第20話 敗戦の中央教会
「今日は月が綺麗だな〜」
「なんだ急に」
「いいだろ。門番なんて暇なんだから歌っても」
外壁に備え付けられた門は、常に騎士の見張りの下で運用されている。
それは皆が寝静まる真夜中でも例外ではなく、微かなランタンの明かりを頼りに二人の騎士が門を守っていた。
「それより……市街の方が騒がしくないか?」
「侵入してきた獣人が暴れてるんだろ。教主様も団長もいるから大丈夫だって」
「全く……あれ」
「どーしたー?」
「……何か、来てる?」
「はぁ?」
一人がくぎ付けになっている視線の先へ、もう一人も視線を向ける。
見えたのは小さな黒い点。
しかしよく目を凝らせば徐々に大きく、否、近づいてきているのが分かる。
一直線に、一心不乱に、一陣の風のごとく、こちらへ突っ込んでくる。
「───っ、こ、このままだとぶつかるんじゃ……!」
「はぁ!?どうする、逃げるか!?」
「いやもう目の前──────」
二人の騎士はパニックを起こす。
真っすぐ突っ込んでくる脅威。
それに対して彼らが為す術はない。
瞬きの間に迫る圧倒的な質量に彼らは思わず目を瞑ってしまい……
「……」
「……」
「……あれ?」
「アレ、どこ行った……?」
それは、まるで彼らの幻覚だったのかのように姿を消していた。
翌朝になれば、堀のすぐそばに地面を何かが抉った痕を見つけられたかもしれない。
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夜の帳を割くように屋根の上を疾走する影があった。
凄まじい速度で次々に屋根を飛び移るも、その跡に音は全く残らない。
真っすぐ中央教会へと向かうその影は勢いよく地上へと飛び降り、灯りの下にその姿を晒した。
象徴たる白いローブを脱ぎ捨て、黒いインナーを露わにした教主の姿を。
「状況は……───ッ!」
教主の目に飛び込んできたのは、石畳の床に黒い水溜りを作って沈み込む二人の兵士の姿。
周辺に充満する鉄の匂いから、死の気配が色濃く立ち込める。
虚ろな眼には何の景色も映ることなく、自らの末路すらも見ることはなかったのだろう。
「……誰か!誰か他にいないか!」
大きな叫びに呼応するように、固く閉ざされていた教会の正面扉がゆっくりと開いた。
その隙間から、この教会を統括するシスターの絶望にまみれた顔が覗く。
「きょ、教主様……お戻りになられたのですね……」
「シスター・ティーレ!!ハドリアルは!?」
「聖女様とケイシア様は脱出して……きっとその援護に……」
「……あの気配は近くにない、徹底して聖女様しか狙っていないのか……!」
「そ、それに……その、お二人は……」
真っ青な唇から零れるような声は、教主の足元にいる二つの死体を指す。
長く平和だったこの邦において、生々しい死を目の当たりにすることは滅多になかった。
それが、都市の守りを担うシスターならなおさら。
だが、教主の反応はまだ熱に満ちている。
「まだ間に合う!!奇跡の経典は持っているだろう!」
「えっ!?は、はいぃ!」
「26章95節、準備急げ!」
血気迫る指示に、シスターは慌てて礼拝堂の奥へ飛んでいった。
教主は二つの遺体を礼拝堂に担ぎ込み、寝かせた遺体からその装備を手早く外していく。
致命傷はどちらも首、抵抗する間もなく差し込まれた刃が彼らの頸動脈を絶った痕が残る。
まだ温かい体から、まだ少しずつ命の残滓が赤くこぼれ続けていた。
教主の帰還を聞きつけて、比較的無事な騎士が次々顔を出す。
しかし、これ幸いと教主に指示を飛ばされ次から次へと各地へとお使いに走らされていく。
食堂で塩水を作る者、裁縫道具を物色する者、その場で一心に祈りを捧げるように言われた者も居た。
彼らは、意図の分からない指示にも素直に従った。
そうして準備は整っていく。
「……教主様」
「戻ったか。報告は後にしろ」
金属の軋む音と共に、甲冑の騎士が教主の下に歩み寄る。
その肩には誇りではなく消沈と憤怒が乗っていることが、目を向けずとも分かる。
それでも教主は淡々と接した。
「ケイシアと聖女様が攫われました」
「そうか。団を再編成、余裕があれば周辺の巡回に───」
