第37話 贖いの準備
夜の診療所。
静謐であれど全てが寝静まっているわけではなく、耳を澄ませば職員の働く音が聞こえてくるだろう。
足音もその一つで、その日も一人の女性職員が凡百の理由で部屋から部屋を静かに移動していた。
環境音が少ないということは、自身の発する以外の音もよく聞こえるということ。
彼女は後ろから近づく聞き慣れない、ぺたぺたした足音に僅かに心臓を強張らせる。
最低限の明かりのみが残る廊下。慣れているとはいえ見通す先はどこまでも暗く、得体の知れない物が想像の中から這い出しては潜み膨れ上がる。
だからといって振り向かない選択肢はなく、彼女はゆっくり振り返る。
何もない。虚空の廊下。
左右を見渡しても、ドアが黙って並ぶのみだ。
「あ、あの……」
聞こえてきたか細い声に、視線が下を向いてようやく、不安げに見上げる聖女の存在に気が付いた。
僅かに驚いた後、緩んだ緊張を吐き出すように微笑んだ職員が膝を折り、胸の前で手を握る聖女と視線を合わせる。
「どうしましたか?お手洗いの場所が分かりませんか?」
「あ、いえ、そうではなく、これを……」
「あら、お手紙ですか?」
差し出されたのは、彼女が握りしめていた自身の手。
小さな指が花のように開くと、畳まれた紙片が顔を覗かせる。
職員は何気なくそれを取り、開いて中を見た。
うんうんと頷きながら、視線は紙面の上を走る。
目線が落ちていくうちに頷きは浅くなり、読み終えたと思わしき所で彼女の動きは僅かな間停止した。
聖女はその様子をただじっと見守る。空になった手を握りしめながら。
一つ呼吸を置いた職員が、音を立てないように立ち上がる。
「……分かりました。休憩室はこの先の廊下を曲がってすぐです。今の時間でも誰かしらはいるので」
「は、はい……」
「私は必要なものを取ってきますね。ああ、それと」
職員は再びしゃがみ込むと紙片を返し、それを手に取った聖女を思い切り抱きしめた。
「偉いですよ。頑張りましたね。……大丈夫。ここにいるのはみんなエリートですから」
「っ……あ、ありがとう、ございます……」
「貴女がいるんです。きっと神様も特別注目してくださってることでしょう。頑張って」
そういうと、彼女は足早に反対方向へと歩いていく。
その背中を見送った聖女は、またぺたぺたと歩き始めた。
手の中の言伝を、何が合っても離さないようにして。
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数分前。魔物について話をしていた聖女の目の前でシスターが倒れた直後。
吹きこぼす鍋のように血を吐きながら痙攣するシスターを必死に処置する所長を、震えて見ていることしかできなかった頃に遡る。
一つ目の峠を越えたのかシスターの呼吸は安定した。
水音が混じる掠れた呼吸でも、血が止まって継続しているなら安定しているというしかないだけであっても。
鬼気迫る所長に聖女は声をかけることもできず、ただ黙って成り行きを見守るしかできなかった。
室内を慌ただしく、しかし各動作に余計な音を絡めることなく進めていく所長が聖女の前に立ってようやく、彼女は状況が変わったことに気が付いた。
「聖女様。お願いがあります」
「しっ、シスターは。シスターは一体……!?」
「落ち着いて。助けるための行動を今からしてもらいます」
シーツばかり固く握っていた柔らかい手をさっと掬い取ると、所長はその中に一切れのメモを握らせた。
あっけに取られた聖女が中身を読もうとするのを、拳を掌で覆って阻止し彼女は言う。
「今から外に出て、静かの他の職員を探してください。声を上げず音を立てず、ゆっくりで構いません」
「ど、どうして……?」
「事態はおそらく非常に深刻です。迅速に、かつ規律正しく次の手を打つ必要がある。騒ぎ声や慌てた足音でパニックが起これば、本当に死人が出るかもしれない」
「───」
声が出なかった。
本当に胸が潰されて、呼吸ができなくなったのかと錯覚もした。
半開きになった口の中に冷たいものを感じて、それをなんとか舌の根元まで引きずり込むと、それが呼吸であることをようやく思い出した。
取り戻したそれが肩を震わせ始めたのを察知した所長が、命の掛かったメモの入った拳を包む力を強める。
「貴女は強い。他人の苦痛に寄り添い、自身の苦痛を飲み、来るか分からない光明を待つことができる。───昨夜からずっとそれに耐えてきたのでしょう?」
「……は、はいっ!」
「寝ている患者を起こさないようにそのメモを多くの職員に見せてください。終わったらここに戻って来て、朝が来るのを待ちましょう」
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シスター倒れた 処置用意
静かに、全職員に誘導とバリケードの用意伝え
聖女は伝令
患者を起こすな←絶対!
