第25話 昼前の一幕
「ふーん……これが煉瓦焼きね。赤いくらいしか共通点無いけど」
独り言ちながら、紫の髪をなびかせる少女は抱えた紙袋から焼き菓子を取り出した。
散漫な歩調で、あちこちへ視線を飛ばしながら、手元のそれにかぶりつく。
味の評価としてはいたって普通のカステラ。
だがハーブを混ぜてあるのか、不思議な香りが口いっぱいに広がる。
確かに煉瓦と言われれば煉瓦のような気がしてくる、そんな香りだった。
「う〜ん、いいね」
指先に付いた生地のかすをぺろりと舐め取りながら、彼女はぼちぼち路地を歩いていく。
彼女が歩くのは都市の中でも工場の立ち並ぶ東部区域。
見上げればそこかしこで煙が立ち上る様子が見え、耳を済ませれば職人の怒号や鋳鉄音が聞こえてくる。
区域ごとに立入が禁止されている、というわけではないが、関係者でもないのに立ち入る人は珍しい。
丁度路地に出て作業していた職人が、奇妙に思って声をかけるのもおかしいことではなかった。
「おーい、そこの嬢ちゃん」
「おん?どうかしましたか?」
少女は呼ばれてくるりと振り返り、焼き菓子を咥えながら小首を傾げる。
背中でまとめた大きなお下げが大きく弧を描いた。
「迷ったなら案内しようか?あんまりここに用事のありそうな格好には見えないが……」
「んーん、ちょい紛らわしいけどこれもお仕事なんすよ」
「それって、教会の?」
「そんなところっすね」
あまりにもあっけらかんとした口ぶりに男はあっけにとられてしまった。
平べったい帽子、縁の大きい眼鏡、チェックのスカートからは肉付きのよい脚が伸び、窮屈そうに靴下へと収まっていく。
ローファーを履いた足取りは軽快で、本当に散歩に来たのではないかと思うほど気楽な立ち姿。
明らかに教会の制服ではないが、かとってこれ以上追及する理由もなかった。
「そ、そうか……だが、この辺りをふらふらするのは危ないぞ。最近事件が続いて物騒なんだ」
「ほえー。まあ、大丈夫ですよ」
「そんな適当な……」
「食べます?」
「え?ああ……」
半開きの口に焼き菓子が押し込まれ、物理的にもそれ以上追及できなくなってしまった。
釈然としないまま口の中のふわふわした感触を味わう。
思わぬ幸福をゆっくり噛み締め、彼は目を開いた。
少女の姿は無かった。
頬に僅かに冷たい風を感じ、それを拭うといつの間にか自らが冷や汗を垂らしていたことに気が付く。
辺りを見回しても影も形も無く、まるで口の中の菓子のように消えてしまったようだった。
「お……お嬢ちゃん?」
「呼びました?」
背後の声に彼は飛びのくように振り向いた。
自分がおかしくなったのか、そう問いかけたくなるほど、彼女の様子に変化は無かった。
相変わらずの緩い笑顔で小首を傾げ、上目でこちらの様子を伺う。
その姿が何故か、不気味に見えた。
「……なんでもない、よな?」
「いやなんで疑問形。疲れてるなら休んだ方がいいんじゃ」
「おい新入りィ!!!ゴミ捨てるのにどんだけ時間かけてやがる!!!」
「やっべ、ごめんなお嬢ちゃん!危ないから早く教会に帰れよ!」
慌てて工場内に戻っていく姿に手を振って、彼女はまた漫然と歩き始めた。
「居たと思ったんだけどな~。獣人」
=================
僅かな明かりと嗅覚を頼りに獣人は前哨基地に戻って来た。
報告もそこそこに、一番奥に据えた扉を開ける。
中には何人かの同朋と、それを看病する同朋がいた。
「ピクツ!勝手に外に出るなって言われてるだろ!」
「どけ。俺が代わる」
「あっ、ちょっと、お前……」
彼は乱暴に看病担当を押しのけ、寝ている獣人の様子を見る。
毛皮は汗で重く、発汗では足りない発熱を補うためか激しい呼吸を繰り返す。
だが胸が何度か上下する間に何度も呻いては、その度に弱弱しく自らの顎を抑えていた。
それでも周囲の気配が変わったことに気づき薄く目を開く。
充血して涙を溜めた目が、僅かな明かりを受けて煌めく。
