっかりする。そんな映像がふわりと浮かび、慌てて消した。だれにでも事実ばかりをつきつければいいというものではない」
最後の一文が響いた。どうしても人は、間違っていることは間違っていると言いたくなるし、知っていることは教えたくなってしまうものだ。校正者は、ゲラで間違いや読みづらい表記を見たときはすかさず手が動く。でも、ここで私の指摘するこの一文は本当に必要なのか。一度書いて、消して、また書いてみて……。ゲラを前に、唸りながら考える。同じことを書くにしても、「これでは意味が伝わりません」と言いたいところを、「こんな文章にしたらわかりやすいかもしれません」などと例を挙げてみたり。顔を合わせない筆者が相手なだけに、悩むことも多い。
でも、時には厳しい言葉を使わなければならないときもある。
今年の初めごろ、税金に関する本の校正をした。節税について扱う本は多い。合法的にできることはだいたい決まっているので、アプローチの仕方は違っていても、内容はどの本も似たような感じになる。ところがその本は、かなり黒に近いグレー。いや、ほぼ黒だった。初校時に、「これでは節税とは言えない(脱税になってしまう)のでは?」と気になるところに指摘を入れていたのだが、戻ってきた再校ゲラはほぼ直っていなかった。このときは校正プロダクションの社長にも相談し、少し強めに指摘した。本文ではほぼ真っ黒な脱税指南をしておきながら、ものすごくQ数の小さな文字で、「脱税を勧めるものではなく、一人ひとりの状況によって異なる」などと注意書きがある。その部分に対して、
「本文中に脱税を許容するようなことを書いておきながら、このような注意書きをすれば許されるものなのでしょうか」
と書いた。ここまではっきり書いたことはこれまではない。そのあと出版されたものを書店で確認したが、やはりほぼ直っていなかった。その本の奥付の校正の欄からはうちの会社の社名ははずしてほしい、と社長は編集プロダクションに言ったそうだ。後味の悪い仕事だった。
まだまだ残暑が厳しいが、九月になり、年末に向けて少しずつ仕事も忙しくなってきた。いくつかのゲラを抱えながら、締め切りに間に合わせるよう、必死に集中して作業する。
「明日は仕事?」
夫から声をかけられた。もちろん仕事だ。でもこの質問は、「明日は出社するのか」という意味。「明日は家にいるよ」本当に忙しいときは、納品があっても宅配便を利用させてもらってその分家で作業をする。そのほうが時間の節約になる。
すると夫は、自分も明日は休みなので昼間どこかに出かけないかと言ってきた。
「無理に決まってるでしょ。こんなに仕事、たまってるのに」
ちょっとイライラをぶつけるような口調。ああ、やっちゃった。「あ、そう」夫は不機嫌そうにその場を去った。仕事のことはあまり話さないので、私が忙しいかどうかなんてわかるはずもない。もっといい言い方、いくらでもあったのに……。しばし、「ひとり反省会」を繰り広げる。
どんなに身近な相手でも、やはり言葉選びは難しい。ましてや、顔も知らず、話したこともない相手へのメッセージとなると、慎重にならざるを得ない。指摘するべきところはきちんと指摘しながら、相手に納得してもらえるような内容を考える必要がある。
翌日。午前中、思ったより仕事がはかどった。夫に、
「お昼ご飯、いつものラーメン食べに行く?」
と声をかけてみた。「忙しいんじゃないの?」「うん。でもラーメン食べたい」
行きつけのラーメン屋さん。ここのラーメンはあごだしの香る醤油とんこつで、濃厚でおいしい。どうやら夫の機嫌も直ったようだ。言葉って、本当に難しい。