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『団長!各教会への通達完了しました!壁上班は配置完了に残り30分とのこと!』
「了解。10分後に都市へ警報を出します。シスターは?」
『中央教会から診療所に外出中と……。安否確認中です』
「……中央教会管轄の診療所ならむしろ安心か……」
馬上で伝声を飛ばし合う騎士団長の視線は、ずっと暗い地平の先を向いていた。
まだ気配しか感じられない、あるいはこの距離でも気配を感じられる存在。
熱戦を打ち放ち、地面ごと外壁と結界を焼き溶かした元凶が、この先にいる。
『と、ところで……教主様はどちらに……?』
「くれぐれも当てにはしないように。その怠慢を神は見透かされるぞ」
『は、はっ!!肝に銘じます!!』
「君はこっちの直属ではないが、同じ護教騎士だ。受けてきた訓練と立てた誓いは忘れていないはずだ」
『もちろんでございます!では、配置に戻ります。我らが矛先が光を拓かんことを!』
「光を拓かんことを」
伝声が途切れると、彼は他の騎士にばれないように小さくため息をついた。
士気を下げぬように窘めたとはいえ、教主には連絡が付かないのが実情だった。
森で聞いていた断続的な音からして勇者と交戦していたのは事実。
しかしその後に響いた熱線轟音の後から音沙汰が全くない。
……そんな事実をまとめたところで浮かび上がるのは、現状を更に追い込む悪い想像だけだった。
「団長」
「どうした」
「守護天使の観測終わりました。……確認を」
騎士が手をかざすと、団長の頭の中に一つの光景が浮かび上がる。
守護天使の観測データを人間用に翻訳したもの。青い地図の中央は防壁に囲まれた都市で、その中には無数の人間の反応がひしめいている。
問題はそのはるか右側。東の方に集まる反応。
人間よりも僅かに小さい反応が、都市を大きく迂回するようにしてある一点を経由し、波のように押し寄せてきている。
その数およそ10万。中には比較的大粒の反応も混じっているが、それよりも彼が眉を顰める反応があった。
「幻想種……」
幻想種。
見えている魔物の洪水の根本に位置している最も巨大な反応の主。
人間を害するために独自進化を行う魔物の中でも別格。彼らは自らの種族を物語の怪物に書き換えるほどの異次元の殺意の持ち主。
討伐には複数の都市が連携した上で、緻密に練り上げた作戦と卓越した奇跡や魔術の使用者が必須になる、言わば"殺せる災害"であった。
「やはり……。我々だけで、対処できるでしょうか……」
「しなければいけない。泣き言は死んでから言え」
「……申し訳ありません」
「10分経ったな」
団長は耳元に手をやり、虚空に向かって声を張り上げた。
「傾聴せよ。シデロリオに行ける全ての民よ、傾聴せよ。
───私はリリアル護教騎士団長、ハドリアル。これは神の代言であると心得よ」
都市の人々が夢に割り込む朗々とした声に徐々に目を覚ます。
伝声の奇跡に慣れていない彼らは、頭に直接響く声に困惑しながらもその意味に耳を傾ける。
「幻想種の襲撃である。繰り返す、幻想種の襲撃である。到来まで、残り30分の猶予がある」
幻想種。字面通り現実味の無いその単語は、聞いた人全てを圧倒する。
その衝撃が収まった時になって、彼らは自身の心に恐怖が染みきっていることに気が付く。
「最寄りの教会の指示に従い避難せよ。荷物は最低限とし、魔物の動きが収まる朝まで耐えることを考えよ」
ある者は、急いで自分の資産をカバンに詰め込んでいく。
ある者は泣き始めた子供を必死にあやし、ある者は臍を曲げた老人の説得に頭を悩ませる。
「生存の為に他者を蹴落としてはならない。その浅ましさを神はご覧になっている。隣人の手を取り、ただ神に祈りを捧げよ」
多くの人は整然と教会の敷地内へ避難していく。建物に入りきらない分は簡易シェルターを組み立ててその中に収容していく。
一部の者はなおも教会に牙を剥き、思い思いの方法で魔物の脅威へと立ち向かっていた。
「今、この都市には神の寵愛を受けた聖女様があらせられる。彼女の清らなる祈りは必ずや神に届き、我らに勇気を与えてくださるだろう」
突然名指しされた少女はびくりと体を震わせた。
慌てふためく様子を、処置の合間に職員がなだめ、抱きしめる。
「今宵は試練の夜である。我らが真なる信仰を神に示す唯一の機会である」
彼は暗い地平に目を凝らす。
強まる悪臭と共に闇の中にきらめくものがぽつぽつと見えはじめた。
見渡す限りを埋め尽くす悪意の結晶。波のように押し寄せる狂気の本流が、もう目の前に迫っている。
「どうか我らの道行きに、光の在らんことを」
彼らの道行きに、光の在らんことを




