第八話
カレンダーを見てみれば、今日の日付は青色で記されている。つまるところ俺にとってのハッピーホリデー土曜日であるのだが、残念ながら今の俺はそれを心から謳歌できる心理状態ではなかった。
俺だけではない。水分神社に現在住んでいる七人全員が、あの日以来心から休めた日など一日たりともなかった。あんなに明るかった食事時の空気はどこかぎこちなくなっているし、あまり笑い声も響かない。時々縁と恭子さんが申し訳なさそうにしているが二人がそんな顔をする必要なんて全く無いのは誰もが承知している。悪いのは全てあの男だ。
今日の昼飯も、やはりそんなギスギスした中で摂られている。恭子さんが作ってくれたはずなのに暗い心情のせいで味を堪能できないのが正しく口惜しい。
このまま状況が変わらなければ俺たちはただ憔悴していくだけ。でもあの社長の事だ。絶対にまたここに来る。俺たちの大切な場所を、俺たちの目の前で否定するために。
そして今日。幸か不幸か、状況が動いた。
ピンポーンと呼び鈴が鳴らされて全員同時に箸を置いたのは、皆どこか予感めいたものがあったのかもしれない。
おじさんを先頭にして歩き出し、扉の磨りガラスの向こうに大柄の黒い影が見えたところで恭子さんがおじさんを抜かして前に出た。俺たちに下がっているよう合図をして一気に引き戸を開け放つ。
やはりそこに立っていたのは真新しい燕尾服に身を包んだ爺や。しかし恭子さんの姿を見ても攻撃を仕掛けてくることは無く、そのまま一歩を後退するとそのまま反転して歩き出した。意味なんて明々白々。外に出ろ、ということだろう。
従うと、境内の真ん中に一人の男が立っていた。もちろん見せ付けるように高そうなスーツを着て拝殿を睥睨しているあのおっさんは例の社長、稲葉秀一郎だ。爺やはそのまま歩を進めると社長の背後にて立ち止まった。そこが指定ポジションらしい。
俺と恭子さんがおじさんを挟んで並び拝殿を背にして社長に向かい合うよう移動する。その後ろにおばさん静流さん日向、そして縁が隠れる構図だ。
こちらの準備が整ったと見たのか、袖の下を贈る奸吏のような嫌らしい笑みを浮かべていた社長が口を開いた。
「ご機嫌麗しゅう、皆さん」麗しくねーよ。
「いつまたいらっしゃるのか分かりかねましたので、おもてなしの準備も整っておりませんがご了承の程を」
「構いませんよ。私もこんな胸糞悪い場所で飲み食いできるほど肝が据わってはおりませんので」
今日は初めから全開だな。長居すらしたくないのか社長はさっさと話を進めるように両手を広げた。
「本日は一つお願いがありまして伺った次第です」
「どういったことでしょう?」
「こちらの神社の土地を譲っていただけないでしょうか?」
そんな感じのことも予想していたとはいえ本当に口に出すとは。罰当たりだな。
当然、おじさんの返答も否だ。
「申し訳ありませんが、そのようなお話にはお答えのしようがございません。ここは神の坐します神聖な神領であって、誰のものでもないのですから」
「はて」
社長はさも驚いたように目を見開くと懐からA4くらいの一枚の紙を取り出した。
「こちらの土地は貴方の名義になっているではありませんか。誰のものでもないと言っておきながらしっかり所有しているなんて、神主様も人が悪い」
「……私はこの水分神社の宮司として、また神の使わしめとして、神のお降りになる土地を守護しているだけです。登記に書かれた名義などさしたる意味を持ちません」
はっきり言って俺にはさっぱり分からない。登記ってなんだ? 明らかに法律関係っぽいのだが、それがどんなモノなのか見当もつかない。こんなにも話が分からないというのは不安になるものなんだな。今度日向に謝るとしよう。
