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第10話 スラム某所に差す光

『申し訳ございません……!!私が付いていながら……』



青い顔をしたシスターが必死に頭を下げる姿を思い出しながら、教主は堂々とスラムを歩いていた。

横切る人々は彼を遠巻きにして怪訝な顔で睨みつけたり、そもそも視界に入れないようにしたりと良い反応は得られていない。

朽ちかけの木で辛うじて風を塞いでいるだけの扉、風化が進んで触れるだけで崩れそうな壁、破れた布をどうにか寄せ集めて寝床とする人々。

ずっと同じ路地を歩いているように錯覚しそうになるほど代わり映えのしない道の数々を、彼は迷いなく行く。

眉一つ動かすことのない鉄面皮の裏で、彼の心が裂けんばかりに痛んでいることを知る人物は少ない。

歯を食いしばることすら堪えながら、優しい言葉も暖かい手も差し伸べることを抑えながら、悲壮な人々を跨いでいく。


教会を拒んで自ら窮状に身を置かざるを得なくなった彼らに対して、それらの行為は侮辱に他ならない。

不信の理由は様々有る。

ある男は、魔物の襲撃に教会の支援が間に合わず村ごと片腕を失った。

ある女は、教会の課税に追い立てられた夫が、罪に手を染めて破滅することを見ていることしかできなかった。

ある子供は、そんな大人たちに虚実を吹き込まれ掴むべき救いを見失ってしまった。

教会の信用を彼らに分け与えられなかったのは、巡り巡って彼の責任になる。

そして失った信用を取り戻すのは、彼の千策と万知を以てしても、途方もない時間がかかるのだ。


彼の背に刺さる無数の空虚な視線こそが、今彼が負うことのできる数少ない罰の一つだった。



……



そう長いこと歩くことはなく、無造作に置かれた箱の影に白い装飾が見えた。

うずくまって肩を震わせ、膝に顔を埋めて嗚咽を漏らす聖女の姿だった。

一見して外傷は無い、体調も正常、つまり傷ついているのは心だけ。

自分に深く影を落とす存在がいることにも気づかず泣き続ける少女に、膝を付いた老爺は優しく語りかける。



「聖女様。心配しましたよ」

「……っひょう、しゅ、さま」

「まずは、涙を拭いて」



ひざまづいて白いハンカチを差し出された、彼女は鼻をすすり上げながらそれを受け取った。

滑らかなシルクにある程度悲しみを吸ってもらったところで、ぽつりぽつりと内心もこぼれ始める。



「……私には、教主様のような知識や技術はございません。騎士の方々のように魔物から皆さんを守ることも、シスターの皆様のように奉仕することもできない……。ケイシアさんやモーラさんは立派に働いているのに、私は……」

「あの二人は例外ですよ。あのくらいの少女は本来、学校や手習いをしているものです」

「分かっています……。でも……でもっ……」




「目の前で苦しんでる人が大勢いるのに何一つしてできない……この無様で、どうして聖女を名乗ればいいのですか……!?」




少女は叫ぶ。

産まれて初めて、あるいは産声の次に上げた悲鳴が、活気の無い空に響き渡る。

知らなかったのだ。無力であることがどれだけ痛みを伴うことか、何もせずいられてしまうことがどれだけ苦しいことか。

聖女だなんて大層な肩書を貰ったからには、自分にも何かあるはずだと思い込むことで彼女は責務に無理やり向かい合っていた。

だが、鳥籠の外で目の当たりにしたのは残酷な現実。

傷つく人々、苦しむ人々、それを救おうと奮闘する人々、対して何もできない自分。

『聖女』が来たとて彼らの苦境は何一つ変わらない。救いだなんて口が裂けても言えやしない。



『こっちは必死にやってるのに、それを上からへらへらへらへら馬鹿なんじゃないの!!!!!』



何も反論できなかった。

必死に生きている彼らに対して微笑むことが何になるのか、自身でも分かっていないのだから。

太陽はその微笑みで万物を温め続ける。

でも、自分が微笑んだところで温まるものなんて何もないじゃないか。

枯れそうになるほど絞り出した声は、そんなことを訴えかけていた。



「貴女は存在そのものが人々救いとなると、以前に伝えたと思いますが」

「もう、そんなおためごかしで納得はできません……。神は、私に何を見出したのですか……?なぜ私なのですか……?聖女とは何なのですか……?聖女でない私に、何の価値があるのですか……」



彼女は、物心ついた時から聖女となるべくして育てられてきた。

ただ特別だからと言い聞かせられ、為されるがまま手ほどきを受け、冠を戴いた。

『なぜ私が?』

毎日のように跳ね返ってくる疑問から守ってくれるカーテンはもはや存在しない。

それは自らの無力を直視するために、取り払われてしまった。


歴代教主の偉業は、産業、文化、軍事、いずれを取っても連邦全域に轟くものである。

7代目たる現代も例外ではなく、『大征伐』を始めとして各分野の発展に多大な貢献を果たしてきた。

教主だけではない。この日常の礎には数多の人々の努力と苦悩が積み重なっている。


自分は、その日々を、彼の庇護を受け取るのにに十分な対価を捧げられているか?


