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第40話 罰

遠くに鬨の声と獣の唸りを聞きながら、聖女はただ黙々と祈っていた。

垂れた頭は彼女の敬虔さの現れのようで、重苦しい雰囲気に押し負けているようにも見える。

時折鼻をすすり上げては、それを不憫に思う教会職員の手によってそっと顔を拭われる。

所長は未だ眠るシスターの枕元に腰かけ、意図的にその様子を見ないようにしていた。


誰にも何も出来ることは無い。

魔物が押し寄せる外界から厚さ数㎝の板材で隔たれた世界には、呼吸をするだけの資源しかない。

乾いた喉がひび割れないように唾を飲み、排泄も食事も我慢する。

夜明けまであと5時間ほど。眠って過ごすには、この部屋に立ち込める沈黙はあまりに騒々しい。


聖女に倣って祈りを捧げる者がいた。

それは自己の救済を願うよりも、小さな願いに寄り添いたいという気持ちの方が強いように見えた。

手に着いた本を読んでいる者がいた。

専門外なのかすぐに投げ出してしまったが、他にすることもないと気づいてもう一度それを手に取っている。

ただ退屈に身を晒すことしかできない者もいれば、懐かしい手遊びに静かに興じる者らもいた。

誰もがただ、辛い夜の先にある朝日を待っていた。



=========================



「オラァ!!!次ィ!!」

「邪魔だ……これ以上近づくな!!!」

「うおおお全然減らねえ!どっからこんなに湧いてくるんだ!?」



身を削る沈黙との戦いの裏では、騎士たちが実際の脅威に対して体を張って立ち向かっていた。

机や棚を組み合わせた即席のバリケードの前には盾を構えた重装備の騎士が、そして道に面する建物の上にその他の騎士が並び、連携して押し寄せる魔物の波に抗っていた。

鈍く輝く鋳鉄の盾が獣の爪を押しつぶし、降り注ぐ光の矢が毛皮に突き刺さっては血肉を爆ぜさせる。

息が乱れど傷が腐れど彼らの勇猛さは陰ることは無い。この場においてのみ臆病は彼らを殺す毒となる。

石畳は月の光に赤々と照り、泥濘をものともせず有象無象は突き進む。

狼、狐、鹿、山羊、兎や鼬に鳥類も、各々が人間への憎悪を煮詰めて浴びせるそのためだけに命を費やしていく。



「あっ!?もう矢がねえ!」

「ほらこれ矢筒!飯も食っとけ!」

「っづ……あのクソ共が……」

「一人負傷した!!上からカバー頼む!!」



怒号と咆哮と絶叫の混じる空間では守護天使が彼らの声と命を繋いでいる。

屋根伝いに魔物を掻い潜って物資を届ける者も、バリケードの手前にこもって傷を癒す者も、皆が等しく騎士だった。

誰もが心の奥底にある1秒先の死を押し込めながら、無心で降りかかる悪意を相手に藻掻いていた。



「お前ちょっと下がれ!」

「まだやれます!」

「消耗戦だから温存しろって言ってんだよ!まだ新米なんだから───」



だが、それがもし実際に目の前に現れたら?



