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第七話

 半ば予想していたが鳥居の側に縁は居らず、二人で一縷の望みに縋って学校へと向かった。しかしながら昼休み、俺のクラスへとやって来た日向に縁が学校に来ていないことを教えられ、一縷の望みはいとも簡単に断ち切られた。

 通い妻か? 通い妻か? とクラスメイトに茶化されても俺にはリアクションをしてやる気力もなく、不思議そうにしていた友人各位。それ以降は俺を放っておいてくれるという優しさを持っていた近藤斉藤の評価を少しだけ上げつつ、授業の終わりを待っていた。

 今日の授業では先生に当てられませんように、と頭のほんの一部容量を使って祈っていたのだが、どうせ叶うはずないと高を括っていた時に限ってその願いは聞き届けられる。どうやら俺の声を聞いてくれている神様は相当なお茶目さんらしい。

 放課後。どうにも一人で帰るのも気が引け、掃除があるらしい日向を教室の外で待っていた。俺を見つけた日向のクラスメイトが「彼氏がお迎えよ」とか言っているのが聞こえてきたが、終わった後の日向は特に何も文句を言うことなく「……帰ろ」とだけ言って俺の隣に並んできた。

 帰宅の途には一切の会話もなく、どこか二人で歩いていることに違和感も感じたりしている。そこで初めて俺は、俺と日向の間に縁が居る風景が既に掛け替えない日常になっていた事を思い知った。

 きっと今日一日は俺よりも日向の方が辛かっただろう。二人は同じクラスだからな。縁が居なくても変わらず過ぎていく日常。変わらず過ごしているクラスメイト。それらを目にしていた日向は何を思ったんだろうか。

 そろそろ夏本番のはずなのに大して暑くも感じない空気の中を歩き、いつもより色褪せて見える風景を眺め、こんなに暗い色だったかと気付く鳥居をくぐり、やたら長く思える階段を上り、どこか空気が沈んでいるように感じる境内を歩き、暖かさが伝わってこない社務所に入って、嘆息しながら居間の扉を開――

「あ、おふぁえふぃ」

 ――けてもう一度閉じた。

 ノブに手を掛けたまま、もう片方の手で目を擦る。見れば隣でも日向が同じ行動をしていた。一応、確認してみよう。

「……今、何かいたよな」

「……うん、何かいた」

「煎餅、食ってたよな」

「うん、煎餅食ってた」

「知ってる人だったか?」

「知ってる人だった」

 どうやら見間違いではないらしい。それから日向は邇邇芸命に嫌疑を掛けられた木花開耶姫の如き憤怒で顔を真っ赤にしていく。どうして憤怒だと分かるかって? 俺も同じ気持ちだからさ。見てみろ、怒りに震える腕が今にもドアノブを壊しそうで我ながら怖い。

 という訳で、その力にベクトルを加えてやりドアを開け放つと、俺たち二人は余剰エネルギーの全てを使った魂のシャウトを煎餅食ってた知ってる人にぶつけてやった。

「「何やってんだぼけええええええええええぇぇぇぇ!」」

 俺たちの熱いシャウトに感銘を受けたのか煎餅を咥えたまま目を白黒させているソイツに俺と日向で文句という名の剛速球を投げつける。その球速は体感速度百マイルを下らないだろう。

「今日一日悶々としてた時間を返しやがれ!」

「そうよ! 具体的には今日全く聞いてなかった授業のノートで!」

「そんなの無理よ、私だって今日学校行ってないんだもん」

「「知ってるわあ!」」

 本当に持っていた鞄を投げつけそうになったところで自重。日向は気が抜けたようにその場にへなへなと座り込んでしまった。気が抜けたんだろう。今日一日、俺以上に気を張っていたんだろうし。しかし気張る必要も、もうない。

 現在最大の懸念だった縁が、目の前にいた。卓袱台に頬杖をつき煎餅を食いながら。

……日向に似てきている気がするのは、そのまま気のせいであってくれ。

「何だってのよ、もう……」

「すぐに来いって言ってくれたの二人じゃない」

 もちろん、俺たちだって安堵しているのだ。これ以上ないくらいに。ただそれがあまりに突然訪れたもので順応するのに時間が掛かってしまった。さっきのシャウトはそれの反動だと思ってくれ。

