第28話 光明
頭痛、耳鳴り。全身が湿って重たいのに、喉はからからに乾いている。
何度目かの闇の中での起床。
体を起こすこともままない聖女は、微かな音が聞こえることから今自分が起きていることを判断した。
しばらくその場を這いまわり、手に触れるものが無いかを探す。
その姿は蚯蚓か、土竜か、ともかく、聖女と呼ばれる存在には相応しくない惨めなものであることは間違いない。
そんなことをもはや気にする余裕の無い彼女の手に、ようやく何かが触れた。
「ぁ……ぁ……」
思わず口を開くが、ひび割れた喉からは声にもならない音が僅かに漏れるばかりだった。
革製の何か。ブーツか、あるいは剥ぎ取られた革鎧の残りか。
とにかくそれは、未だ眠るケイシアの目印であることに違いない。
聖女は、もそもそとその方へ寄っていき、そっと彼女の肌に触れる。
冷え切ってしまったが、まだ奥の方で拍動を感じる体表。
そっと撫でているとほんの少しだけ暖かくなるのが、ただ聖女の体温が移っているだけだったとしても、喜ばしかった。
そんな一抹の慰めを抱いて再び眠りに落ちようとしたその時、聖女の耳に別の音が届いた。
「せい……じょ、さま……?」
「っ……!?っぁ……かはっ、げほっ……」
それは確かに『声』だった。
地獄の底で聞き取った微かな声は福音のようでもあり、何よりも尊い響きに聖女は半ばパニックに陥る。
声の出ない喉を抑え、浅い呼吸をゆっくり繰り返し、土を払って探り当てた手をそっと握り返す。
生きていた。死んでいなかった。冷たい命の温もりが、彼女に勇気を与えた。
「ごめ……よく、みえな……」
「……いいの。やすんでて」
敬語を捨ててまで、懸命に絞り出した声が届いたのかは分からない。
暗闇の中でそれを確かめる術はもう聖女の体力では残っていない。
それでも、彼女は一心に手を握った。
手の感覚が無くなりつつあるとしても、希望を信じて、一心に。
───そして、その暗闇にとうとう一筋の光が差す。
「おーいガキ共、生きてるかー?」
ばくばくと心臓が脈を打つ。
振り返って見えた影は、毛が立ったざわついたもの。
鼻をくすぐるのは強烈な獣臭。
耳に刺さるのは、粗暴さの滲むガラガラの声。
泥まみれの彼女らよりもよっぽど泥と血に塗れて生きてきた存在。
闇の中で光る目が、二人の死に体の少女を嫌らしく舐めまわす。
さながら、肉の鮮度を目利きする料理人のように。
「ま、餌としてなら十分だな」
そう呟いた男は口の端を醜く吊り上げ、総毛だつ聖女の腕を掴んで持ち上げた。
肩が引き裂ける苦痛に顔を歪めたのも刹那、ずりずりと雑に引きずられていることに気づき、焦る。
やっと息を吹き返した彼女が、遠ざかる。
「ま、まっ……」
「あ、忘れてた」
懇願の声を上げるより先に、彼女の吊られていた腕が解放された。
必死の思いで手を伸ばし、遠くのケイシアへと這い寄ろうとした聖女の頭に、またもずた袋が被せられた。
眩む視界、不愉快な甘い匂い、呼吸の自由が奪われたことに、小さな体が反射的に暴れ出す。
くぐもった音の中に、舌打ちが聞こえる。
次の瞬間、聖女の体は動かなくなった。
「ったく大人しくしろー?殺すなって言われてるのにお前ら藁人形みたいに脆いんだからよ」
ばちばちと視界が弾け、天地がひっくり返ったような中で彼女は苦しむ。
じわりじわりと痛みが脳に届く。腰の骨が今にも飛んでいってしまいそうな、それとも既に自分の体は爆発してしまったのか。
酸素を求めて口がぱくぱくと開く。涙が滲んでも流れるほど量は出ない。
散らばる部品をかき集めるかのように、彼女はぎゅっと自分の体を抱えて蹲る。
その首元を掴み、獣人は再び歩き出す。
無理やり体を伸ばされ痛みを和らげることも許されずに、ぴくぴくと打ち上げられた魚のように肢体が痙攣する。
もはやそこに、抵抗も恭順も何もなかった。
「胸糞わりぃよなあ。何が悲しくてガキ殴って攫わないといけないんだ?」
獣人は独り言つ。
心底うんざりしたような声音が、暗い空間に低く響いた。
握った襟があまり動かなくなったのを感じながら、彼は部屋の外へと出た。
そのまま、点在する篝火の中を行く。
彼自身も鬱憤が溜まっているのだろう。独り言は止まない。