そんなことより、このまま法律関係に話を持っていかれたらいくらおじさんでもキツイ気がする。相手は腐っても社長だ。法に関してだったら間違いなく向こうに分がある。
しかし、なぜか社長は自分からそれを取り下げた。
「では話を変えましょう」
視線を上げ大仰な仕草で境内を見回すと、
「神社というのは何のために存在しているのです?」
こう言ってきたのだ。自らこちらのテリトリーに踏み込んできてくれたのはありがたい限りで、こちらにとって都合が良すぎるのが逆に不気味だが、法律関係の話よりも回答の選択肢を多く用意できるのも確かだ。その誘いには乗るべきと踏んだのか、おじさんも圧され気味だった気を取り直して正面から社長を見据えた。
「人々と神を繋ぐ場所として、参拝者が神に乞い願う場所を明確にするためです」
「では、人々が神に請願するのは何故ですか?」
前回対峙した時とは完全に構図が逆になって矢継ぎ早に質問をされるおじさん。胡乱な目で社長を不審に思っているようだが、おじさんは明確な答えを返した。
「神に祈願し、それにより心の安寧を得るためでしょう」
「もう少し簡単にお願いします」
「…………安心するため、でしょう」
その答えを聞いた途端――ニヤァと。罠に掛かった鼠でも見たかのように、社長は口端をつり上げたのだ。その言葉を待っていた――と言わんばかりに。
気味の悪い態度のまま、社長は懐から新たな紙の束を取り出す。
「それではこちらを御覧いただきましょう」
自信たっぷりにおじさんに渡した紙束の表紙を横から覗き見てみれば、表紙に『新都心開発企画書』と固いタイトルが踊っている。
なぜこれを渡されたのか分からず眉を顰めていたおじさんだが、それを一枚二枚と捲っていき三枚目のところで信じられないものでも見たように目を見開くと、そのまま震えだしてしまった。おじさんのそんな姿なんてこれまでに一度も見たことなく、未だかつてない恐怖に襲われた俺は慌てておじさんの視線を追う。
――地面が揺れたように感じた。
開発予定地の項だ。そこに水分神社を飲み込む範囲が示され――
「……っ」
――新病院建設予定、とあった。
また俺は同時に、どうして人が神社を訪れるか。社長がそれを訊ねた意味を悟った。
「いかがです? 私の考えたプランは。あらゆる人に受け入れてもらえる、最高のプランだとは思いませんか?」
安心の価値観を比べるつもりなのだ。過去と現代の。
「二十四時間体制の大病院です。近頃問題の産婦人科医も常に五人以上を常駐させ、それ以外のあらゆる分野の診療科も多数の医師を配置。誰もが平等に治療を受けられて命を救われる病院施設と、こんな祈っても祈っても報われる保障など何もない一宗教施設。一体どちらが現代の人にとって求められているのでしょうね」
おじさんは先ほど、人々が安心を得るために神社を訪れると答えてしまった。それは間違いじゃない。あの質問の答えはそれしかない。でもだからこそ、こちらには逃げ道が残されていなかった。
わざわざ産婦人科の話を出したのは、水分神社への当て擦りか。
「で、でも……それは、安心の種類が違――」
「違わないでしょう、何も。安心とは人が衛生的に生きていく上で不可欠な精神状態。得られる場所は違っていたとしても、それは同じ安心です」
こんな、人の心を何も分かってないヤツに安心なんてものを諭される屈辱に震える腕を押さえる。その社長に目を向けてみれば、取るに足らないものとでも対峙しているように酷薄な笑みを浮かべて平然と立っていた。
「もう必要ないかとは思いますが、これを」