「───」



呑まれる絶叫。

屋根上から落ちる数体の肉塊。

二足で直立する異形の獣。


地上で構える騎士の前に一体の影が降り立った。

長い鼻先、乱れた毛並み、そして()()()()()な巨大な爪。



「こンのおぉぉおオオオオッ!!!!」



果敢に剣を振り上げ、騎士が一人その魔物へ突進する。

飛び掛かる雑種を切り捨てながら、仲間の仇へ握った光を突き立てる。

それを見て、獣は───


ただ、嗤った。



=========================



「っ……!?」



喉が引きつり、自然と漏れた息が音となって沈黙を破った。

その場の全員が声の主、所長へと目線を向ける。

彼女はゆっくりと顔を上げた。



「……デカい男二人。扉の前に立ってろ」

「所長……それは、まさか……」

「いいから早くしろ!灯りも消すんだ!」



蒼白な顔で、唇を歪め、何かを堪えるように瞳孔は見開かれ震えていた。

氷のような表情に部屋の空気は暗く凍り、男衆は急いで板の打ち付けられた扉に肩を当てる格好になった。

女衆は聖女の周りに集まり、部屋の中央へ連れ出して彼女を囲ってしゃがみ込む。

暗い部屋に誰もが絶望的な未来を見ている中で、またしてもただ一人、聖女には何も見えてこない。



「あの……!一体どうしたのですか!?」

「静かに……」

「大丈夫、きっと、大丈夫……」



まともな答えは返ってこない。

だがすぐに、そんなものは必要ないのだと彼女は悟る。


唸り声。

爪の音。

扉から滲み出す悪臭は耐性の無い少女の腹をいとも容易くひっくり返した。

胃液と絶望のカクテルを堪能する暇もなく、すぐに扉からガリガリと削るような音、そして破ろうと体当たりする音、その反動で骨と肉の砕ける音。

囲む腕が一層きつく彼女を閉じ込め、口を拭うことも耳を塞ぐこともできない。



「ぐっ……この気狂い共め……!」

「大丈夫だ……!この部屋は通常の病室より頑丈に作ってあるんだ!ちゃちな爪なんかじゃ突破───」



どちらかと言えば、自分自身を安心させるための言葉だったのだろう。

しかし彼ら自身が崩れ落ちたのならば、そんな言葉を紡ぐ必要もなくなる。



「きゃああぁあぁあぁああぁああぁぁッ!?」



悲鳴の向こうには裂け目があった。

頑丈を謳った扉が、上から下まで、厚みの全てを貫通されて大きく三日月状の穴を開けていた。

止め木諸共崩壊した扉の向こうには、二足で歩き、異常な大きさの右爪を携えた魔物がいる。

血塊と、鎧の破片と、下卑た"笑み"をぶら下げながら。



「固有種……表の騎士をやったのはコイツか……!」



所長が無意味な推測を投げかけるも、獣の興味はあまり引けなかったようだ。

二足の隙間から這い出た狼が倒れ伏す男衆に群がり始めた。

彼らは人間を食さない。爪も牙も解体の手段に過ぎない。

悲鳴を上げる彼らの腕を、脚を、腸を、噛みちぎっては無造作に吐き捨てる。

信仰が恐怖に歪み、希望が苦痛に替わり、自ら死を望むしか無くなった果てに───



「WRRRRRRRUUOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOWWWWWWWWWWW──────」