「だからー、家出してきちゃった。テヘッ☆」

「テヘッ☆ じゃないわよ全く」

 今気が付いたが、確かに自分の額をこつんと小突いている縁の横には大きめのボストンバッグが置いてある。残った破片の煎餅を一気に口に放り込んで咀嚼、嚥下すると縁はコホンと咳払いを一度した。

「不肖わたくし稲葉縁。昨日付けで反抗期に入りました」

「「……」」

「主に反抗するのは、この世界に」

「「…………」」

「本日は私、生まれて初めての無断欠席でーす!」

「「………………」」

 まだ続くらしいから、最後まで喋らせよう。

「つまり、私はもう不良なのです。心が荒んだ現代の若者なのです」

 反抗期に入ったって自分で宣言してる不良ってのは可愛いもんだな。そんなヤツの心が荒んでるってんなら世の中ほとんどの人は心にサハラを抱えているだろうに。

「なので私は自分を一から見つめなおすことにしました」

 ……読めてきたぞ。先読みでツッコんでおこう。『寺行け寺』。

「という訳で、こちらで修行させていただくことにしました!」

 よし当たった。景品くれ景品。……いや、もう貰っているか。お茶目な神様から。

「私が来た時にはおじさんもおばさんも静流さんも驚いてたけど、訳を話したらここに居ていいって笑顔で快諾してくれたの!」

 そりゃ驚くだろうさ。昨日あんなシリアスな空気を出してここを飛び出して行ったヤツが、なんだか変なテンションになってすぐに戻ってきたんだから。

 しかし縁はそこで、でも……、と表情を曇らせる。

「私が家から出ようとした時、爺やに見つかっちゃって。その時恭子さんが私を逃がすために時間稼ぎしてくれたんだけど……」

 ……恭子さんか。もしかしなくても俺がその選択を迫ったんだよな。感謝をしつつ、やはり少し申し訳ない。これではもう、あの家で仕事は出来ないだろう。……まあ、あの人の技術なら働き口には事欠かない気もするが。

「それで、その恭子さんは?」この場にいないというのは心配だ。

「分からない。逃げる時にチラッと見たら棍棒みたいなの持って追いかけて来た爺やと喧嘩してたんだけど、その後は……。……ちゃんと逃げられてるといいんだけど……」

 一番心配してるのはコイツだったな。こんなに誰かを心配できるヤツが不良だったら世の中不良だらけになってるっつうの。

 それにしても、あの爺やが棍棒ですか。完全に俺は人を見る目が無かったらしい。

 居間の扉が開いて静流さんが入ってきたのは、俺が今後詐欺などに引っ掛からないよう自分専用マニュアルを編集していたそんな時だった。

「お帰りなさい、二人とも」

 魂のシャウトが届いていたのか、盆に急須と四人分の湯飲みを載せた静流さんはいつも以上にニコニコで、縁の顔が見られたのが嬉しくてしょうがないらしい。

 俺と日向も一旦落ち着こうと静流さんの淹れてくれた熱いお茶を飲む。夏だろうがなんだろうが、季節関係なくこの熱いお茶は俺の好きな飲み物ランキング不動の一位に君臨し続ける。しかもハーブティーなど足元にも及ばない精神鎮静作用も持っているのだ。

