第26話 泥底でなお足掻く
もはや昼も夜も、起きているのか寝ているのかも分からない有様だった。
苦しみに揉まれて目を閉じ、痛みに悶えて目を開ける。
ただ一つ確かなのは冷たくか細くも脈を打つ、腕の中の一つの命。
聖女はただ一心に祈った。それだけが今の彼女にできる最善の手だった。
そんな暗い波の中で、ふと彼女は違和感を覚えた。
うつらうつらと船を漕ぐ意識が徐々に岸へと寄っていく。
そうしてたどり着いた岸壁で感じたのは、先ほどまでとは正反対の、熱だった。
「……ケイシアさんっ!?」
聖女は寝息に紛れた痛々しい呻き声を聞き取った。
微かな記憶をたどり、傷ついていない背中の方へ這って行き、そっと手を伸ばす。
指先が触れるか触れないかで反射的に手が引っ込み、すぐにそれが火と紛うほどの高熱であることに気が付いた。
「ケイシアさん……!酷い熱……これでは……」
風邪を引いた時に頭を冷やすのは何故かと聞いたことがあった。
朦朧とした意識の中、粥を運ぶ大きな背中が去っていくのが惜しくて、口を付いた言葉だった。
『人体は、体内に入り込んだ毒素を分解するために発熱することがあります。しかし、脳という臓器はそのような高熱状態での運用を想定されていません』
『うぅん……?』
『熱を出したままだと、上手く考えることができなくなったり、大事なことが思い出せなくなります』
だから安静にしていなさい、と氷嚢をどかして頭を撫でられた記憶。
穏やかな思い出が、今この状況に限ってはまるで警報のように激しく脳内を逡巡する。
冷やさないと、と思っても、この環境に氷の類など望むべくもない。
空気よりは土の方が冷たそうだが、病人を黴菌の巣窟に近づけてはいけないことは幼い思慮でも明白だ。
それならせめて、と冷え切った自分の手を、探り探りケイシアの額にひたりと当てた。
「あづっ……」
耐えきれなくなってすぐに手が離れる。
先ほどまでは冷たさに半ば痺れていた指が、あっという間に白く焼け付いたようだった。
こんなに人体が熱を持てるなどと信じられない。
だって、このままだと頭だけではなく全身が燃え尽きてしまう。
死ぬ。穏やかに迫る終幕ではなく、天から突然降って湧くピリオドによって。
聖女はがむしゃらになって上着を脱いだ。恐怖が彼女を動かした。
薄く、頼りない布。けれども無いよりはマシ。
両手にそれを握った聖女は、力の限りケイシアを扇いだ。
湿った空気が渦を巻き、僅かに熱を攫って霧散する。2回、3回。10回もしないうちに、彼女の息は切れる。
大きく肩で呼吸をし、痛む腕と背中に鞭を打ってもう一度、ケイシアを扇ぐ。
どうか死なないで。助けが来るまで生きていて。
涙が腕を震わせる。そのせいで風が上手く起こせなくなる。
体が痛い、胸が苦しい。それでも止めたら彼女が死ぬ。
汗にまみれながら、泥にまみれながら、もはや自分の腕を地面に叩きつけるように扇ぎ続ける。
滅茶苦茶な動きに重心が乱れ、聖女の貧弱な体幹はあらぬ方向へひっくり返った。
頬を砂粒が裂き、初めて土の味を知った。
じゃり、と歯を食いしばって、泣くのを耐えるのでもういっぱいいっぱいだった。
「何してる」
そんな背中に、冷たい言葉が突き刺さる。
暗闇に差した光明。しかしそこにいるのは望んだ助けの手では無かった。
───獣人。不機嫌そうな彼は、心底うっとおしそうに、泥に塗れ這いつくばる聖女に一瞥を向けた。
手には服だった布を握り、目も鼻もぐずぐずに溶かし、歯を食いしばる惨めな少女に。
そしてその奥、微かな呼吸を懸命に繰り返す捕虜の少女に。
「死んだか」
「まだ死んでませんっ!……ま、だっ……」
食い入るように少女は叫ぶ。その勢いは僅かに獣人を押し返し、ほんの少しだけ灯火を揺らした。
だが、それだけ。本物の獣の咆哮に及ぶべくもなく、後に続くのはすすり泣き。
その様子をしばらく眺めていた獣人は、やがて踵を返して歩き出した。