言うと社長は更なる紙束を持っていた鞄から取り出すと、おじさんに手渡す。その際におじさんの腕が震えていたのを見て笑みを濃くするコイツを、本当に俺は許せない。
しかし、俺の怒りの後ろ盾であるはずのおじさんの震えは、その紙束を見て止まってしまった。何なのかと俺も見てみれば、それは――
「約五百人分の署名です。私のプランに賛同していただけた方々の」
――どうすればいい。これを覆すにはどうすればいいんだよ。
その沢山の人の名前が書かれた紙束は、破こうと思えば簡単に破けるはずなのに、燃やそうと思えば簡単に燃やせるはずなのに。しかしそれはどうしたって俺たちの手の届かないところで俺たちの存在理由を明確に否定していた。
これが、今生きている人たちの意志だってのか。
隣のおじさんに目を向ければ、既に震えは止まっていて、いつも俺たちへと向けられる笑みの絶えなかった笑い皺のある顔にも、今は何も浮かんでいなかった。ただ諦観だけが窺える無表情を張り付けている。
「お分かり頂けましたか?」決着はついただろう、そう聞こえた。
俺たちを完膚なきまでに捻り潰せた快感に満足そうに溜息をつく社長のその一言で――俺の中の何かがぷつんと切れた。
俺は知っている。こんなピンチの時、漫画やドラマみたいに都合よく助けてくれる神様なんていはしない。敬虔な宗教信者なら神の試練とかって称すのかも知れないが、神様も残酷な試練を課すもんだ。こんな乗り越えようもない試練を。
ふと疑問に思うのが、最近よく聞く外国での銃乱射事件。毎度毎度そんな事件が起きるたびに十人以上の人が死んでいる。そこで死んでいった人たちは、神の試練で済ます事ができるのだろうか。これまで生きてきた二倍三倍、もしくは四倍も生きられたはずなのにそれを無慈悲に奪われて。それでも『こういう人生だ』と納得できるのだろうか?
とまあ何が言いたいかって、祈りが報われない事もあるってことだ。
最早怒りなんてどこにもない。頭の中を巡っているのは水分神社に来てからの事。
俺はここで、多くの人に支えられ、多くの人に出会って、また多くの人に救われた。俺はここで、多くの気持ちをぶつけられ、多くの想いを伝えられ、また多くの笑顔を向けられた。それらは全て、この水分神社が結んでくれた『ご縁』の賜物だ。
それは俺の中に一つの気持ちを生み出している。今、その気持ち顕そう。
水分神社にも配祀されている少彦名神。ちょっとだけ目を瞑っていてください。
目を閉じ、開けば準備は完了。
「――禁厭の一念を通す御針 怨敵調伏!」
躊躇うことなく投げた。全力で。狙うは勿論、俺の怨敵。
一直線に社長へと向かう針。いち早く気付いた爺やが射線上に割り込んでくるが――
「うぬぅ……!」
頭を庇った腕にその針の先端が触れた瞬間、針にはありえないはずの質量で打擲されたように後方へと吹っ飛んでいった。
これで邪魔はいなくなった。俺は真っ直ぐに怨敵の元へと近づいていく。
今の俺はどんな顔をしているんだろうな。怒っているだろうか。泣いているだろうか。それとも、笑っているだろうか。まあ、どうでもいいか。
尋常でない様子で吹っ飛んでいった爺やを見て腰が砕けたのか怨敵は尻餅をついて呆然と俺を見上げている。その顔はやがて、恐怖に歪んでいった。
「今の、何だと思いますか? 実は神道の呪いの一つなんですよ。つまり、貴方が卑俗だと罵ったオカルトですね。どうです? それを実際に目の当たりにした感想は」
「ひ、ひいぃ!」
俺が一歩近づくと怨敵も尻を滑らせて後ろへ下がる。その姿のなんと滑稽な事か。
「俺の生まれた所は三輪神社と言いましてね。そこには少彦名神と大国主神という二柱の神が配祀されていました。今の呪いは『蔭針』と言いまして、少彦名神が創めた秘伝とされているんです」
