第32話 暮れの診療所
聖女が目を覚ますと、そこは薄暗くも暖かい部屋だった。
少なくとも、地下で砂と土に塗れて起きるようなことにはなっていない。
見覚えの無い部屋を前に、ゆっくりと自身の記憶を手繰っていく。
馬車に乗ってこの都市に来たこと。
診療所で患者と話をしたこと。
スラムの住民に朝食を配ったこと。
目の前で友人が切り裂かれて血を流したこと。
暗い部屋に閉じ込められたこと。
全身が痛くて、喉もからからに乾いていたこと。
頬を伝うものが汗で、背中の違和感がおびただしい量の冷や汗ということに気づいた彼女は、気持ち悪さと不安から寝台を後にしようとした。
「きゃっ……」
しかし、入るべき脚に力が入らず、そのまま大きな音を立てて顔から床に突っ込んだ。
じくじくと疼く頬、内側から無数の針に刺されているような両足、腕に力を入れようとしても、痛みで力が入らない。
「聖女様……、だ、大丈夫ですか!」
扉が開き、部屋の電気が点いて見えたのは、先日炊き出しを共にしたシスター・ティーレの姿だった。
呆けて動かない聖女を手早く抱え上げ、ベッドに座らせて体についた埃を払う。
人形のように動かなくなった彼女はしばらくすると、機械のように首を動かし、見開かれた目をシスターに向けた。
感情を失ったような狂気的なまなざし、絶望という波に衝立られた防壁のような固いまなざしを。
その異様さにシスターは思わず息を呑む。
「ケイシアさんは」
「……隣の部屋で寝ていますよ。かなり大変な状況ですが、命に別状はありません」
「そう……ですか……」
その一言を聞いて、瞳孔が少し揺れた後、少女の顔から緊張が溶け落ちその場に力なくへたり込んだ。
しばしの間面食らっていたシスターははっと気が付いたように顔を上げ、聖女を抱きかかえていそいそとベッドへ戻した。
そこへ、診療所の所長がやって来る。
「騒がしいぞ、静かにしろティーレ」
「しーっ……。聖女様がお休みよ、クウェル」
「だから……はあ、分かったよ」
疲れ切った溜息を吐いた所長は、部屋の隅から椅子を二つ引っ張る。
片方をシスターの方へ滑らせ、自分はさっさと足を組んで組んだ。
脚に当たって倒れかける椅子を慌てて支えたシスターは、言いたい言葉を頬の中に留め、そのまま座って飲み込んだ
「騎士のお嬢さんは命に別状はない。ただ、楽観視できる状況でもないな。回復は本人次第だ」
「それ、今言うこと?」
「もののついでだ。聖女様、差し支えなければそのまま聞いていてください。ああ、体は起こさず」
脚も腕も組んで口を開く所長の目は、呆けている聖女へと向けられた。
虚脱した視線を天井に向ける聖女の顔は、立った一晩で酷くやつれてしまっていた。
一度濡らして拭いただけでは拭いきれないような汚れが、真っ白だった頬にこびりついている。
所々から涙の跡か固く線を引いていた。
柔らかい体には拘束されていた痕跡が今も痛々しく残り、喉や肌の見えない部分も劣悪な環境により確かに傷ついていた。
そして、そんな聖女がマシに思えるほど、もう一人の少女の容態は酷い。
突き立てられた刃物は奇跡的に内臓を傷つけてこそいなかったが、最低限の処置で野ざらしにされたことで、ケイシアの体力は極限まで削り取られていた。
加えて発見当時は鉱毒が回っており、死んでいないのが不思議に思えるような燦燦たる状況だった。
教主の報告によると、監禁されていた部屋は元々不法採掘した鉱石の置き場だったようで、微細な粉塵があちこちに残っていた。
傷口に入り込んだ鉱石の成分が血流に乗って全身を侵す、採掘労働者にはよく見られる病気だった。
本来なら一日も放置していれば症状も深刻なものになるが、どうやらケイシアは違ったようだ。
(あの時のアイツ……)
「クウェル?」
「なんでもない。とにかく、ここにいる限りあのお嬢さんは死なせない。しかし……」
少し遠くを見ていた所長が、徐にベッドに横たわる聖女へ向けて視線を動かす。
そしてまた、じっと黙ってしまった。
「『しかし』、何よ?不安になる言い方ばっかり。それでもお医者さんなの?」
「ああもう、なんでもないったら!お前と違ってこっちは色々考えてるんだよ脳カラ女!」
「あーっ!!あんたその汚い口直しなさいって何回言えば理解できるの!?しかも聖女様の前よ信じられないわこの無神論者!」
「誰が無神論者だ!!あんな現実から目を逸らした非現実的な妄想に傾倒できるおめでたい奴らと一緒にするな!!」
「あ、あの……そのあたりで……」
一触即発、そんな状況に割って入ったか細い声に、大人二人は一気にトーンダウンした。
一人は頭を抱えて溜息を吐き、一人は何を言うべきか言葉を失っておろおろと自らの手をしきりに握っている。
聖女はゆっくりとその体を起こし、布団をかけたまま二人に向けて微笑んだ。
「私はもう大丈夫です。ご心配をおかけしました」
「……すみません。二人でいると自然と昔の雰囲気に戻ってしまって……」
「……申し訳ありません」
「二人とも、お友達だったのですね。どこか雰囲気が似ているとは思っていましたが」
(……そうか?)
