第30話 刹那
地の底に響く泣き声がようやく収まりかけた頃、雰囲気にそぐわない気の抜けた声がその場を横切った。
「せんせー。そろそろ戻らん?」
「聖女様。こちらへ」
「……んっ。……はい」
差し出された手を、顔を拭ってから取り、聖女は覚束ない足取りで立ち上がる。
ぐらつく体を支えた教主はそのままひょいと抱え上げ、来た方向へと振り返った。
それを見て先を行こうとしたモーラは、教主がその場から動かないことに気づき立ち止まる。
その視線は前ではなく、地面を向いていた。
正確には、簀巻きにされて転がる獣人を。
「……あたしが運ばなきゃダメ?ケイもいるんだけど」
「聖女様が歩けたなら運んでいた」
「あ、あのっ、私は大丈夫ですので……」
「んな健気なこと言われたら運ばなきゃいかんじゃーん……」
渋々といった足取りで戻ってきた彼女は、白目をむいて倒れている獣人に対してしゃがみ込み、棘のように堅くなった毛皮をつつく。
目を覚ます様子こそないが、彼の身の丈はモーラの倍近くに達する。
毛皮で目立ちにくいが、鍛え上げられた体は高い筋密度を誇り、見た目以上の重量があるだろう。
それこそ教主が担ぐ分には問題ないが、とてもその半分の背丈の少女が担げるような"荷物"には見えない。
しかし、
「んー……ほいっ、と」
弾みを付けて空中へ投げ上げられた獣人は、そのまま少女の肩へと腹で着地した。
まったく体がブレる様子も無く、今一つ緊張感に欠ける表情にも変化はない。
まるでマジックか何かのような異様な光景に、聖女の口はぽかんと空いて閉じなくなってしまった。
「せんせー。これ途中で起きたりしないよね?」
「その縄は精神をも縛る特別製だ。私が戻るまで解かないように」
「はーい」
その様子に疑問を覚えているのは聖女だけで、他の二人は特に意にかけることも無く、そのまま来た道を戻っていく。
釈然としない聖女の口も徐々に閉じゆき、だんだんと荒れた心に平穏が戻っていった。
壁に取り付けられた松明は薄明かりで坑道を満たし、果ての無い暗闇の奥へと誘う。
代わり映えのしない光景にふと分かれ道が現れては消えていく。
幾重にも張り巡らされた隠し通路は各地の鉱脈へと繋がっており、一般の採掘隊に見つからないように資源を採集できるよう構築されていた。
彼の商人は方法こそ間違えたが、その才覚は本物だったのだ。
教主は失われゆくものに静かに思いを馳せながら歩く。
先行するモーラは時折首を動かして耳を澄ませ、あたりの様子を探っている。
聖女は暖かい腕と心地よく揺られ、疲れもあってとろとろと微睡んでいく。
しばし、静かな時間が過ぎた。
そしてそれが終わる時というのも、また静かだった。
「モーラ」
短い呼びかけに、少女は真剣な面持ちで体ごと振り返る。
自らの体が下降していることに気づいた聖女は、霞む目をこすりながら辺りを見回す。
暗く、仄明るい、地の底に変わりはない。
「聖女様を連れて隠れろ。帰りはお前だけだ」
「ちょっ、それどういう……」
「早く!」
有無を言わせない言葉に慌てて少女は獣人を投げ捨て、寝ぼけ眼の聖女の首元を掴んで壁際に寄る。
来ていたマントを翻すと、そのまま彼女らの姿は影に溶けた。
直後、閃光。
遅れた轟音が篝火を吹き消し、空間に再び暗闇を満たす。
───静寂。
光の死んだ世界に、再び声が芽吹く。
「……今のが勇者ってやつ?ぜ、全然見えなかった……」
「あ、あのっ……モーラさん……?」
「……ああ、真っ暗で何も見えんよね。ちょっと待ってね」
ぽん、と掌に乗りそうな大きさの明かりが灯る。
モーラの掲げたランタンは足元を照らすのがやっとの簡素なものだった。
辛うじて相手の顔が分かるという程度の状況に、聖女の不安はぬぐえない。
