第19話 南部教会へ
左右から同時に襲いくる獣人をかわし、その銀刃を弾き、止まることなく走り続ける。
逃亡に感づいたのか飛び交う影の数は時間を追うごとに増していき、だんだんと歩みに纏わりつく。
「んもう、数多過ぎ!!何がっ、多くて10人っ、よっ!嘘つきっ!」
教主の目算は大きく外れていた。
だからといって、その責任を問う発想は彼女には出てこない、
そんな隙すら与えられない。
切りはらう、突き通す、ケイシアの振るう槍は威力も精度も申し分ない。
それがたとえ片手での扱いで、肩には重荷を担ぐハンデを背負っていたとしても。
だが、手ごたえが無い。
切っ先は空中で遊び、それを取り戻すために余計な力を消費させられる。
彼女がいくら優秀とはいえ、その力も無尽蔵ではない。
だんだんと額に汗がにじみ、槍が滑り、息が上がる。
「……っ、キツ……」
南部教会までは残り数㎞。
だが、その歩みは止まろうとしていた。
革鎧のあちこちには鋭く切り裂かれた痕があり、肌にはかすり傷から血がにじむ。
ケイシアは聖女をそっと床に降ろし、自分はその前に立って壁の間に彼女を隠す。
振り返ると、夜の闇より暗い影が無数に連なり、二人の少女を狙ってにじり寄っていた。
「作戦変更……こんだけ釣って来れたなら、そのうち中央から援軍が来るはず……」
ケイシアは震える手に力を籠め、銀槍を握り直す。
肩で息をしながらも声を出すのは、疲弊した状態で考えを纏めるための無意識の反応だ。
彼女は横目で、横たわる聖女を見る。
激しい逃走に巻き込まれて疲弊しており、苦しそうに呻いている。
───こうなったのは自分のせい。もっとスムーズに終わる予定のはずだった。
これ以上、苦しい思いはさせられない。
ケイシアの目に光が灯る。
「寄ってたかってうざったい……、全員纏めて相手してあげる!!」
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「う、うっ……」
聖女は、胡乱に目を開く。
石畳に転がされた体はあちこちが痛み、服のあちこちが砂で汚れている。
意識が無い間に振り回されたせいか、頭痛も止まらない。
耳鳴りの向こうから何かがぶつかり合うような音が聞こえ、その耳障りな音が彼女の意識をより早く引き戻した。
「確か……獣人に、襲われて?……ケイシアさんは……!?」
脂汗を滲ませながら、聖女は顔を上げた。
そこには、髪を振り乱し、槍で体を支えながら、多数の獣人相手に奮戦するケイシアの姿があった。
街灯の微かな明かりでもはっきり判るほど傷だらけで、動きも教会の中で見せたものとは程遠く、ぎこちない。
それでも気迫はむしろ増して、聖女が起きてからも彼女に凶刃の一切を近づけなかった。
傷だらけのケイシアの体がびくりと震える。
次の瞬間、夜闇を火花が彩った。
蠢く獣人の影が目にも留まらぬ速さでナイフを振るい、ケイシアがそれを正確に弾いた。
そのことを聖女が理解する間に、もう2度、火花が宙を舞った。
壮絶、としか形容できない。
ケイシアの体は槍の一振りごとに大きく揺れ、いつ倒れてもおかしくないほど不安定だ。
それなのに攻め手が緩む気配はない。むしろ連携を強め、火花の散る頻度も上がる。
彼女を通して向けられる座った視線、飛び交うのは鈍く光る刃。
殺しのための訓練を積んだ精鋭が何十人も、年端もいかない自分たちへ命を賭して向かってくる。
聖女はここで初めて理解した。
己に向けられる純粋な殺意というものを。
「大丈夫」
悲鳴も上げられない少女に、少女騎士は目を向けず一言だけ呟いた。
あるいはそれは聖女の幻聴だったのかもしれない。
絶え間なく襲い来る攻撃を捌く金属音が響く中で、微かな呟きが聞こえるはずがないからだ。
それでも確かなことは、ケイシアは自身の勝利を疑っていない。
それは、いくら傷ついても全く揺らぐことの無い小さな背中が雄弁に物語っていた。
また影が襲う。
槍を構えた少女は動くことなく、その動きを見極める。
手負いのせいで受け身にならざるを得ない。
首、腹、足、守り切れない急所を目掛けて凶刃が振り降ろされる。
「──────ッ!」
だが、その鈍色の軌跡を吹き飛ばすように銀の軌跡が交差する。
一度目は攻撃を防ぎ、二度目の反撃でその茶色の毛皮を切りさく。
真っ向から速さ勝負と言わんばかりの突進。
槍を構えていない左後方から滑り込ませるように突き出されるナイフ。
息を合わせた二人同時の挟み撃ち。
投刃の援護が少女の命を狙う。
息の合った連携はまるで大きな獣の爪のよう。
一人二人切りさかれた程度では止まることはない。
(ケイシアさん……!!)