そこらに落ちている小石を投げてくるが、そんな非力な投石じゃ手で払う必要もない。
「この二柱の神は禁厭や医療の神とされていまして『蔭針』も本来は医療用の呪いとして編み出されたんです。しかし三輪神社の祭神の性質により、その『蔭針』も調伏の意味を持ちました」
境内の縁にまで後退し背後にあるのは杉の乱立する山野。容易に逃げる事は叶わない。
「その祭神の名を、大物主神と言います」
「……うおおあぁ! く、来るなぁ! バ、バケモノ!」
俺からしたら、お前の方がよっぽどバケモノだっつうの。
「大物主神は普段酒の神なんですが、しかし人々が神への感謝を忘れた時、もしくは人々が悪事を働いた時、祟り神として現れます」
災厄は忘れた頃にやってくる、とは良く言ったもので、それは正しく神様への感謝を忘れた頃に大物主神が祟りとして起こしているんじゃないかと俺は思うわけだ。
きっと、目の前で醜態を演じている怨敵は神様への感謝なんて忘れて久しいだろうな。
追いついたところで襟首を掴み、持ち上げる。そして、顔を近づけて言う。
「貴方もそろそろ祟りを受けるべきだ。バイ大物主」
針を逆手に持ち替え、大きく振り上げる。
「た、助け……!」
今さら命乞いか。面白い冗談だな。今まで自分がしてきたこと、これからしようとしたことを思い出してみろ。
「うーん…………それ無理」
残念ながら俺はこの腕を振り下ろす事に何の躊躇いもない。それくらい、俺はアンタが笑いながら壊そうとしたものを守りたい。
「せいぜい黄泉で、一日千人殺すって評判の伊弉冉尊と仲良くやっ――!」
振り下ろそうとした腕はしかし、目の前の見苦しい男の桜を散らせる事はなかった。でもなぜだ? 俺の腕にはちゃんと力が籠っている。そちらを見てみれば、二匹の白蛇が俺の腕に絡み付いていた。
そういえば大物主神は蛇の身体だったな――なんて冷めたことを考えていた俺の頭は、その蛇の正体を目にしたところで一瞬にして沸点を超える。
俺の腕を、歯を食いしばりながら止めていたのは、縁の腕だった。
「な、……なん、で……」
俺は呆然とし、初めて縁に心からの怒声をぶつけた。
「何で今さら庇うんだよ! 散々コイツに傷つけられたお前が、どうして……! どうしてコイツを守ろうとするんだよ!」
「違う!」
それでも縁は俺の腕を放そうとしない。それどころかますます腕に力を込めると俺の怒声を覆い包むほどの声量で叫び返してきた。
「こんな人、どうでもいい! 私は、康司君が、この人と同じになっちゃうのが嫌!」
縁の叫びは途中から涙混じりになっていき、それを聞いた俺の頭は途端に温度を下げていく。こいつは今なんで泣いている? 誰のせいだ? 誰が縁を泣かせた?
――俺だろうが。泣いているコイツを救いたいと願ったはずの、俺のせいだろうが。
込めていた力が抜け、手に持っていた針がカチンと小さな音を立てて石畳に落ちる。そして腕から手を離した縁はすぐに俺に抱きついてきた。もう俺に同じ事を繰り返させまいと。まるで、あの日のお返しとでも言うように。
「今の康司君、凄く怖い顔してた! 凄く嫌な顔してた! この人と同じ顔してた!」
……気付いてたさ。俺はずっと笑ってた。コイツを叩き潰せる喜びに下卑た笑いを浮かべてた。でも、それでも――
「っ……だったらどうすればいいんだよ! コイツがこの世に生きてる限り、水分神社は救われない! 俺はここに、ここに住む人たちに一生掛かっても返しきれないくらいの恩が有るんだ! それを、その全部を守るには他にどうすりゃいいってん――」