 ズズー……っあー。いいな、こういうの。

 今、この居間には一緒に茶を啜っている俺と静流さんと日向と縁が居る。今朝には夢物語のように思えたこの状況が、こうして目の前にある。それは何より嬉しい事だった。

 問題は何も解決していないんだけどな。

「明日」

 静流さんの真面目に改めた表情からもそれはヒシヒシと伝わってきた。

「あの人依頼の地鎮祭を執り行います」

 だだっ広い草原で草をむーしゃむーしゃ食んでるだけの草食動物よりも温厚な静流さんがあの人呼ばわり。これは相当嫌われましたな。

「依頼があったのって昨日ですよね。こんなに早くですか?」

「今朝方にまたあの人が来まして、出来るだけ早くお願いしたい、だそうなので。縁さんがここに到着したのがそのすぐ後だったんですけど、対面しなくて本当に良かったです」

 確かにそれは間一髪って感じですね。もしそこで見つかっていたら家へと強制送還。その上監禁でもされそうだし。

 ……それにしても、地鎮祭か。そこには会社の幹部とかも集まるんだろうな。

「静流さん」

 正面で静流さんが首を傾げる。

「俺も連れて行ってもらえませんか?」

 これには静流さん以外の二人も驚いたらしい。

「え! も、もちろん私も康司さんが来てくれたら心強いですけど……、でも明日は平日ですよ? 学校はどうするんですか?」

 ただ今、世間のほとんどの学校は学期末。学生たちが待ちに待ったシーズンが厳しい税関の向こうで手招きしているのが見える季節だ。まあ、そのシーズンを迎えるためには税関を突破しないといけないんだけどな。でもって、その税関とは――

「もうそろそろ期末試験なので授業はどれも自習でしょう」

「皆勤賞もダメになっちゃいますよ?」

「卒業式は卒業証書を貰うだけでさっさと終わらせたいと俺は常々思っていました」

 しばらく静流さんと見つめ合う。その睨めっこでは照れという自爆技を披露して俺が負けるはずだったが、その直前に静流さんはふっと目を細めた。それから苦笑をくれる。

「……もう、頑固なんですから。分かりました。一緒に行きましょう」

「ありがとうございます」

 と、そこで縁が寄ってきて俺の袖を掴んだ。下がった目尻は俺を心配しいてくれているのだろうか。

「ねえねえ康司君。……大丈夫なの?」

「ん? 地鎮祭の式次第なら大丈夫だぞ。三輪神社でも手伝ってたからな。まあ俺の場合ちゃんとした位階を本庁から賜ってないから、もし見つかったらヤバイけどさ。でも大丈夫だ。そういう儀式に必要なのは心だ心」

「そうじゃなくって」

 身を乗りだして顔を近づけてきやがった。まったく、コイツにはもう少し男がカッコつける時の心理を勉強してもらいたい。

「分かってるよ。別に何をするワケでもないから、今回は。ただ単に社長の顔とハッピーカンパニーの幹部の顔を拝みたいだけだ。…………あ、でもそうすると日向と縁二人だけになっちまうな」

「大丈夫よ。ウチは逃げられる手段いっぱいあるし」

……ちょっと待てよ。今の言葉からすると、「……お前らも学校、休むのか? 明日」

「何言ってんの? 当たり前じゃない」当たり前らしい。

「出入り口が限られてる学校こそ、いざ囲まれたら逃げ道が無いじゃないのよ」

 お、ちゃんと考えての発言だったのか。こりゃ失敬。

「それに、あんただけ学校サボるのは何か納得いかないし」

 ……どうやらこれが本音だな。もちろん欠席理由なんて学校側に伝えられるものじゃない。これで俺たち三人は明日の無断欠席が決定してしまった。次に学校行った時が怖い。

 その時だ――ピンポーン、と玄関のチャイムが鳴らされたのは。

 ビクゥッ! と座ったまま飛び上がるのは四人全員。完全に油断していた。よく考えれば分かることなのに。縁が水分神社に足繁く通っていたのは稲葉邸で働いている人たちのほとんどが知っているだろう。そんでもって縁みたいな女子が家を飛び出したところで行ける範囲は限られている。

 よって探索を始めたとして真っ先に怪しまれるのは、ここだ。

 玄関の方に視線を固定したまま動かない女子三人を居間に残し、俺はマイ針箱を持って立ち上がった。

 玄関に着いてみれば、磨りガラスの向こうに人の姿がある。黒服ではないので激烈お爺さんの爺やではないようだが、用心するに越した事はない。俺は引き戸を開け放つと同時に後方へ飛び退きつつ針を投げる動作に入る。