「……ピクツ」
「ちょっと待ってろリーダー。薬を持ってきた」
「馬鹿、が……」
袋から取り出した瓶を並べ、持ってこさせた水に適当に混ぜたものを牙の隙間から流し込む。
飲み下したことを確認してからゆっくり体を起こし、別の薬を塗った包帯に巻きなおした。
流れるような手さばきは彼らの必修事項のようで、付き添いが驚く様子も無い。
そのまましばらく身の回りの世話をしていると、いつの間にかリーダーが穏やかな寝息を立てていることに気づき、二人は驚いた。
「マジかよ……くたばったんじゃねえよな」
「どう聞いたって寝息だろ。すげえなその薬」
「……耳無し用だから賭けだったけどな。他の奴らにも飲ませてくる」
「ああ、頼む」
部屋の中には他に4人が寝かせられていた。
彼らも多かれ少なかれ体に生傷を作り、例外なくリーダーと同様に熱と痛みに苦しんでいた。
ピクツと呼ばれた獣人が彼らに適切な手当てを施すやいなや、その苦しみはすぐさま取り除かれたようだ。
瓶にたっぷり残った薬を見て彼が軽く後悔していると、付き添いをしていた獣人が声をかけた。
「よお、お疲れ」
「……おう」
「どうしたよ。顔が暗いぜ」
「ここはどこも暗えだろ。……」
彼が噛み締めているのは安堵ではなく苦渋だった。
敵の施しを受けてようやく生き延びている惨めさを。
簡単なやり取りで的確な診断を下すような彼女らとの知識の格差を。
入念に準備したはずの昨夜の結果の微妙さを。
彼らと自分たちは何もかもがかけ離れているという絶望を。
「それで、脱出はいつ頃できそうだ?」
「俺に聞くなよ……。まあ、早くても日没は待つことになるな」
「そりゃそうか。その間にあいつらに嗅ぎつけられたりしないか?」
「……無いとは、言えない」
「……そか」
「あの、黒いのから連絡はねぇか……あぁ……?」
「リーダー!」
二人が話しているところに、満身創痍といった様相のリーダーが割って入る。
慌てて駆け寄る姿を鬱陶しそうに手で払うと、隈の入った目が横に逸れる。
「……夕方だ。遅くも早くもならねえ。そこが唯一のタイミングだ」
「分かった。最低限の荷物はもう運び出しておくよ」
付き添いだった方の獣人は、いそいそとその部屋を出ていく。
しばらく怪我人の寝息が静かに響いた後、リーダーはもう一度顔を上げた。
「……ピクツ」
「何すか」
「何で殺さなかった」
彼を中心に氷風が吹き荒れたようだった。
とめどない殺意が空間を満たし、否応なく息が詰まる。
リーダーは明らかに弱っている。
だが、まるでそんな弱さを感じさせない。
気を抜くと次の瞬間には、自分の首が落ちているかもしれない。
だが、何より恐ろしいのはその殺意の向く先だった。
ピクツが感じているのはただの余波。
いわば、他人に向けられた怒りに身がすくんでいるようなものだ。
「……できません。俺だけじゃない。このチームの誰にも」
「足手纏いは殺す。例外は無い、だろ?なぁ」
「……」
リーダーの言葉を冗談だと思ったことは無い。
だが、それでも信じられなかった。
こんなにも激しく自分自身に殺意を燃やせる人間がこの世界にいるのかと。
でも、
「俺たちの……」
「あぁ?」
「俺たちの脚は、アンタ自身だ。アンタが自分を足手纏いだと思うならそれは、脚の代わりになれない俺たちがゴミなんだ」
「俺たちはみんな死ぬ覚悟はできてる。それは嘘じゃない。だが……」
でも彼らはそれに付いてきた。
闇より暗く燃えるその炎を目印にここまでやって来た。
獣にとって、もはや炎とは畏怖ではなく、憧憬だ。
「アンタの腸が裂けたなら俺たちの腸を代わりに詰め込んでやる。アンタの牙が切れたなら俺たちが代わりに砕けるまで獲物に噛みつく」
「……」
「舐めた真似したら、アンタこそ覚えとけよ」
「……チッ。キチガイ共が」
一吠えした獣は心底怠そうにまた横になる。
寝ている誰かは、もう一度寝返りを打った。