(似てるのかな……)
他愛ない話に、場の雰囲気が僅かに緩む。
だが、聖女の顔はすぐに真剣さを取り戻す。
「……ところで、所長様」
「所長様?まあいいか、なんでしょう」
「言いかけた言葉の続きを、お願いできますか」
少し眉を下げて言われた言葉に、所長は喉を詰まらせる。
眉間に皺をよせ、口に手を当て、壁の隅から隅を見渡してから天を仰いで、肩を落としながらため息をついた。
「きっと、私が聞くべき話ではないと判断されたのだと思います。純粋に私のためを思って」
「……はい。正直に言って、貴女に聞かせるにはあまりに耳触りの悪い話です」
「それでも、聞いておかなければならないと思ったんです」
「……それは、神のお告げか何かですか?」
「いいえ」
真っすぐな視線と短い言葉が突き刺さる。
目を逸らせず、言い逃れもできない。
隣でおろおろと震えるシスターの方をちらりと一瞥してから、所長は観念したように口を開いた。
「……私は、教主様が全てにおいて正しいとは思っていません」
「それは……」
「大征伐の後から、彼の行動には明らかに不審な点が増えた。過去の教主にこういうことは無かった」
「大征伐……?」
「聖女様が産まれる前かすぐくらいのころにあった、大規模な魔物討伐作戦のことです」
疑問を呈した聖女に答えたのは、所長ではなくシスターの方だった。
彼女も意を決したように姿勢を正し、まっすぐ聖女に向き合っている。
「都市どころか邦を跨いで行われた作戦です。ありとあらゆる戦力を動員して、邦内の魔物を一掃しようとしたんです」
「それは、良いことなのではないのでしょうか……?」
「……確かに魔物は減りましたが、根絶には至っていません。それどころか潜伏していた魔物を刺激したせいで状況が混乱し、被害を受けた村や都市も多くありました」
「そんな……」
「魔物との攻勢は、現在拮抗しています。村は都市のような立派な壁こそありませんが、魔物の侵入を防ぐくらいなら教会の維持する結界で十分です。あんな大袈裟なことを強行する必要なんてどこにもなかった」
「それは、いつか来るべき時へと進んだだけ!犠牲は傷ましいけれど、そのおかげで魔物の被害が減った地域も同じくらいあります!」
「だから……!いや、今は論争の時間じゃない……。ともかく、教主様の判断には疑問が残ると私は考えています。そして……」
所長は、シスターの方に向きかけていた体を直し、聖女の方へ向き直った。
呼吸を整えて、彼女は言う。
「その最たるものが、貴女達だ。聖女様」
聖女への、否定の言葉を。
「……ちょっと、クウェル。流石に冗談よね?」
「だから言いたくなかったんだ。でも……」
「……」
「……思いのほか、冷静ですね。聖女様。もう少し取り乱すかと」
「いえ、これでも、冷静とは言えません……けれどもそのお考えに、納得もできるのです」
「聖女様……」
聖女の表情は陰り、悲痛に歪む。
それはずっと自らに問いかけていた疑問であり、ただ一つ、教主に対して持つ不信の種だった。
聖女は、シスターのように奇跡に長けてはいるわけではない。
騎士のように戦えもしない。
医者のような専門性のある特技もなければ、そもそも一人前の人間として社会に貢献もできない。
できるのはただ笑顔を振りまき、話を聞くだけ。
誰にでもできる特技を取り上げて聖女などと、彼女自身が一番納得できていない。
「……貴女もそうだが、あのお嬢さんもそうだ。貴女達の年頃の子供が、普通どういうものか知っていますか?」
「いえ……」
「大半は家の中の手伝いをしながら、社会について学んでいる最中です。学校に行くものもいるでしょう。だが間違っても、武器を握らせて魔物の前に立たせるなんてことはしないんですよ」
「クウェル……!」
「じゃあシスター様は、才能さえあれば子供に何をさせてもいいとでもいうのか?」
所長はまたシスターを睨む。
だが今回のそれは、先ほどのようなじゃれ合いの延長線にはない。
心の底から、少女らを哀れみ、この境遇に導いたものを憎んでいる。
「それは……」
「子供は無責任なものです。ですがそれは責任を負わなくていいのではなく、負うべきではないから。人の命も、信仰も、背負う必要なんかどこにもない。私はそう信じています」
それが彼女が命に触れてきて培ってきた思想。
当たり前に対して問い続けて得た答え。
それがたとえ教会に背を向けるものだとしても、歪めることのできない彼女の信念だった。
「結果、騎士お嬢さんは死にかけて、貴女も少なからぬ傷を負った。そして張本人はそっちのけでまた別の子供を追いかけている。正直今回の一件で、彼の信用はかなり落ちたでしょうね」
「もう……いいじゃない。言うべきことは言ったでしょう……」
「あくまで私個人の考えだ。世間的には教主は変わらず優れた指導者でありつづけるだろうな。……ティーレも、妄信だけはやめてほしい」
「……分かりました、所長様。貴方の考えが聞けて、よかったです」
聖女の声音は変わらない。静かに凪いで、透き通っている。
その奥底に潜む不安すら隠れぬように。
「……私は」
「構いません。言っていることには、筋が通っていると思います……。だから……」
聖女は微笑む。
「精進を重ね、貴女にも認められるような、聖女に相応しい存在になってみせますね」
精一杯、強がって。