「お願い……します……。薬か何かあったら、分けていただけませんか……」
その後ろ髪を、か細い声が引いた。
「水だけ……水だけでもいい、です……。このままじゃ、ケイシアさんの熱が……」
獣人の鼻が灯火を照らす。
先ほどまでうずくまって泣いていた少女は、体の向きを僅かに変えていた。
じりじりと虫のように這いより、頭を中心に手足を縮めて小さくなる。
繰り返される懇願の言葉に、それが慈悲を乞う姿勢であるとようやく彼は気が付いた。
「なんでも……なんでもしますから……。助けて……」
聖女も内心では分かっていた。これは意味のない行為だ。
獣人は悪意を持って自分たちを攫った。正確には、聖女である自分を。
むしろケイシアは彼らと正面切って戦った脅威である。脅威なら、死んだ方が楽に決まっている。
トドメを刺さなかったことが慈悲と言われたら聖女は何も言い返すことはできない。
悪いのは、力添えも手助けもできずただ囚われただけの自分なのだから。
彼らに、ケイシアを助ける理由などどこにもないのだから。
「お願いします……。どうか、どうか……」
それでも彼女は縋らずにはいられない。
神どころか、その逆賊ですらある彼らを頼らないといけない。
歯を食いしばって涙を堪え、鼻水を啜って言葉を紡ぐ。
「お慈悲を……」
獣人は答えなかった。
彼は黙って再び踵を返し、扉も閉めずに部屋を去った。
それでもなお、聖女は頭を上げられない。
現実を視たくない。ずっとこの暗い地面を見ていれば、少なくとも幻は見ていられる。
握った指に土が食い込み、鼻のすぐ下は湿気て生臭い。
もう涙を堪えることもできなかった。彼女は静かに泣いていた。
獣人を恨むことはしなかった。
悪いのは全て自分なのだから。
何の力もない自分なのだから。
鈍く透明な音がし、聖女の登頂に硬いものが触れた。
ついでどさりと重たい音がすぐ横で響いた。
聖女は、おそるおそる顔を上げる。
目の前にはガラスの瓶。そして横には大きくたわむ革製の袋。
焦って顔を上げると、それを投げ落としただろう獣人は既に半身を返していた。
聖女は口を開いた。しかし、その喉からは何の音も出なかった。
声を出すことを咎めるような視線が、音よりも早く彼女の喉を貫いたからだ。
一瞬だけ立ち止まった獣人は、そのまま立ち去り、二度と戻って来ることは無かった。
唇を噛んで、手の中の瓶を観察する。何度も目をこすり、読める字だけでも拾い上げて、それが飲む粉薬であることはなんとなく理解した。
飲ませるための水が要る。それに考えが及んだ時、次に気づいたのは一緒に投げられた袋だった。
そっとそれに触れると、ぶよんとたわみ、余りにも抵抗が無いことに怯んでしまう。
形が崩れないようにそっと、慎重に口の紐を解いて中を覗く。
中には闇しか溜まっておらず、何も見えない。けれどある種の確信をもって、その中に指を差し込む。
触れたのは、ひんやりとした液体。
「みずっ……!」
にわかに荒くなる呼吸を必死に抑え、それをケイシアの傍へと持っていく。
飲ませようと試みて、ケイシアがうつ伏せで蹲っていることに慌てふためく。
水がこぼれないように口紐を縛って元の場所へ戻し、弱った体の向きをそっと変えた。痛いでしょう、ごめんなさい。聞こえているかどうか定かではない謝罪を口にしながら。
辛うじて横を向いたケイシアの口元に革袋の口を寄せ、そっと中身を傾ける。
当然、横を向いている穴に水が落ちていくはずはない。最初の数滴は無意味に土に吸い込まれていく。
慌てて掬い取ろうと手を伸ばし、それに意識が取られたために革袋の中身が半分ほどこぼれてしまった。
しかし、零れたことが幸いして、革袋はか細い片手でも持ち上げられる重さになっていた。何度かまた水を零した挙句、彼女は少しずつ手の平に乗せた水滴を、乾いた唇に吸い込ませることにした。
ある程度水を飲ませた後、聖女は飲み薬のことを思い出す。
