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第24話 昼前の診療所

診療所はいつだって忙しい。

この都市で働く人の多くが金属や鉱石を扱うため、負傷者や怪我人が絶えないのだ。

火傷、切り傷、転倒、骨折、腰を痛めたり、脱水で運ばれてくるものも多い。

診療所は各地にあるが、当然ながら中央に位置するこの診療所が一番対応範囲も治療精度も優れている。

なので大したことが無いのにわざわざ馬車に乗って中央までやってくる慌てた怪我人もいる。

そういう患者を各地に振り分けるのも業務の一環となっていた。


そして当然ながら、この場を取り仕切る所長が一番忙しい。

長というだけあって医学知識に深く広く通じており、内科から外科、精神的な傷病にも対応できる。

それが故に判断に困ったら所長にとりあえず投げるということが常態化していた。

有能であるということは忙しいということで、忙しくしていないものは能力があれど有能とは言えないのだ。



「や~…っと帰ったよあのポンコツ……どっちも忙しいってのに」



肩を回しながら大げさに所長は自分の部屋へと戻る道を歩む。

朝、石礫のような顔をして飛び込んできたシスターは二人きりになるなりその顔をぐしゃぐしゃに歪めて彼女にメンタルケアを強要し、2時間近くを費やしてようやく自分の教会へと帰っていた。