「貴方があれだけ大切にしていた聖女様が攫われたと言っているのです!!!」
教会を揺らすほどの怒号に、全員の動きが一瞬だけ停止する。
だが教主の準備する手だけは止まらず、それを見て他の騎士や職員も少しずつ元の作業に戻っていく。
銀鉄で固めた手が傷だらけの背に伸びた。
蹲る体を無理やり起こし、皺の入った顔を正面に向かせ、その大きな体をこれでもかと揺すぶる。
老爺の目は冷たく、それが余計に彼の火に薪をくべさせる。
「どうしてそんなに落ち着いていられるんだ!!今すぐに追いかけないと逃げられてしまうじゃないか!!」
「手は打つ。今は成すべきことを成せ」
「成すべきこと?そんなの今すぐ彼らを追跡───」
地響き。
立て続けに鳴った大きな音に、たまらず大勢が教会本堂へ集結する。
そこで彼らが見たのは、教会正面扉に上下逆さでめり込む甲冑の姿だった。
それをすぐ傍で教主が見下ろし、体勢を戻そうと藻掻く甲冑に対して何事かを呟いている。
「獣人は教会の内情どころか守護天使についても熟知している。急ごしらえで追跡しても撒かれるだけだろう」
「ぐ、う……」
「逸る気持ちは痛いほど理解している。お前が自身の無力さを噛み締めているのも。だからこそだ」
彼は甲冑の兜を掴み、強く言い含めた。
「成すべきことを成せ。私が全て知っている」
「教主様!準備、整い……きゃぁああああああ!?」
「……分かった。こちらももう終わる」
「えっ、は、ハドリアル様は……?一体どうして……?」
「久しぶりに体を動かして頭が湯立ったらしい。しばらく冷やさせてやれ」
「は、はひ……」
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銀の針を砥石で研ぎ、蜜蝋燭で先端を炙る。
塩水で洗った手で地下で保存された絹糸を通した。
遺体の傷を手早く縫合、傷口から遠い血管から生理食塩水を注入し、生きていた頃の状態に近づける必要があった。
それこそが、『復活の奇跡』の条件。
『私の祈りは空を超え、遠き座へと頭を垂らす』
シスターの声が、低く、薄暗闇へと響き渡る。
『在りし罪は彼の星に、かつての巧は此の指へ』
『零れた水を掬い上げ、毀れた器へ注ぎ込もう』
奇跡とは、人が神へ捧げる信仰への対価。
それは本来戦いのためではなく、人の苦しみを掃うためのものだった。
『天にまします極光よ、この祈りを導きたまえ』
故に、奇跡の使い手として、『シスター』以上の存在はありえない。
慈しみ、悼み、祈ることにおいて、彼女らの右に出る者はいないのだから。
『───守匿顕現-蛇の腕より流るる癒血』
祈言に応えるように、ほのかな光が空間を満たす。
二つと一人を見守る誰もが胸の前で両手を組み、一心に神へと祈りを捧げる。
それは教主すらも例外ではない。
自らの掌を握りつぶさんばかりに力強く祈り、成功を、成就を願う。
しばらくの間、静寂がその場を支配する。
いつしか誰かが気づくだろう。その場を押しつぶす静寂に抗う音を。
小さく、微かに、石畳を割る小さな花のような、呼吸音を。
「……お、おい。そいつら、息してないか……?」
「…………マジだ」
「成功、したのか……!」
教会が死への勝利に沸き立つ。
ある者は泣き、ある者は腕を振り上げ、青ざめた雰囲気へ一様に血が通い始める。
別室で休んでいた騎士団長も、その盛り上がりを耳にして一先ずの安堵を得ていた。
跪いて祈っていた教主はすくりと立ち上がり、何事も無かったかのようにその場を後にする。
ボロボロの服も、顔に刻み込まれた疲労もそのままに去ろうとする彼をシスターは慌てて静止した。
「待ってください!教主様も少しお休みになられるべきです!」
「まだしなければならないことは多い。自分の体力もきちんと加味している」
「で、ですが……」
「君こそ休みなさい。今の奇跡の対価として体に負荷がかかり始める頃だ」
教主は何処へともなく歩いて行った。
行く先を告げることも、振り返ることも無い。
シスターは、その後ろ姿を黙って見つめるしかできなかった。
まるで、彼の生き様そのもののような、その姿を。