それに何より、一番頼りになる存在が一瞬のうちに消失してしまったのだから。
「手……いやダメだ、両手塞がるわ。あ、ランタン持ってくれる?」
「は……はい」
「疲れたら言ってね。水とご飯もちょっとだけあるから」
「ありがとう、ございます……」
「これ、服の裾。ちゃんと握ってて」
視界の外で、柔らかい温もりが小さな手を握りしめる。
その隙間にするりと厚めの布地が滑り込む。モーラの着ていたマントの端だった。
聖女は渡されたランタンと、その布をしっかりと握った。
すぐ隣で力む声が聞こえると、手の中の布が引っ張られる感触がある。
「行ける?」
「……はい」
「じゃ、行こっか」
聖女は灯火を掲げ、手の中の導きを頼りに歩き出す。
その先が見えなくとも、足取りが重くとも、歩いていかねばならないのだ。
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「飛べ!燕雀弾!!!」
光翼の中で光が小さく収束し次々と前方へと打ち出される。
滑らかな軌道を描いて飛んでいくそれは全力疾走する教主の背を目掛け四方八方から殺到する。
逃げ場は無い、直撃する。
そう思われた。
「ふん……!」
教主の体が水平に錐揉み回転したかと思うと、壁へ天井へ跳ね回る。
光弾と光弾の僅かな隙間を潜るように、否、彼の体の大きさであの隙間を掻い潜れはしない。
彼が飛び継ぐのは影。篝火の脇に出来るほんの小さな揺らぎ。
そこに繰り返し潜むことで直撃を回避し続ける。走る馬の目を射貫くような繊細さとと水の上を走るが如き大胆さを兼ね備えた離れ業だった。
勇者の力は無尽蔵と言わんばかりに、少年は飛翔しながら光弾を放ち続ける。
しかし、先に業を煮やしてしまったのか、歯ぎしりをして自身の速度を上げた。
先行して逃げる教主の約二倍。あっという間にその距離は詰まり、彼は中段に剣を構える。
「逃ッ、げるなァァァァァアアアアアアア!!!!!」
「──────ッ!」
小さく舌打ちをした教主は体を翻しそのまま進行方向へすっ飛ぶ。
そこへ勇者が飛び込み、光迸る剣を振りぬいた。
膨大なエネルギーが爆縮的に発散し、周囲の空気を巻き込んで荒れ狂う。
その余波は遥か遠方の聖女らや獣人らの下へも及ぶ。
もちろん、その震源に居た教主は無事では済まなかった。
吹き飛ぶ坑道の隠し口。
そこから一つの影が凄まじい勢いで宙へと射出される。
天空に大きく弧を描き、都市の上空を飛翔するその存在目掛け、地上から光が飛び上がる。
やがて二つは激突し、月の膝元に大きな火花を散らした。
勢い任せに切り伏せようとする剣戟を受け止め、支えの無い教主は斜めに地上へと墜落していく。
その隙を逃さず勇者も角度を変えて自らを打ち放ち、ガラ空きの胴を貫かんと剣を突き出した。
「死ね!!!!」
「ぬんッ!!」
「何っ!?」
切っ先が腹を裂く寸前、教主は光を纏う大剣を両手で鷲掴む。
可視化されたエネルギーそのものとも言える光が骨をも焦がし、肉体が粉々になるような衝撃が彼を襲う。
地上へ一直線、上空約11㎞から数秒も経たずして二人は大地へ叩きつけられた。
…
高く舞い上がった砂埃が一刀の下に払われ、勇者は額の汗を拭う。
その光は僅かに輝きを衰えさせ、見て分かるように彼の疲弊を現していた。
(最大出力での限界速度……こうでもしないと追い付けないのか……)
大剣をどこかへとしまい、手ぶらでふらふらと歩きだす。
心臓が弾ける。脳が膨れ上がる。手に違和感を感じて見てみると、まるで凍えた時のように訳も分からず震えていた。
少年は、笑う。
「俺、やっ───」
その顔面に拳が叩きこまれた。