苦労して瓶の蓋を開けるとそこからは例えようのない、爽やかとは言いたくない香りが鼻の奥を通り抜ける。
この状態に対して薬効があるかは分からない。処方量がどれほどなのかも分からない。それでも、水と一緒に恵んでくれた獣人の善意を、聖女は信じることにした。
水滴ですすいだ指の先に粉を掬い取る。湿っていたおかげで思ったよりも多く取れた。
そっと声をかけると、朦朧とした意識でも反応があり、僅かに口が開く。
その隙間に薬の付いた指を押し込み、頬肉の裏になすりつけ、最後に再び水を飲ませる。
昔してもらった看病を思い出す。薬を飲んだ量はどれほどだったのか、おぼろげな記憶を頼りに指を繰る。
薬と、コップ一杯にも満たない水分を与えた聖女は、精魂使い果たしたように地面に座り込んだ。
喉に張り付いた舌を剥がし、袋にまだ残る水を苦心して飲むとどっと疲れが出て、目の前が霞み始める。
なんとか袋だけ縛り付け、ほんの少し穏やかな寝息になったケイシアに寄り添い、横になった。
地面の固さ、冷たさに顔が歪む。普段眠っていたベッドがどれほど貴重なものかを身につまされる。
それでも彼女は眠りたかった。まだ何も終わっていなくても、自分のしたことの効果のほどが見えなくても、今はただ、眠りたかった。
「神よ……」
小さく呟いたそのすぐ後には、二つの寝息だけが重なっていく。
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「……それで、定刻に遅れた理由は」
「いやあ……その、通りすがりに世間話みたいな……ほらこの恰好だしあんまり静かにしてても……ねぇ?」
「……」
とある路地で、紫の髪の少女は壁際に追い詰められていた。
その前に立つのは黒い眼鏡で目を覆った女性。すらりとした飾り気の少ない服装を纏い、杖こそ付いているがぴんと伸びた背筋から体の弱さは全く感じられない。
雪山のように冷たくそびえる声音は短く、少女へと迫る。
「ボスみたいに人避けオーラが出てるならいいけど、ほら、あたしって愛され系というか、立ってるだけでも人から声かけられがちというかっひゃぁ?!」
素っ頓狂な悲鳴を上げた少女は胸元を抑えてしゃがみ込む。
いつの間にか女性の手にはねじって細くされた紙袋がつままれていた。まるで蒸らされていたかのように、僅かに湿って温かい。
「菓子の袋だな。理由は」
「……観光客のカモフラージュ、的な」
「……」
「し、仕事はちゃんとしてました!途中で獣人の?っぽい影も見かけたし」
「ほう」
「すぐ見失ったけど……あ、でも逃げたのは北!北の方!です!」
必死の弁明が功を奏したのか、それ以上追及されることはなかった。
女性が北の方を眺めている僅かな間、場には沈黙が立ち込める。しかしそれは針、あるいは冬の冷気のように少女の肌をちくちくと刺し続ける。
震えを止めながらじっと待っている時間は途方もなく長いように感じたが、実際に過ぎたのはほんの十数秒だった。
「報告」
その4文字を聞き取った瞬間、少女の目の色が変わる。
先ほどまでの朗らかな印象がまるで太陽なら、今の物静かな彼女は夜空に孤独に浮かぶ月だろう。
「とりあえず表に見える範囲にそれっぽいのは無し。工房の中までは流石に直接は探れないけど」
「人々には」
「異常なし」
「そうか。連絡通りだな」
「……連絡ぅ?」
思わぬ返答に、少女の口からまたも気の抜けた声が漏れる。
それに対して女性は変わらず手短に答える。
「対象を特定したと教主様からだ」
「……じゃああたしたち探し損じゃん!?」
「移動する。他は既に待機している」
「ちょっ、おぁ、どこに!?」
「追猟準備。急げ」
「あぁ、もう!」
一瞥もくれることなく先を行く女性に、少女は慌てて付いていく。
視線は進行方向を向いたまま、彼女は端的に述べた。
「場所は、北東スラムだ」




