第35話 決着
───人間が魔物に変わる可能性はあるか?
ある教会関係者は言う。
『ありえません。神の庇護の元にある人々が、あの憎悪と狂気の深淵に落ちることは許されません』
ある医者は言う。
『無いとは言えない。動物から魔物への変異過程が判明していないからな』
ある男は言う。
「幾度となくその想定はされてきたが、誰もそれを目の当たりにしたことはない」
少年は言う。
「───だったら、お前がそうなんじゃないのか?」
…
夜の平原。
全身傷だらけの男と、もう肩に力の入らない満身創痍の少年が向かい合う。
一人は忌むべき真実を暴き出すため。
一人は忌むべき過去と向き合うため。
「……魔物と動物の区別は、非常に曖昧だ。体に白い結晶が付着していることもあるが、それが魔物の体内から発生したのか外部から付着したものかはアイリスバレーでの見解は出ていない。一見して異形のこの体は、魔物呼ばわりするには十分な根拠となるだろうな」
「だったら───」
「私は」
男は続く言葉を断ち切り、朗々と宣べた。
「純然として、人間である」
少年は眉をひそめる。
「そうかよ。それで、それと俺の家族になんの関係があったってんだ」
「話の流れで気付いてほしいものだ。それとも、無意識に選択肢から除外しているのか?」
「はあ?一体どういう───」
僅かな思考の巡り。
些細な可能性の模索により、少年の思索はある小さなモノにぶつかった。
こつんと音でもしそうな微弱な接触。だがそれは爪先を蝕みあっという間に腕を、体を、脳髄を記憶の色で染め上げる。
走る頭痛に少年の目に涙が滲み、前髪がぐちゃぐしゃに握りしめられる。
彷徨う瞳孔はまるで枯葉に埋もれた足跡を探すようにぐらぐらと揺れていた。
『彼女を引き渡してもらう』
『ふざけるな、教会の化け物め!!彼女に一体何をした!!』
『これは要求ではない』
『ぐあっ……!』
聞いたはずの無いあの日の会話が膨れる頭の中を木霊する。
おぼろげな光景が脈を打ち、巻き戻った秒針は無慈悲に進んでいく。
『お父さん……』
(昔の、姉ちゃん)
記憶の中の姉は、弟を抱きしめ、息を殺しながら顛末を見守っていた。
その弟も好奇心から惨状に目を向け、釘付けになってしまった。
見知らぬ大男が家へ入っていくのを。
そして、追いすがる父親を足蹴にしながら、眠る母親を連れ出す場面を。
そこにもはや音は無かった。
姉が何やら自分を揺すぶっていたような気がする。
だが、そんなことは重要では無かった。
頭の中で何かが切れて。
何もかもが壊れていって。
何もかもが許せなくなって。
何もかもが駄目になっていって。
叫んだ。
『子供……!?やはり他にも居たのか……!』
『逃げろソル!!イロ!!』
『確保……いや、待て。これは……!』
立ち込める腐敗臭。
身の毛もよだつ悪意の気配。
それは確かに覚えていたはずだった。
家の周りには縄が張ってあって、それが小さな結界の目印だった。
父親はここを潜って出入りしていたし、この外には一人で出ないようにきつく言い聞かされていた。
その縄が、一匹の牙によって噛みちぎられる。
『反対側から逃げろ!走れ、速く!』
『イロ、立って!』
『待て……くそッ!!』
肩が千切れそうなほど強く腕を引かれ、森の暗闇へと飛び込んだ。
背後から聞こえるのは狂ったような叫びの数々。
悲鳴と、怒号と、嘲笑の数々だった。
…
「───俺、が……?」
垣間見えた封印の中から自我を取り戻した少年の顔は濡れていた。
額に伝うものを拭うこともできぬまま、彼はただただ情報を咀嚼する。
あの瞬間、彼は自分自身を失っていた。
ありえないほどの声を張り上げ、結界で抑えきれないほどに自らの恐怖を外の世界に振りまいてしまった。
自分のせい。
自分のせい。
父が死んで母が去って姉が苦しんだのも全て。
自分の、せい。
「君たちにもっと早く気づけていれば。逃げた足跡を追ったが、崖から飛び込んだ形跡があったため捜索を打ち切ってしまった」
「叫んで、それで、他の魔物が……」
「少なくとも君は魔物ではない」
またも振るわれる言葉の刃に、少年の首に絡みつく鎖が断ち切られる。
少し軽くなった頭を、彼は僅かに上げる。
「その力の得体は知れないが、少なくとも魔物のように無差別の憎悪によって蛮行を働いてるわけではない。そうだろう?」
「これは、ディアが……」
「ディア……」
教主の脳裏に浮かぶのは、昨夜現れて少年を回収していった黒い服装の少女。
自分に対して明確な敵意を振りまく彼女が、少年を誑かしたいわば元凶なのだろう。
そして、その短い名前から連想できる人物が一人、教主の記憶の中にいた。
(ディアイン……)
「でも、俺が魔物じゃないなら……」
「胎児」
教主は思考を打ち切り、手短に答えを述べた。
「君の母親が身籠っていたものが、魔物になりうる素質を秘めていた。だから回収した」
「……ああ、そう」
少年の反応は淡泊だった。正確には反応する体力が残っていなかった。
死闘を繰り広げ、その後に真実と自らの罪を直視した彼には気力も残っていない。
家族が死んだのは自分のせい。
自分があの場で叫びさえしなければ。
父親が魔物の群れに殺到されて死ぬことはなかった。
母親の回収が早く済んで手遅れになることもなかった。
姉と一緒に逃げることもなく、母がいなくなった家を建て直す可能性もあったかもしれない。
だから、悪いのは全て───
「───立て!!!」
