第16話 中央教会宿泊室/都市東部平原
「聖女様、寝ないの?」
「いえ……どうにも、落ち着かなくて」
「ま、こんなピリピリするのってあたしらも野宿する時くらいだしねー。」
「少し、お話ししませんか?ホットミルクがまだあるので」
小さな手が透明な瓶を傾けると、陶器のように滑らかな乳白色がコップの中へ注がれる。
もう湯気は立たないが、微かな温もりは手の中に確かに存在する。
聖女はコップをケイシアに渡す。
渡されたそれを少しだけ飲むと、ベッドに腰かけて足を投げ出した。
「じゃあ、何の話する?」
「えっと、ケイシアさんのお話が聞きたいです。まだ子供なのに、騎士団で働いてらっしゃるんですよね」
「そうだねー。他にあたしみたいな子は……まあ、一人だけいるけど」
「他にもいるんですか?」
「ほら、あの子。戴冠式で一緒に……あ、これ言っちゃダメなやつなんだっけ。やっぱごめん、これなし!」
「あっ、はい……」
戴冠式で思い出すのは赤い髪のケイシアの他には紫の髪の少女がいる。
低めの声とよい恰幅が印象的な少女だが、訳ありげなことを察して聖女はそれ以上踏み込まないことにした。
「まあまあまあ、あたしの話ね。騎士見習いの生活とか聞く?」
「それよりも騎士になろうと思ったきっかけが聞きたいです!女性の騎士ですら珍しいのに、子供のうちから志したのには何か理由があるのですよね!」
「おおう、食いつきいいなあ……。でも、騎士になる理由なんて魔物をぶっ……飛ばす、したい以外にあるのかなぁ?」
「魔物……」
「見たことない?見た目はほとんど普通の動物と同じなんだけど……」
ケイシアの目の色が変わる。
深く、暗く、ここではないどこかを見つめるように。
「でも、見ればわかる。あのおぞましい殺意が、侮蔑が。白い結晶なんて目に入らないくらい、あいつらが全身で人間を憎んでることが」
その気迫に、少女の胸は潰れそうになる。
語る言葉には実感が篭り、全身からはまるで黒い靄が沸き立つよう。
彼女の語るその憎悪とやらを、まさに彼女自身が体現していると言っても過言では無かった。
しかし、その暗闇も瞬時に晴れる。
「とにかくあいつらは碌でもないから!だから教会は壁とか騎士団とかで頑張って対策してるんだね」
「そ、そうですね!日夜頑張ってくださる騎士の皆様には頭が上がりません!……あら?」
「どうしたの聖女様」
「壁の外には魔物がたくさんいるのですよね」
「そうだよ?」
「魔物は人を襲うのですよね」
「もちろん」
「では……馬車での移動は……?」
「普通、騎士とか傭兵の護衛無しではしないけど」
「で、ですよね!?」
「どうしたの、急に」
馬車は都市間移動のほぼ唯一と言っていい手段である。
魔物の遭遇に対処できるよう、戦闘能力のある人員を雇うか教会に宛てがってもらうことで、ようやく長距離の移動が可能となる。
列車も空輸も実現はまだ先とされており、魔術の類による転送では大きな質量には対応できない。
そんな事情はさてき、混乱する聖女の頭の中ではこの都市にやって来るまでの道程が再現されていた。
のどかな平原、波乱のない旅路、ともすれば眠ってしまえそうなほど安全な道のり。
「来るときの馬車には教主様と御者の方以外乗っていませんでした……。あっ、もしかしてあの御者さんがものすごく強いとか?」」
「いやー……そんな御者さんは聞いたことないかな」
「い、いえ。落ち着いて考えてみれば、事前に魔物から身を隠すような仕掛けがあったというだけですよね」
「そんなの多分無いんじゃないかな」
あっけらかんと切り捨てる言葉に、聖女は面食らう。
「どうして?」
「だって……」
そして、ケイシアは満面の笑みを浮かべる。
「教主様なら、魔物が出たらすぐ外に出て全員ぶん殴って殺すから!」
「……ぶ、ぶん?」
「そう。あの人は鞭も剣も槍も弓もなんでも上手く使うけど、本気で戦うときはいつも素手なの」
「い、いえそうではなく、いえ、それも何かおかしい気がするのですが。あ、あの御方はもうご高齢で……」
「安心して、聖女様。この邦で一番強いのは、間違いなくあの人だから」
「騎士団長様よりも……?」
「うん」
聖女の理解は追いつかない。
彼女にとっての教主とは、何でも知っている先達であり、教会の威光を背負う顔役であり、確かに巨体ではあるが、心優しい大木のような存在だった。
武器を振るう姿も想像こそできるが、素手で、なおかつ数多の敵相手に無双する姿など想像すらできない。
彼女は思い知る。
自分に向けていたあの穏やかな微笑みも、人々を導くときの凜とした横顔も、彼のたった一側面でしかなかったのだと。
「まあ、あの人が武器を持たずに戦ったのって大征伐が最後だし、それで武器を投げ捨てるならよっぽどだよね」
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迫り来る拳に合わせて大剣を振り下ろす。
しかし、自らが両断されることなどありえないと言わんばかりの迷いのない券筋が、また少年の頬を霞める。
瞬き、次の瞬間視界を埋め尽くすのは、骨ばった大きな拳。
反射的に目を閉じて飛びのくが、回避に成功したわけではなく、ただ光翼の防御によってダメージを受けなかっただけだ。
もはや闇雲に剣を振り回すしかできない、少年はそれすらも無意味だと心の底では理解していた。
手の中の重みが急に方向を変える。振り回していた剣の腹には老爺の踵が横から突き立てられている。
(手を離したら終わる……!)