 結果としては、その針は投げられなかった。何せ、そこに立っていたのは――

「きょ、恭子さん!」だったのだから。

「……………………」

「……………………」

 ……気まずい。非常に気まずい。目が合ってはいるが、俺は針を投げる予備動作を完了した状態。俺は慌てて手の針を仕舞った。

「………………お騒がせしたようで」

「い、いえ……こちらこそ……、……すいません――って、ちょっと!」

 改めて恭子さんの姿を見てみると、一言で表現するなら満身創痍だった。磨りガラス越しに見て、やけに色んなところから肌の露出があるなー奇抜なファッションだなーとか思っていたのだが、それはファッションなどではなくただシンプルメイド服がビリビリに破れていただけだったのだ。そしてその露出部分の肌は赤かったり青かったりと、打撲傷と擦過傷がいくつも目に付く。服の下はきっと大変なことになっているだろう。というか、その傷では歩くのも辛そうだ。

「と、とりあえず中へ」

「……お邪魔致します」

 ベージュのワンピと同系色のキャリーバッグには自室から必要なものを即行でぶち込んできたらしい。俺はそれをせめてもの罪滅ぼしに持つと、恐らくこの人に今一番会いたいであろう人物の元へと案内した。

「ね、ねえ康司君、一体誰――」

 居間に戻ると縁が目をまん丸に見開いた。続けて、その大きな瞳に涙を溜め始める。こいつはよっぽど泣沢女神に気に入られてしまったらしい。

「恭子さぁん!」

 飛び跳ねる兎のように立ち上がって恭子さんに抱きついていく縁。その瞬間、恭子さんは痛そうに顔を歪めたが、でもそれ以上に縁の無事が嬉しいのかすぐに優しく慈しむように背中へと手を回した。

「ご無事で何よりです、お嬢様」

「それは私のセリフだよぉ!」

 いやはや良かった。心配していた恭子さんも見つかって、これで懸念はあと一つ。稲葉秀一郎なるおっさんだけだ。ま、ラスボスに相応しい人選だな。

 感動のシーンに俺がもらい泣きしそうになっていると、静流さんがおたおたしている事に気が付いた。どうしたのかと訝しがっていると、その視線はどうやら恭子さんに縫い留められているようだ。そういえば静流さんは恭子さんのことを知らなかったな。

「この人は恭子さんって言って、おそらく縁に近しい人間で唯一の味方です」

 俺は恭子さんのキャリーバッグを縁のバッグの隣に置きながら静流さんに大まかな恭子さんの人となりを説明した。そ、そうなんですか……、と一先ず納得してくれたらしい静流さんはしかし次の瞬間、

「た、大変! お怪我をなさっているじゃありませんか!」

 と今さら気付いて、恭子さんの元に向かっていった。

「はい? これくらいなら私は大丈夫ですので」

「いいからお早く!」

 全く話を聞いていなかった。強引に感動の再開を終幕させると縁を引き剥がし、それからシンプルメイド服を脱がしにかかる。

「ほ、本当に大丈夫ですので!」

「早く手当てしませんと!」

 完全に会話が咬み合ってなかったが、大人っぽい美女二人による丁寧な言葉の応酬というのはどうにも気の抜ける光景だった。この世に生を受けたその瞬間から静流さんフリークである俺だが、そういえば静流さんと恭子さんってどこか似た雰囲気を持っていると気付いたのはたった今だった。ほら、さん付けで呼びたくなる雰囲気とかとか。

 そう、俺の中のハイスペック美女二人がこの場で肩を並べているという事実に単純に感動していたのだ。なので気付けなかった。

 男が取るべき行動をすっかり失念していた事に。

 情状酌量の余地はあると考えていた俺の脳内弁護団だが、そんなものに耳を傾けてくれる優しい裁判官などこの場にいはしなかった。そもそもが裁判など開く気のないエクスキューショナーが二人いるだけで、その二人によって俺は断罪されることになる。

「何ガン見してんのよ!」

「そんなに恭子さんのが見たいわけ!」

 振り下ろされた凶刃は茶色い円盤状の固形物で、それを左右に控えていた死刑執行人からパイ投げよろしく俺の両目に叩きつけられる。食べてる時はそんなに気にならないけどかなり固いんだな、煎餅って。