最後まで続けられなかったのは頬に衝撃が走ったからだ。パアン、という景気のいい音を立てて。
そちらを見て、俺は固まった。
「そん……っ、そんなこと、で……恩を、返せるっと……!」
――静流さんが泣いていた。
笑みの形で見慣れてしまった顔を、見たこともないくらいくしゃくしゃにして。
「うっ、それが……あ、……貴方の、家族孝行ですかぁ!」
二度目の平手が来たが、そこにはもう叩く力は入れられておらず、優しく滑るように俺の頬を撫でるだけ。でも、俺にはそっちの方が効いた。
二度と私に貴方を叩かせないで、そう言われているように思えたから。
「私は、……康司さんが、家族、孝行って……言ってくれた、時……凄く嬉しかった! それがこれじゃぁ……悲しすぎます……!」
静流さんは立っているのも辛いのか俺の肩に額を乗せて、そのまま泣き入ってしまう。
唇を噛む俺に、続いて声をかけてきたのはおばさんだった。
「神社で生まれ育ち『蔭針』を修められるほど神道に親しんできた貴方なら当然知っていることと思いますが、神道は結ばれた『縁』を守護します。貴方がその先の行動をしてしまっては、私たちと貴方の『縁』はどうなってしまうのです? 自分から神様の顔に泥を塗るのは止めましょうよ」
そちらを向けば、やはり目に焼きついている笑顔はない。考えなしの行動で、この人からも笑顔を奪ってしまったのか? 俺は。
「それに一部の伝承では、三輪神社の祭神である大物主神は大国主神の和魂とされていたはずです。多くの者の悪意に翻弄され泣き叫んでいた因幡の素兎を救った心優しい神である大国主神の、和魂だったはずです。そんな神様の名前を持ち出して素兎を泣かせてどうするんですか」
胸元にかかる熱は何かと見てみれば、俺のシャツに滲みこむ縁の涙だった。
「縁さんと私たちの縁は貴方がいたからこそ結ばれたものです。もしこの神社が無事だったとしても、そこに貴方がいなければ何の意味もありません。履き違えないでください」
…………これは、キツイな。
俺は今まで、この人の怒った姿など見たことがなかった。だからこそおばさんが怒る時それは何時だって本気だということだ。その言葉の一つ一つが俺には大きな意味を持って頭に入り込んでくる。それはきっと、俺がこの人に救われたあの日から。
顔を上げれば、それぞれの表情を浮かべている皆の顔。しかしそのどれもが俺を見て、俺を想い、俺の無事を願ってくれているのだと伝わってくる。
泣きそうになった。嬉しさもあるが、しかし、それ以上の理由がある。
怖かったのだ。俺があの腕を振り下ろしていたら、もうこの輪の中には戻れなかった。縁が必死に俺を止めてくれなければ、二度とこの人たちの心からの笑顔を見ることはできなかった。一度は覚悟をしていたはずなのに、いざそれを想像するとこれ以上ない恐怖に襲われ愕然とした。
結局、俺は皆を守るつもりで、皆に守られたんだな。社長に滑稽だ滑稽だと言っておいて俺だってかなりのピエロっぷりを晒してたんじゃん。
もう一度針を握る覚悟は、できそうになかった。
再びあの醜声が耳朶を汚したって。
「……は、はは、くははぁははは! な、なんだこの三文芝居は! こんなお涙頂戴の猿芝居で改心する人間がいるとでも思っているのか! くかか、愚かだ愚かすぎる! 流石は寄り集まって不気味に呪文を唱えるしか出来ない宗教家ども! 楽観的に過ぎて始末に負えん! どうにしろ交渉は私の勝ちだ! さっさとここの権利書を渡し――」
勝ちを確信してさぞ気持ち良く吠えていただろう社長だが、そこで新たな声が割り込んできた。しかしその声というのは明らかに――
――おにゃぁ! おぎゃぁ! おぎゃあ!