光翼を爆発させ、距離を取る。彼にとっても消耗が激しいようだ。
険しい、あるいは何かに怯えたような顔で周囲を見渡す。
一瞬でもあの姿が視界から外れていることに耐えられない。
見つけた、
「───ッ!」
「うあああああああああっ!!!」
そう思った時には既に、あの鬼気迫る表情の皺の一本すら見分けられる距離にいるのだから。
「なんなんだ、なんなんだよお前ぇ!!!」
感情に任せて大剣を振りぬく。
手ごたえは無い。叫びに呼応する声もない。
かの老爺は、拳で少年を殴りつけ始めてから一言も発していない。
少年は、自分が人知を超越した力を得てしまったと思っていた。
だからこそ節制しないといけない。人を容易く殺してしまうようでは姉に顔向けできない。
短い期間だったが、その為に懸命に力の使い方を覚えた。
その甲斐あって、倉庫襲撃の時は一人の犠牲も出さなかった。
戦い方も進化した。これなら敵などいるはずもない。
そう思っていた。
───なら、こいつはなんだ?
光の速度に易々と追い付き、死を全く厭わず猛突し、容赦なく人の顔を殴りつけるこいつは。
噂に聞く魔術や奇跡の効果なのかもしれない。少年はそれを判断できる知識を持たない。
それでも、たった一つだけ、確かだと言えることがある。言い切れることがある。
こいつは人間じゃない。
「きッッッしょいんだよこのバケモノ!!!!」
衝動に任せた大振り、間違っていると分かっていても止められない。
地面に押し付けたエネルギーが反射して少年の体が浮く。
その隙を咎めたのだろう、背中を目掛けて蹴りが飛び、少年の体がもう少し浮き上がる。
空中では体の制御が利かない。通常なら。
「くそッ……!!!」
勇者の力を手にした少年は、ありったけの力を放出して光を放ち、蹴られた方向から距離を取った。
これこそ彼の機動力。空を自由自在に飛び回り、地上を這う人けらなど意に介すことなどない。
惜しむらくは、彼が人である認知を捨てきれていないこと、そしてその思考を読み切られていること。
飛んだら、着地する。その当たり前に縛られていることが、少年の致命傷となった。
「がっ───」
全速力の飛翔を軽々追い越した教主が自分の上に居ることを、少年は理解した。
それが自分の体と垂直に、全体重を乗せて自分の背中を踏みつけたことを。
その重みに耐えきれず、光翼もろとも大地で体をすりおろされていることを。
「っぁあああああああああ!!!!!!!」
戦闘開始から初めて感じる痛み。
土が視界のすぐそばを弾けていき、小石が服の繊維の一本を割く。
逆くの字の無理な体制のまま数10m滑走し、勢いそのままに地面を跳ね回った。
力が残っていても、受け身を取ろうという意思が既に彼には欠けていた。
「強力な衝撃吸収機能を持つとはいえ、力場の形を変形するほどの力には本体の方が耐えないか」
冷淡な分析の言葉が夜風に呑まれて消えていく。
力なく横たわる少年の体は変わらず輝いて、体に付いた傷も大したことの無いように見える。
しかしその心はすっかり憔悴しており、近づく脅威に対して全くの無防備のままだった。
「これは過ぎた玩具だ。没収する」
「や、め……」
教主の手が大剣に伸びる。
体に力を入れねば奪われる。
(でも、こいつ相手に何をやったって無駄なんじゃないか……?)
「助けて教主様っ──────!!!!!」
「っ!?聖女様!」
響き渡る絶叫。教主は慌てて周囲の索敵を行った。
しかし、あたりには人影一つ存在しない。
悲鳴の発生源も、それに襲い掛かる何者かも、そして、
足元にいた少年すらも。