 この世の不条理を嘆きつつ鼻腔を刺激してくる香ばしい醤油の香りに涙が出そうになっていた俺だが、しかし女神様は俺に救いの手を差し伸べてくれたのだった。

「康司さんも来てください!」

 という声が鼓膜を振るわせるや否や、俺は空の人になっていた。言い換えると、静流さんの膂力でもって高速で引っ張られた俺がその勢いで一瞬浮いただけだ。

 その勢いのまま連れていかれたのは、アルバイトの時にいつも妊婦さんを治療している座敷だった。そこには既に布団が敷いてあり、俺の隣では下着姿となった恭子さんがそれを見て、これから何が行われるのかと慄いている。

 そう、恭子さんは下着姿だった。

 今度こそ男のエチケットを守った俺は首の可動限界に挑むように回転させる。その際に一瞬見えてしまった(あくまで見えてしまった)、恥らうように目を瞑った恭子さんが胸元を両手で隠すという映像は、俺の脳内会議満場一致で永久保存フォルダに保存することに決定した。

 いいもの見てしまったところで、俺も仕事をしようか。俺が呼ばれた意味。この場所に連れてこられた理由はさすがに理解できている。

「お願いします、康司さん」と恭子さんを布団に寝かせた静流さんが手渡してくれたのは俺の針箱だ。つまり、そういうことさ。

 初めてこれを受けた人の反応は同一なので、その辺は割愛。治療箇所には際どい部分もあったりしたが、男の矜持に賭けて俺は見なかったとここに誓言を立てる。

 達成感に浸りつつ居間に戻ってみると日向と縁が、さも『ずっとここにいました』的な空気を放ちながら談笑していたので一発ずつ頭をはたいてやる。少しだけ煎餅の報復の気持ちも込めた。それでバレていたと悟った縁は開き直って、さっきの治療についてあれこれと聞いてきたがそれを上手い具合に受け流しつつ俺は復活した恭子さんに目を向ける。

「それにしても、恭子さんが無事でよかった」

「ご心配をお掛けしました」

「恭子さんが来てくれなかったら明日は私と日向二人だけだったもんね。それはちょっと心細かったんだ」

「…………少しはオブラートに包みなさいよ」

 日向が不穏な気配を放っているが、でも縁の言葉は全くその通りだった。稲葉家の人たちは爺やをはじめ本当に強襲をしかけてきても不思議じゃない。

 話の核心が見えず上品に首を傾げている恭子さんに明日の事を説明する。

「なるほど、そういうことですか」

「はい。そこで恭子さんが二人に同行してくれたら心強いなと。有事の際には勝手口から出て杉林に逃げ込めれば問題ないとは思うんですが、やはり二人だけだと心配でして」

 小学生くらいの頃、俺が水分神社に遊びに来た際には日向と静流さんと三人で裏の杉林でかくれんぼをしたものだ。さすがに地形を隅々まで把握している二人を見つけるのは至難の業で、見つけられなくて俺が泣きべそを掻き始めると静流さんはワザと見つかってくれていたのだが、日向の場合はそんな優しさなど無いもせぬ。体育座りをしていた俺の前に堂々と登場すると大爆笑してまた去っていったのは、今ではいいトラウマだ。

「承知しました」

 そう言った時の恭子さんの表情は武者の顔だった。例えるなら武蔵坊弁慶みたいな?

「我が命に代えても、お二人を無事にお逃がししましょう」

「い、いえ。出来れば三人一緒でお願いします……」

「…………はあ。善処します」

 この人は少し使命感が強すぎる。貴女もいなければ意味がないっていうのに。でもきっと大丈夫だろう。源義経公が三人での帰還を所望するだろうからな。この人が武蔵坊弁慶なら義経からの命は忠実に守ってくれるはずだ。

 その日の夕食。初めて加わる恭子さんは何もせずに相伴に預かることを断固拒否し、おばさんの了承を得て冷蔵庫の中からパパッと必要なものを選び出すとそれで一品料理を作った。それを食べた俺たち六人の頬が落下運動を始めそうになって大変だったのは余談として付記しておく。それにしても、おじさんおばさん。

 ――食費、大丈夫なのですか?