赤ん坊のものだった。
音源はどうやら階段の方。境内にいた全ての人が同時にそちらを向く。果たしてそこにいたのは赤ん坊を抱いたお母さんと、その旦那さんらしき人だった。お母さんの方は急に泣き出してしまった我が子とこちらとを交互に見てはオロオロしている。
「「あっ」」
と声を上げて驟雨の如く突然現れたその一家に目を見開いたのは俺と静流さん。
向こうも俺たちに気付いたらしく、奥さんの方は顔を綻ばせると赤ん坊に振動を与えないように細心の注意を払いながらこちらへと駆け寄ってくる。一方の旦那さんが決まりの悪い様子なのはしょうがないかとも思う。
「えー……っと、お取り込み中でしたか――って、どうなさったんですか!」
静流さんの赤くなった瞳を見て泣いていたのだと理解したらしい奥さんは、つい大声を出してしまい、泣き声のボリュームを上げてしまった腕の中の赤ん坊を慌ててあやし始める。自分だけ立ち止まっているわけにもいかなかったのか遅れてきた旦那さんも静流さんの雰囲気を憶えていたようで、その違いに目を見開いている。
その人たちと既知だった俺と静流さんはともかく、他の人はこの二人の事を知らない。が、赤ん坊の元気のよすぎる泣き声は説明する暇すら与えてはくれなかった。
それにしても、その泣き声のなんと旺盛なことか。知らず知らずのうちに俺の口元には微笑が浮かんでいた。他の人を見遣れば、やはり同じように微笑んでいる。
その声は未来を生きる活力に満ち溢れていて、こちらにまでその元気を分け与えてくれているようにも感じる。ま、ここの空気が堅くて泣き始めただけなんだろうけどな。
でも、どちらにしたって俺たちの中には確かに希望が生まれていた。俺はさっきまで、かなりシリアスなシーンを演じていたはずなんだけど、そんな空気など大型ファンの前に漂っている風船のように吹っ飛ばされてしまっている。きっとこの子にしたらヘリウムよりも軽い気体だったんだろうな。
しかーし。ここには一人だけヘリウムをシアン化水素に変換する未知の科学装置が存在するのだ。
「……その五月蝿い餓鬼を黙らせてもらえないか。腹立たしくてかなわん」
自分だってこんな風に泣き叫んで母親や周りの人を困らせた時期があるというのに、そこにはやっぱり思考がいかないんだな。別に期待してないけど。
気分良く勝利者宣言していたところを邪魔されて、新参者に憎々しげな視線を向ける社長。その悪人面に奥さんはひっ、と一歩を引き、旦那さんの方は奥さんと我が子を庇うようにその前に出て社長を睨む――が、すぐに驚いたように目を剥き、携帯を取り出すとどこかへ連絡し始めてしまった。
俺たちから少し離れて喋っていたため内容は聞こえなかったが、たぶん仕事に関するものだろう。やがて携帯をズボンのポケットに仕舞うと戻ってきた旦那さんは、俺たちでも奥さんでもなく、社長に向き直った。
「あなたは、稲葉秀一郎さん、ですね? 稲葉建設社長の」
『……!』これは旦那さん以外の全員が息を呑んだ音だ。何で知ってるんだ?