一迅の風が少年の顔を打つ。
払われた視界の中央に立つのは、依然として凛と聳え立つ一人の老爺。
全身ボロボロで見る影も無い、だというのに全く揺らぐように見えない大きな壁そのもの。
遥か彼方に立つ外壁よりも大きい、一つの壁だった。
「君が、その剣を握った覚悟はその程度のものだったのか」
「何を……」
「それとも、君はこのまま剣を置いて頭でも下げるつもりなのか?」
「は?」
教主が、初めて笑みを見せた。
目を細め、唇を釣り上げ、顎を上げて鼻を鳴らす。
たったそれだけで、彼の胸に立ち込めるのは暗雲ではなく臨界状態の可燃ガスに変わる。
「『自分が全て間違ってました。何でもするので助けてください』と言ったところか。哀れな姿だ」
「何を……」
「母親を攫った男に命乞いをしなくてはとは、全く、私なら考えただけで怖気がするな」
「ごちゃごちゃと……」
「まあ、その方が仕事が楽でいい。ほら、早くしてくれ」
「言ってやがるテメエ───!!!!!!」
夜天に光の柱が立つ。
かつてない勢いで迸る烈光の中で、彼は有無を言わさず大剣を振り上げた。
力の制御に震える腕を強引に御しながら、光を剣筋に収束させていく。
それを見て教主はちらりと自分の後ろを顧みた。
「本当に愚かだよ!敵の言うことを真に受けて勝手に意気消沈してくれるとは!こりゃあディアとやらも操りやすくて楽だっただろうなぁ!」
「黙れ黙れ黙れ黙れぇッ!!!!!」
「玩具一つでいい気になっておいて、コップ一杯の水をかけられただけでしょげかえる様では蝋燭の火にも劣るなぁ!」
余波は血を焦がし、傷を焼き塞いでいく。
少年の周辺は今まさに隕石でも落ちているかのように抉れ、燃え、吹き飛んでいく。
まつ毛の先端が赤く光るのも気にせず、教主は叫ぶ。
「そんな玩具で、私を倒せるなどと二度と思わないことだ!!」
「死ぃねぇえええええええええええええーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!!!」
一筋と化した光が残った全身全霊を持って振り下ろされる。
触れた空気が爆ぜ、局地的に生じた気流の乱れが上空の雲を吹き飛ばす。
全長およそ10㎞、神の裁きにも等しい威力の一閃が外壁の僅か数十mを掠めて大地に傷痕を残した。
…
額から汗を滴らせながら、少年は剣から手を離して顔を上げた。
幅4m、深さ1m弱の半穴が視界の先へ真っすぐ伸びていた。
目の前はわけも分からずまたたき、心臓の位置が普段よりも高く感じる。
文字通り跡形も残らなかった跡地を夢心地のまま眺め、少年は呟いた。
「勝った……」
「───vici」
…
教主は物言わぬ少年を見ていた。
死んではいない。体力を使い果たしたところに脳震盪を起こして気絶しているだけだ。
両手両足を伸ばして土に塗れる彼の隣には、大地を切ってそのままになっている彼の剣が残っていた。
「……流石にあんな一撃、真正面から受けるわけないだろう」
昨夜、少年を取り逃がした後から教主はこの結末を想定していた。
ディアという少女の介入は厄介だった。何しろ、彼女も守護天使の監視から逃れられる存在だ。
確かに目の前に出現したにも関わらず、記録を閲覧しても昨夜の平原には自分とかの少年の二人だけしかいなかったことになっている。
単に少年を気絶させて剣を奪うだけでは、また邪魔されて仕切り直しになるだけだ。
だが、彼女が彼に剣と力を与えて復讐を促した以上、少なからず勝利することは望んでいたはずだ。
そして見たところ、ディアは少年以上に教主に対して強い憎悪を抱いていた。
なのに自分が前線に出ないのは、正体を少しでも隠すため。
獣人を手引きして聖女を襲わせたのも、教主対策の一つなのだろう、と彼は推理した。
策略家を気取る人間に対して一番有効な方法は決まっている。
望みどおりに勝ったように見せることだ。
一筋縄ではいかず、けれど自分の隠していた奥の手がいい感じに嵌りこむ、そんな勝ち方。
勇者vs教主のマッチアップで彼女が思い浮かべそうなのは、子供だからと侮ったところに付け込む、そんな勝ち筋。
そのために苦戦を演じ、実力を引き出し、真実を伝えた後に挑発して挫折も乗り越えさせる。
再び相まみえるときは、彼が全力中の全力、精魂一切尽き果てた状態にまで追い込んでから負ける必要がある。
勝利後に満身創痍になって気絶したと見せかけ、それを回収しに来たところを叩く。
「───さあ、出てこい。ディアとやら」
教主は、少年が切り裂いた地面の影に身を潜めていた。
懐刀の使うものと同じ影に潜伏する技術。
守護天使の力でも検知しにくい高度なカモフラージュ。
演技とはいえ受けた傷は本物。僅かに残った体力を振り絞る。
……だが、一向に少女が姿を現す様子は無かった。
「警戒されているのか……。まあいい、時間なら───」
ふと、彼の視線は少年から逸れた。
都市とは反対の方向、遥か彼方の山脈へと。
僅かに肌が引きつるような違和感でしかなかった。
だがそれはすさまじい勢いで膨らみ、一つの最悪を指し示す。
影から飛び出した教主は眠る少年の首根っこを掴んだ。
彼の体を気遣う余裕はない。歯を食いしばる。
手足は暴れないよう縄で固定済み、後は投げるだけ。
「南無三───!」
仰角45度、理想的な放物線を描かんと少年の体は射出される。
その軌道が頂点に達した時、地上にいる教主もろとも、赤い熱線が大地を両断した。