それはそれは楽しそうに、嗤うのだ。


この場で一番の脅威を無力化したと確認した大爪の獣は、ゆっくりと部屋の中心に歩み寄った。

背を丸め、腕の中の者を必死に守ろうとする背中に、わざわざ聞こえるように大きな舌なめずりをする。

そして大きな爪を振りかぶり、一息で3人の背中を撫で切りにする。

背骨から両断され吹き飛んだ彼女らに蘇生の余地は無い。

だがそれでも、残った職員らは小さな命を守るために交代で獣の前に立ちはだかる。



「馬鹿野郎!!!窓から……」



所長の叱責はすぐに、ガラスと共に砕け散る。

板の間から差し込まれる角やくちばしの数々が、彼女の発言を否定する。

威勢だけだと見透かされたのか、他の雑種はすぐに所長を、そして彼女が庇っているシスターを襲わなかった。

じりじりと、じっくり、味わうように、距離を詰める。


残った最後の職員が断ち切られ、聖女もとうとうその凶刃に晒される。

鉄と油脂の匂い。心臓が痒くなるほどの理不尽。

彼女には何もなかった。抗う術も、従う度胸も、正気を手放す理性すらも残らなかった。


小さな体が濡れた床を後ずさる。それが何の液かはもはや判断が付かない。

耳が破裂するような音を背中から浴びせられ前にひっくり返る。

見ると後ろでは既に狼が聖女を取り囲み、次の惨劇を今か今かと待ち望む。

そして目の前には、その執行人たる獣が、目と口を釣り上げて彼女を見下していた。



「あ、あ、あ」



大きく勿体を付け、フェイントを混ぜながら獣は爪を振り回す。

当たらないギリギリを狙って命を弄ぶ、その様子を聖女はどこか冷めた様子で見ていた。

どこまで行っても相いれないのだと。都市の人々が口々に言う理由がやっと理解できたから。



「やめろ……来るな……ティーレに近づくなぁっ!」



情けない姿を獣は嗤う。

抗えない様を獣は嗤う。

死にゆく者を獣は嗤う。


嗤う。嗤う。

嗤う。嗤う。


そうであるのが当然かのように。人間にはその価値しかないかのように。

驕りを、信念を、後悔を、応報を、嗤う。



爪が大きく振りかぶられる。

聖女は一瞬たりとも目を離せない。

それが確実に自分に死をもたらすと理解したから。


それでも、怖い。

それでも、悲しい。

それでも───



「やめてえぇぇぇぇぇっ──────────────────」





彼女が気が付いた時には、その場は再び沈黙に沈んでいた。

肺が潰れるまで叫び続けて、返って来た悪臭混じりの空気にむせ返る。

涙が出るまで咳き込んで、ようやく現状の異常さに気付いた。



「あ、れ……」



生きている。思考ができている。

どこも痛くない。傷が付いていない。

周りには無数の魔物がいて、大きな爪で、それで……



「…………え?」



魔物はまだそこにいた。

しかし爪を降ろし、充血した目を見開いて真っすぐ聖女を見つめている。

憎悪と嘲笑しかないように思えた彼らに、困惑の色が浮かんでいた。


二足の獣は、ゆっくりと膝を折った。

かちりと爪を床に突き、まともな獣の左腕も降ろす。

両膝は揃え、尻尾も畳み、目は伏せ、伸ばした両腕をゆっくり曲げていく。

その一連の動作が脳内で結びついたのは、聖女が全てを見届けてからだった。



「…そ、んな」


威光にひれ伏すかのように。



「ち、違う……私は……」


罪を打ち明けるかのように。



「私は、何も……!」


あるいは、救いを求めるかのように。

その獣は聖女に向けて頭を垂れていた。



はっと気づいて周囲を見渡せば、周りに控える魔物らも例外なく、聖女を拝み伏していた。

腰を抜かした少女を中心に、部屋の敷居を超えて廊下の先、診療所周辺に群がっていた魔物が全て、動きを止めていた。



「なんで……なんで、なんで……?」



頭を上げさせたいと思った。

だが恐怖に負けた体がそれを許さない。



「し、知らないっ……私は、何も……どうして……!?」

「聖女、様……?」

「っ……!」



拝礼の中、一人パニックに陥る彼女の元に新たな来訪者がやって来た。

全身を血で汚した騎士。診療所の正面が突破されても、生き残った彼らは魔物の数を減らし続けていた。

しかしここにやって来たということは、彼らが相手するはずだった魔物もまた、突然動きを止めたということである。



「ち、違うんです!!私は何も……」

「シーッ……」



騎士は少女の訴えを指一本で退けた。

そのまま彼は毛皮の隙間を歩き、聖女の正面でひれ伏す固有種の背中で立ち止まる。

彼の視線は真っすぐと丸む背中に向き、その手には槍がしかと握られている。

それだけそろえば、無垢な聖女にも何が起こるか分かってしまう。



「だ、だめ……」

「『顕現光身(ストロマドゥオ)───』



言葉は届かない。

伸ばす手は間に合わない。



『───爆ぜ貫けよ(エマトエクリクシ)』!!」



一息に突き立てられた槍の先で、獣の肉体が炸裂する。

内臓と骨片をまき散らし、一部が聖女の頬へとへばりつく。


聖女は全てを見た。

獣が何かを乞う姿を。

命が文字通り散り行く様を。

そしてそれを予見していたのにも関わらず、頑なに仰ぎ伏して動かなかった事実を。



「あ、あぁ……」

「申し訳ありません。ですが今は……」

「急げ……!聖女様はこっちで保護する!」



呆然自失と化した聖女の首根っこを掴み、所長がシスターの傍へと退避する。

彼が獣の残骸から槍を引き抜いていると他の騎士も次々と合流し、その異様な光景に一同度肝を抜かれていた。



「聖女様のお力だ。今のうちに全て殺すぞ」

「はい!」



彼らは手早く、無抵抗の獣の背に槍を突き立て鏖殺した。

その様を聖女は見ていない。

ただ白衣に目を埋めて、命が消えていくのを音で聞いていた。



「子供になんてもの見せやがるんだあの蛮族共……!」

「ぁ、あ、あぁ、あああ」

「……クソッ、子守りは苦手なのに……」



白衣にしがみついて、感情をぼろぼろと零していく。

魔物は想像以上の悪だった。人間である限り、彼らと分かり合うことはないだろう。

だがそれでも、頭を垂れる前に一瞬交わした視線は純粋だった。


純粋に、自らの救いを願って死んでいった。



「ごめんなさいっ……ごめんなさいっ……なにも、私っ……分からない……で……」

「間違ってもあんたのせいじゃない……ああ、もう泣くなよ……」

「なにもっ……できなくてっ……、なにもっ、分からなくてっ……」



恐怖も安堵も無力感も、全てが数滴の塩水に還元されていく。

そうでないと心が保たないから、生存の過程で身に着けた防衛反応でしかない。

ひたすら彼女は泣いていた。差し出せるものはとっくにない。


それでも赦しが欲しいのだと、死にゆく獣と共に祈っていた。



=========================



「──────」



こぽり、と水底から小さく泡が立つ。

都市を囲む壁のその外、堀の中には水が張ってあり落ちた魔物を溺れさせるようになっていた

そのため底には魔物の死骸やその他汚泥が積み重なりヘドロと化していた。


その中から生物が一つ起き上がった。

魚ではない。それは肺呼吸をしていた。

鳥ではない。それは四肢を駆使して水を掻き分けている。

四つ足の獣ではない。それは腕を使って堀の壁を這いあがった。

それは魔物ではない。目に宿るのは憎悪ではなかった。


純粋な信仰。それだけを胸に彼は再び立ち上がる。


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