「しっかし、この国のガキはおっかねえなあ。こっちの白いのも、突然爆発したりしねえだろうな」
「流石にそりゃねえよ」
「そうか?あの赤いのだってあんなヤれるようには見えなかったぜ、ファミ───」
振り返り際に延髄切り。獣人の不意打ちは空を切る。
聖女を投げ捨て、周囲に全神経を張り巡らせる。
彼の聞いた声は、死んだ仲間のものだった。
偵察に出かけ、捕縛の危機を命を以て脱した後輩のもの。
あまりに自然だった。だからこそ悍ましい。
与太話かと思っていた、悪魔は死者を冒涜するという話に、真実味が帯びてゆく───
「チクショウ出てこい!老兵だからって甘く見てると」
獣人の咆哮が途切れた。
視界の端に白い塊が映っていた。
それは伸びあがり、自分の顎目掛け───
…
朦朧とした意識の中でも、聖女は暴力の音を聞き取り、無意識に体を固くしていた。
希望は見えなくとも、切望は止められない。
彼女が無事でありますように。
私がどこかへ連れらされるのが貴方の思し召しなら、せめて。
聖女の頭からずた袋が取り払われる。
霞む視界には仄かな橙色の明かりと、それを遮る大きな影があった。
「───、向こうに──────。──────かも」
「───。───と──────を───」
声が聞こえる。
途切れ途切れの音に徐々に焦点が合う。
少し小さくなった影が再び大きくなり、じっと動かなくなる。
それは光だった。
視界を照らす灯りなど比べ物にならないほど、明るく、暖かく、揺るぎない。
彼女の目から熱く涙がこぼれ落ちる。
雫の中で幾重にも散らばるそれこそが救いなのだと、これ以上ないほどに納得していた。
「遅くなり、申し訳ございません」
聖女の願いは届いた。
教主は遅れこそすれ、それを取りこぼすことは無かった。
「センセー。そっちはだいじょぶそ?」
「命に別状はない。ケイシアはどうだ」
「割と死んでないのが奇跡かも」
「分かった。聖女様を見ていてくれ」
「はーい」
彼が去った代わりにやって来た姿に、聖女はやはり見覚えがあった。
気の抜けた喋り方、篝火の中でも紫の髪は特徴的で、しかしその服装は奇抜だった。
布の遊びが無いぴったりとしたシルエットは、その少女の豊満なボディラインを露わにする。
マントに付いたフードは外れており、だからこそ彼女の顔がはっきり見える。
「もー、ら、さん……」
「うっわ声ガラガラ。ちょっと待ってね、水出すから」
懐から取り出した水筒の口を捻り、モーラと呼ばれた少女は水滴を彼女の唇に少しずつ垂らす。
それはひび割れた粘膜に染み込んでいき、微かに動く舌に乗って聖女の喉を潤した。
何の味も付けていないただの水。なのにどこまでも甘美で、泥の味がしないことが奇跡にすら思えた。
「飲めるならこれも飲んでほしいんだけど、いけそ?」
モーラが取り出したのは、小さな半透明の粒だった。
キラキラと輝くそれを迎えるため唇の隙間をほんの少し広げると、ひょいとそれが指ごと押し込まれた。
再び与えられる水を使ってなんとか飲み込む。ころりとした塊が空きっ腹にぽつんと放り出されたのが分かる様だった。
しばらくして聖女が座りこめるくらいに回復すると、顔を上げて話し始める。
「あの、モーラさん、ですよね?戴冠式でご一緒した……」
「へー覚えてたんだ?そだよー久しぶり。……こんな状況で言うことじゃないか」
「いえ、嬉しいです……。こんな形でも、再会できて」
はにかんで言う聖女に、紫髪の少女は照れ臭そうに鼻をかいた。
すると徐に彼女は立ち上がり、聖女の背中側、通路の方へぴしりと直立する。
聖女が不思議に思ってモーラと同じ方向へ振り替えると、教主がケイシアを抱えて戻ってきていた。
「ケイシアさんっ!」
「大丈夫です。こちらも処置を終えたので命に別状はありません」
「……ほ、本当に……?」
「はい」
端的な返事に、その場に沈黙が訪れる。
しばらくして静かな音がそれを断ち切り、徐々にすすり泣きとして、暗い空間を反響していく。
「よか……った……、……よかったぁ、ほんとう、に、ぶじっ、でぇ……」
ぽろぽろと大粒の涙がこぼれ、土に吸い込まれていく。
ぐずぐずに顔が崩れ、泥まみれの袖の端でなんとかそれを拭う。
飲んだ水が早々に消費されていくのを、彼らはただ黙って見守っていた。