少女騎士は一歩も引かない。
どれだけ速かろうと。
どれだけ死角を突かれようと。
どれだけタイミングを合わせられようと。
どれだけ邪魔が入ろうと。
鍛えた体、磨いた技、培った教え、全てを振り絞って槍を振るい続ける。
月の光はスポットライトに。舞う汗と火花はアクセサリー、乱れた赤い長髪と共に激しく踊る。
その目には、先ほど話した時のような優しさも、快活さも無く、ただ研ぎ澄まされたもので固められていた。
「───ガキ一人に何をこんなに手こずってやがる」
ドスの効いた低い声が、戦場の空気を冷たく一変させた。
次の瞬間、ケイシアの姿を月光ではなく影が覆う。
大柄な体は腕を高く振り上げ、まるで空を丸ごと担ぐかのような姿勢を取っていた。
聖女は強い衝撃を感じた。
怯んで目を閉じるが、体に痛みは無い。
恐る恐る目を開けると、目の前で奮戦していた少女の姿は無く、腕を下ろした大男がゆっくりとこちらへ歩み寄っている。
彼女はどこか、体を乗り出して辺りを探すが、それはすぐに見つかった。
聖女のすぐそばで、槍を手放してぐったりと倒れこむ姿が。
「ケイシアさんっ!!!!!」
考えるよりも先に体が動いた。
そばに這いより、傷だらけの彼女を揺すり起こす。
だが目覚める気配はなく、返って触れる手のひらに違和感が纏わりつく。
聖女が自分の手を見るとその表面は何かでべっとりと濡れ、街灯の明かりで僅かに照っていた。
もはや、歯が鳴るだけで悲鳴も出ない。
「すみません、リーダー。このガキだけやたら強くて……」
「チッ……。情報通り、まともにやり合うだけ無駄ってことか」
部下と一言二言交わした大男が、ぎろりとその視線を少女らに向ける。
へたり込む聖女が初めて向き合う、指向性の悪意。
今まで触れてきた人たちがいかに暖かかったかを思い知る、冷たく、鋭く、恐ろしい一瞥だった。
「───……!」
「お前もこいつみたいに手を焼かせるのか?なんとか言えよ。なぁ」
吹雪に吹き付けられたように、聖女は固まって動けない。
毛むくの鼻先はすぐ目の前まで迫り、その牙の色すら見えるほどだ。
傲慢で、邪悪で、乱暴な男。
漂う不快な香りが、純真無垢な聖女の心に一滴の染みを作った。
「───どうして」
「……あぁ?」
「どうして、こんなことをするのですか」
「……」
「どうして、なんでっ!私たちが一体何をしたというのですか!」
「おい」
「……ウス」
獣の男は答えない。
代わりに取り巻きに一言合図をするだけだ。
「神は、全てをご覧になっています!!こんな狼藉を働いた貴方たちには必ず……!」
「知らねぇよ」
「っ!んんっ!?」
衝動のままに吐き出した言葉はかぶせられたずた袋に遮られた。
辛うじて見えていたものまで見えなくなり、聖女はパニックに陥る。
だが非力な彼女が暴れても大した妨害にはならず、軽々と持ち上げられていくのが分かった。
「こっちはどうします?」
「いらねぇっちゃいらねぇが……」
「リーダー」
「あぁ?」
「教会に残してきた連中が引揚げてる。多分追手が───」
微かな抵抗をする体力も尽きかけたころ、聖女は袋越しに不思議な音を聞いた。
まるで、小さな星同士がぶつかり合い、それが集まって大きな流れを構成しているような音。
物体の接触では再現できそうにない楽奏の存在は、彼女の心中に光を生み出す。
編まれた袋の隙間から、光芒が差し込む。
「……ようやく追いつきました」
石畳を砕く音が響き、金属同士が擦れあう音が鎧の動きを耳に伝える。
その声は、いつか聞いた騎士団長のもの。
護教騎士団最強の矛にして、奇跡の申し子が助けにやって来た。
「……赤い方もかつげ。考えんのは後だ」
「了解」
「神の遣いなら空も飛べますってか?ふざけやがって」
「団長さん!ケイシアさんが!」
「……お二人をどうするつもりですか」
袋に遮られた声は届かなかったが、団長の目には担がれた二人の少女がしっかりと移っていた。
彼は銀槍を獣らに向け、問いかける。
だが、彼らはそれにまともに取り合うつもりは無いようだ。
「全員行け」
彼の一言で、潜んでいた影が一斉に起き上がった。
壁を這い、地面を這い、一目散に飛び掛かる。
騎士の槍は光を纏い、さながらその場だけ白昼かのごとく辺りを照らし出す。
極光が、向かってくる影へ振りぬかれる。
「この程度で、我らが威光にその汚い爪を立てられると思うな!!」
影を切り裂き、刃を砕き、騎士は進む。
歩みを止めようと攻勢は勢いを増し、騎士の行進もまた歩調を強める。
無数の閃激を無数に捌き続け、彼の槍が影の一つを縫い留めた。
くぐもった呻き声とむせ返る咳、光を失いつつある目が見つめる。
やっと一人。騎士は突き立てた槍を抜き、囚われた少女らの方へと向き直る。
「……バァカ。最初からここには、オレだけさ……」
孤独に立つ騎士は、その嘲笑に反応することができない。
無数にいると思っていた相手が、今仕留めた一人の演技でしかなかった、その衝撃に囚われていた。
勢いよく声の下を振り返るも、既にそこには誰もいない。
時間にすればそう長いことではない。
騎士団長に続いてやってきた応援が到着する足音が響いていた。
「団長!状況は……」
「……逃がした」
「っ、そんな……!いえ、まだ遠くには行っていないはずです。おい、手分けして───」
「……各員、一度教会に帰還せよ」
「で、ですが……」
「命令です。教主様を、待ちましょう」
「……はい」
甲冑の男は折れんばかりに槍を握りしめる。
「ケイシア……」
呟いた声を聞き届けるものは、何もない。