言うまでもない、その答えは、もちろん──────



「聖女様」



少女の震える手が、硬く強く包み込まれる。

ほのかに冷たく骨身を感じる手、しかしその奥からは彼の在り様のように力強い血潮が感じ取れる。

恐々と顔を上げた彼女が目にしたのは、優しく微笑みかける教主の姿だった。



「そうして思い悩んでいる現状こそ、貴女に聖女の素質が備わっていることの証左に他なりません」

「……どういう、意味ですか」



教主は、しっかりと手を握り直す。

視線で射抜かれたかのように目が離せない。

自然と荒かった呼吸が静まっていき、先ほどまで胸に渦巻いていた不安が徐々に解けていく。



「自責に耐え、自らに問いかけ続けられる人間は多くありません。大抵の人間は途中で見切りを付け、別の道を模索します」

「私は、私には……聖女以外の道はありませんでした」

「いいえ。全てを投げ出して逃げ出す選択肢はありました。たとえそれが一時的だとしても、貴女は課せられた荷を下ろすことはできた。ですが貴女は、役目を告げられてから一度たりともそんなことを実行に移さなかった」

「それは……何も知らなかったから。ここに来るまでは自分の無力さなんて、絵本の文字ほどにしか捉えていなかったんです」

「知った今でも、貴女は逃げるのではなく立ち向かう方を選んだではありませんか」

「いいえ、私は……」


「『この無様でどうやって聖女を名乗ればいいのか』と、『聖女なんて私にはできない』ではなく。己が無力の改善を問う。これが立志の宣言でなくてなんなのでしょう」



「……それは」

「教育の賜物だとしても、それが身に付いたのならそれは立派な素養です。生まれ持ったものが全てではありません」

「なんだか言いくるめられている気がします……」

「では、別の角度から言及しましょう。貴女は、自分で何もできていないと先ほどおっしゃられましたが、本当にそうでしょうか」

「診療所と、炊き出しで、ですよね。診療所ではお話を聞いただけ。炊き出しは、本当によそっただけで……」

「その()()がどれほどの救いになるか、貴女には分かりづらかったかもしれません。貴女の笑顔という奉仕の成果は、彼らの笑顔という形で表れていたのですよ」

「そ、それでは何も変わっていません……!」

「変わっています。人の根源は心、魂です。そこに一注しの温もりを与えられる存在がどれだけ貴重なことか」



診療所の患者は、見えない先行きを照らすかすかな灯を得た。

『聖女様が言うのなら、もう少し前を向いてみよう』

炊き出しを手ずから施されたスラムの住民は、乾いた人生に一滴の楽しみを得た。

『生きていれば珍しいこともあるものだ』


希望の価値を測ることはできない。

代替不可能なものにそんな尺度は必要ない。



「聖女とは、生きているだけで人々の希望になり得る存在。貴女の清い生き方が、健気な志が、人々の未来を照らし出すのです」



少女の視界に光が差す。

その言葉が疑問の全てを解いたというわけではない。

それでも、その言葉こそが彼の言う『救い』であった。

それこそが彼の言う『希望』だった。


この目に映る煌々たる『光』が、自分の未来を拓いてくれるものだと理解できたのだ。





「……ですが、そこで立ち止まることは許されません。『生きているだけ』というのは、聖女として生きることを指します」

「はい……はい……」

「弛まぬこと、甘えぬこと、立ち止まらぬことです。常に───いえ、お話は戻ってからにしましょう。立てますか」



教主にそういわれるや否や、聖女は無言ですくりと立ち上がる。

もうその目に迷いは無く、いつものような穏やかな微笑みが、僅かに赤らむ目元を残して戻ってきていた。



「ご迷惑をおかけしました。でも、また大切なことを教えられた気がします」

「そうですか。……ん」



いつの間にか教主の手には、痩せたもがく男が()()()()()()

顔は聖女と向かい合ったまま、まるで勝手知ったる家財でも扱うように、一瞥もくれてやることなく彼を捕まえていた。



「痛っで、痛てえ痛てえ痛てえ!!!」

「度胸は認めるが、摺るならもっと上手くやれ」

「違えよバカ!これ渡して終わりだって本当だあ"あ"あ"あ"ッ!!」



極める力を強めながら空いた手で体を一通り探ると、取られたものは無いようで、握っていた手を離した。

つま先が浮く程度の高さから崩れ落ちた男はしばらく手首を抑えていたが、思い出したように這うように逃げ出した。

その後ろ姿を見送ると、教主は彼が握っていた紙片に目を落とした。



「あの方……手首に痛みが残らないといいのですが」

「加減はしました。それよりも……」

「なんと書いてあるのですか?」



読んでみろ、とでも言うかのように、教主は彼方を睨みながら聖女へ紙片を差し出した。

聖女の小さな両手に収まる程度のそれには、簡単な文がまるで印刷機でも使ったかのような精緻な字で記載されてある。



 神光教会 リリアル支部の教導主長 あるいは忌むべき悪魔様へ

 今夜 シデロリオ東門前広場にて ご挨拶申し上げる

 ───光の勇者より




ゴミ捨て場から拾ってきたような紙には似つかわしくない、仰々しくも馬鹿馬鹿しいその文章。

子供の悪戯と一蹴したいそれを一蹴できない事態は、教主の額に深い溝を刻んだ。

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