流石に業務を止められないと片手間での対処にはなったが、それで返って時間を余計に使ったのかどうかはもはや誰にも分からない。

結局残った作業もそのまま処理を続け、次々投げ込まれる追加分も込みで終わったのはちょうどお昼になったころだった。


所長とシスターは学友である。

連邦最高の教育機関であるアイリスバレーで青春を共に学問に費やし、それぞれの道を歩むためと卒業と共に疎遠になった。

以来、所長は故郷のこの都市で医師として経験を積み、順当に才能と努力に見合った地位を得ていった。

鍛造時の怪我、採掘作業による疾病、それ以外の些細な傷病、どれも満足に診察という自負を身に着けていた。


先代のシスターが引退し、新しいシスターがやって来ると噂になった頃、彼女には中央診療所への栄転を決まっていた。

先代は老いてなお穏やかで、所長となる前の彼女にもよく接してくれていた。

信心が薄いにも関わらず教会と近い立場を保たないといけない診療所職員としての苦悩を理解し、支えとなってくれていた。

そんな先代シスターの引退は悲しく、それが同時に次代のシスターへの軽蔑と不満を生み出していた。

『彼女と同じ懐の深いシスターがそう何人もいるだろうか』

友人の友人特有の、ある種の頑なさを思い出しながら、彼女はその日を迎えた。


『ねえ、クウェル!私シスターになって戻って来たよ!えへへ』


都市の長にあるまじき底の抜けた明るい声に、彼女の不安は全く別のものへと置き換わっていた。




=================




休憩前に頭の中に残った仕事の残滓を振り切るために所内を散策した後、彼女は自室の前まで戻ってきていた。

そのままいつも通りドアノブを捻り、いつも通りに肩で木の戸を押し開けた。

そして、いつものように室内を一瞥し異変に気付く。


窓が開いている。

棚が荒らされている。

積んだ書類は乱暴に改められて、救急箱は蓋が壊されていた。


何より不気味なのは、この暴挙を働いた存在の影も形も見えないことだった。



「動くな」

「っ……」



土の匂い、皮脂の匂い、目に染みる不愉快な匂い。

背中には針のようなものがチクチクと刺さり、いつの間にか片手は極められて爪が食い込んでいた。

首筋には冷たい感触、それは実態以上に感覚に深く食い込み、一つの文字を浮かび上がらせる。

───死、経験もないのに覚えはあるその概念を。


生存を求めて彼女の脳は五感を研ぎ澄ませる。

見えるものは変わらない。相変わらず荒らされた室内が広がっている。

耳元では低く浅い息、そして遠くに聞こえる日常の営みの音。

鼻は利かず、手足は動かしたくない。

唯一残ったものを頼りにすべく、彼女は決死の覚悟で未だ刃の当たり続ける喉を動かした。



「……目的は、薬か?」



感じる雰囲気が僅かに変わった。

論理的に説明できないその感触を、頼りにもう一度五感と思考を整理する。

まず、相手は獣人。

彼らは隠密行動に長けている。だから誰にも気取られず所長室に侵入できた。

荒らされているのは書類よりも棚や箱。瓶や紙包みの位置が滅茶苦茶になっている。

昨夜、彼らは教会を襲撃し、どうも目的を達成したらしい。

詳細は聞いていないが、恐らく聖女を誘拐したのだろう。でなければティーレが教主を叱責するまでにはならない。これは直感だった。

しかし戦闘が起こったということは、その分怪我人が出たということ。

治療用物資の確保。それがきっと自分を拘束している者の目的。


所長は平静を装い、視線を真っすぐに呟いた。



「……容態を言え」

「なぜ?」

「私は医者だ。病状が分かれば薬を処方できるし、怪我の状態が分かれば手当の仕方を指示できる」

「……」



棚の荒らされ具合、逃亡ではなく潜伏を試みていることから、まだ彼は目的の物には達していない。

つまり単純な包帯や消毒薬では足りないのだろう。専門的知識がいる。

少なくとも彼はそれを持っていない。あるいは伝えられていない。



「……熱、吐き気。咳は無い」

「他には?」

「他……」



足りない。今のままだと風邪でも何でもありになってしまう。

おためごかしで適当に鎮痛薬でも処方すれば助かるんじゃないか。彼女は一瞬そう考えた。

病人相手におためごかしするぐらいなら自分の舌を噛んで死ぬ。刹那の考えをすぐに蹴り飛ばした。



「口……、いや顎が痛いらしい」

「……他」

「目が充血……してたらしい。俺は見てない」

「見てない?」

「看病してるのは他のやつだ。俺は遠くから見てただけだ」



関節部の傷みの原因は大きく二つ、壊れてるか、毒が入り込んでいるか。

外傷があるなら薬より包帯だろう。それで済むなら私はこうなっていない。

目に充血。原因は無数にあるが、間接に入り込んだ毒が怪しい。


───所長の思考は流れるように一つの病気にたどり着く。

それに伴って彼らの現状が自ずと浮かび上がってきた。

想像が事実なら、彼らの状態は悲惨と言ってもいい。

しかしそれを確かめる術は無く、それを解消してやる義理も無かった。



「左の棚一番下の棚。大きい瓶の薬は匙一杯を清潔な水で溶いて半日に一回飲ませろ。ラベルの貼ってある瓶は塗り薬だ。清潔な布に薄く塗って張り付けろ。包帯はその下の戸棚にストックがある。好きなだけ持っていけ」

「……なぜ?」



何故。

努めて冷徹に、簡潔に伝えた指示の返答に込められた意味が彼女には分からなかった。

だから彼女は適当に答えた。



「私は医者だ」

「……誰にも言うな。常に見張っている」

「そうかい」



所長の首筋に当てられていた冷たい気配が消えた。

次の瞬間には手首は解放され、不愉快な匂いも掻き消えていた。

瞬きする間に侵入者は指示通りの品を物色し、もう一度目を開いた時には部屋に入って来た時と同じ状態に戻っていた。

窓が開いて、棚が荒らされ、そしてそれをした者のいかなる痕跡も残っていなかった。


所長はその場にへたり込む。

なんだかやかましいと思ったら、自分の呼吸と心臓の音だった。


幾何かして冷や汗を拭いきった彼女は立ち上がる。

時計を見れば時間は5分も経っておらず、しかし疲労感は今日の押しかけメンタルケアを遥かに凌駕していた。

纏まらない頭で次にやることを整理しようとする。

まずは部屋の片付けだろう。その後に昼食を摂って、それから、



「無事か」

「ひゃいぃっ!?」



普段の所長の佇まいからは想像もできない声が飛び出した。

勢いあまって再び転んだ彼女が体を起こすと、部屋と廊下を隔てる敷居の前に立つ大きな影があった。

純白のローブに身を包み、厳格な顔で所長を見下ろすのは、この都市に滞在している教主そのものだった。



「……外傷は無さそうだな」

「きょ、教主様、でしたか……。いったいどうしてこんなところに?」

「獣人の気配がした。ここにいたのだろう?」

「……まあ、はい」

「どんな奴だった。目的は。逃げた方向は」



至って普通の尋問だと思った。

獣人が侵入して、あわや責任者が殺されるかもしれなかった状況に対しては淡泊すぎると感じた。

彼の表情は全く変わらず、その佇まいから何かを読み取ることはできない。

そう考えると、なんだか無性に腹が立ってきた。

だから所長は本当のことを述べることにした。



「分かりません。何も」

「……」



彼の目に明らかに失望の色が浮かんだのが分かった。

それは彼女自身にではなく、彼女が答えを提供できないことに対してだと分かっていても、その冷たい視線は人の心を傷つけるのだと所長は思い知った。

だが事実として、彼女は侵入者の人相を見ていない。

目的が本当に薬だったのかも本人に確かめたわけではない。

逃げた方向だって見えやしない。

それに何より、



「患者のプライバシーは守られるべきでしょう?」

「……ふむ」



意図せず苦し紛れのようになってしまった捨て台詞を意に介す様子もなく、教主は部屋の中に脚を踏み入れた。

そして荒らされている箇所をあちこちいじり、特に何かを言うことも無くさっさと部屋から出た。

あまりにもやる気の感じられないその背中に所長は思わず声をかける。



「……何も、聞かないのですか」

「何も知らないと言ったのは君だろう。それに部屋の状況から十分情報は得た」

「痕跡が何かありましたか」

「無い。彼らの隠密技術は凄まじいな。毛の一本も落ちていない」



言葉を失った所長に構わず、教主は続ける。



「だがこの部屋から包帯と鉱毒薬がごっそり、そして抗生物質が一部無くなっている。君が処方したんだろう」

「……それは」

「状況と君の信念、そして残してくれた手がかりに免じて不問にしよう」



再び絶句。

まるで彼はその場にいたかのように当時の彼女の思考を、行動を、ただの一瞥と簡単な見分で言い当てた。

その得体の知れなさに、所長の背にはまた別の悪寒が走る。



「君の医師としての信念に礼を言おう。ありがとう」



表情一つ変えずにそういうと、彼はさっさと去っていった。

所長はしばらく動けなかったが、しばらくして腹が空いたのを思い出すと、窓だけ閉めて部屋を後にした。

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