「だ、だったらどうした若造が!」
旦那さんのそんな得体の知れない行動に明らかに虚仮威しの叫声を返す社長。しかし、旦那さんはそれを気にする様子もなく、ふーむ……、と唸りながら俺たちを見回し、やがておじさんの持っていた書類に気が付いた。
「その書類、見せていただけませんか?」
「え、ええ」
咄嗟に渡してしまうおじさんからは良い人オーラが滲み出ています。
「ふーむ……」
唸りながら書類をぺらぺら捲り、企画書をあらかた見終わった時点でこの水分神社が窮地に立たされていることを理解したのだろう。それでも表情を崩さずに次の紙束に目を通し始めた。
皆が押し黙っている中で、旦那さんが署名の書き連ねられた紙束を捲る音だけが響く。終わるまで数分。誰も彼も喋ることも動くこともせず、ただじっと旦那さんの理由の見えない行動を見守っていた。
「ふむ」
そして、また唐突に口を開いた。
「稲葉社長。一つ、質問をよろしいでしょうか?」
「な、なんだ?」
気圧された社長は従順にも返事をしてしまう。しかし、その次の瞬間のうろたえっぷりは見事なものだった。
「この署名の人数が、稲葉建設の従業員数とほぼ一致しているのはどうしてでしょう?」
聞かれた瞬間、目に見えて惑いだす社長は、簡単に陰謀の端っこを見せてしまった。
そう、汚い陰謀だ。このうろたえぶりを見るに、旦那さんの言っているセリフは図星を指してるようだ。どうして旦那さんが稲葉建設の従業員数なんて情報を知っていたのかは分からないが、これはチャンスかもしれない。
「どういうことです?」
おじさんも迷わず攻勢に出た。
「そ、そんなの偶然に決まっているだろう!」
自らに刺さる視線は総じて温度を下げていき、やがて自分がアウェーになったと感じたのか社長は遂に開き直った。
「だ、だが偶然じゃなかったとして私に何の罪がある! 貴様らに咎められる筋合いなどないわ!」
……これはもう、黒ってことでよろしい? あれだ、探偵モノのアニメとかドラマで追い詰められた犯人が『だったら証拠を見せてみろ!』っていうアレと同じだ。
旦那さんが呆れたように嘆息する。
「……稲葉社長、昨日はどこで何をなさっていたんです?」
「き、昨日は別荘に……」
さすがは社長。通常勤務日であるはずの平日とか関係ねぇ。
「ニュースも御覧にならなかったのですか?」
ん? それは俺も知らないぞ。この社長に関するニュースが何かあったのか? 周囲を見てみれば他の家族も皆首を捻っている。
パトカーのサイレンが耳に届いたのは、その時だ。
電気ショックでも食らったかのようにビクゥッ! と全身を強張らす社長を嘲弄するようにそのサイレンは水分神社の下で停まり、続いて複数人が階段を駆け上ってくる音が伝わってくる。
唖然とそちらを見ている社長に呼びかけ自分の方を向かせる旦那さん。その手には、どこかで見たような黒い手帳のようなものが掴まれていた。
「昨日、稲葉建設の立ち入り調査を行いました。稲葉秀一郎さん、貴方の逮捕状を取得した上でね」
スーツを着た男性四人が境内に踏み込んできた。そしてあっという間に社長を取り押さえてしまう。それでも社長は旦那さんに視線を固定したまま、口から魂でも吐き出しているかのようにぼけーっとしていた。
聞こえているのかいないのか分からず苦笑した旦那さんは、それでも社長に言葉を掛ける。種明かしをするように。
「どうしてバレたのか分かっていらっしゃらないようですね。簡単に言いますと、貴方は社員からも嫌われていた、ということですよ。内部からこれだけ同じ証言が出てきては、どうしようもないですよね。求心力の無かった己を恨んでください」
旦那さんと敬礼を交わすと男性四人は社長に手錠を嵌めて連行していく。引かれるまま階段を下り始め、視界に赤いパトランプが入ったところで「うおおおおおお!」と暴れだしたが、自分よりも大柄な男性四人に囲まれていては為す術なし。
今日これまでのシリアスが嘘のように、稲葉秀一郎は敢え無く御用となった。
全員でポカンと口を開けたまま、沈黙が場を支配すること数十秒。一番初めに言葉を紡いだのは、これまで静寂を保っていた日向だった。泣き笑いの表情で目元を拭いながら零したのは次のようなセリフ。
「神様が、守ってくれたのかな……。私たちと、水分神社との縁を」
これまた全員がハッとして、弾かれたように顔を上げて三つの山形の本殿を見る。特に俺は無意識の内にそちらへ向かって土下座でもしそうな勢いだった。
俺がさっき『都合よく助けてくれる神様なんていはしない』とか思ったから、拗ねた神様がその偉力を見せてくれたんじゃないだろうか。
ほんと、お茶目な神様だこと。
でも――本当に、ありがとうございます。
泣いていたはずの赤ん坊は、今では愉快にきゃっきゃと笑っていた。