 静流さんに行くと言ってしまった俺だが、布団に入ってから明日が来なければいいのにとかメランコリーな事をちょっとばかし考えたりもした。しかしながら若造の祈り一つで太陽が毎日欠かさず続けているルーチンワークを妨げることなど到底叶わず、今朝も変わらず東雲の光を俺の両目へと能天気に照射してくれていた。

 昨晩と同じく七人での朝食を終えると地鎮祭組は禊を済ませて正装に着替え、それから祭式に必要な物をおじさんの車に搬入する。それも完了すると、俺たちは居残り組と別れて指定された場所に向かった。

 都市というのは駅などの交通の要所から放射状に発展していくものだと思うが、水分神社は最寄駅を中心として再開発の進められている地域のほぼ円周近くに位置している。今回、地鎮祭を行う場所は水分神社からもそんなに離れていない空地であった。どうやら再開発の波はここまで押し寄せてきているらしい。しかも、それを施工するのは例のハッピーカンパニー。構造計算だけは偽装しないでくれよ。

 斎場を確定させるため、まず敷地の中央に斎竹を四本立てて正方形の空間を区切る。そこに紙垂を垂らした注連縄を渡して斎場を設けると次は神籬。斎場の真ん中に雛壇みたいな台を置いてその最上段真ん中に紙垂を結った榊の枝を立てる。そして雛壇の空いているところには米やら魚やら野菜やら果物やら塩やら水やらの神饌を儀式中に置くのだ。壇の正面の地面に一箇所盛砂をしたところで地鎮祭の準備は完了。

 ここからはおじさんの主導で儀式が開始される。おばさんと静流さんと俺は脇の方に控えていることになった。スーツ姿で並ぶ参列者の中に社長がいるのだろうと見てみれば、明らかに一人だけ妙に鼻に付くおっさんが居た。隣の静流さんに目線で確認を取ってみれば頷いてきたのでどうやら当たりのようだ。

 高そうなスーツに身を包み、掛けた眼鏡はどうにも好きになれない金色のフレーム。どうせアレだって安物なんかじゃなくて純金だったりするんだろうな。目を瞑ってはいるがその表情はどこか蔑むような雰囲気を纏っており、それも鼻に付いた原因かもしれない。

 やがて、地鎮祭が始まった。

まず初めに行うのが斎場と参列者を祓い清める修祓だ。幣帛を揺らしながら祓詞を詠唱するおじさんはもちろん真剣そのものだが、他の参列者が目を閉じ聞き入っているのに比べて社長は目を細めておじさんの動きを眺めていた。それは確かに笑みなのだが、笑みの中でも嘲笑という種類のものだと容易に判断できるほどおじさんを見下したもの。開始五分も経たずに俺の頭に血が上る。そもそもアンタが依頼してきたんだろうが。

それが終わったら降神。神籬に産土神を降ろす儀式だな。神様が降りてきた時におじさんが口にした「オオー」という声に噴き出しそうになっていたのを俺は見逃さなかった。

 先に言った米やら酒やらの神饌をここでお供えし、次に祝詞を奏上する。

「――此の斎庭を厳の磐境と祝ひ定め祓ひ清めて……」

 結構長く続く地鎮祭祝詞をおじさんが奏上している間、退屈そうにしていた社長だが、欠伸はどうにか噛み殺したらしい。そんなことをされたら俺は草鞋を蹴り飛ばしていたかも知らん。

 そこからおじさんは歩き出し敷地の四方で米を投げる切麻散米を行う。その背中を滑稽な生物でも見るように見下していた社長。そんなに億劫なら何故地鎮祭の依頼なぞした。

 ずっと観察していた俺からするとダルそうに見え、しかし表面上は取り繕ってにこやかにしている社長は鍬入れも問題なく終わらせたのだが、次に待っていた鎮物埋納で本性を垣間見せた。おじさんに渡された鎮物を地面に埋める際、誰からも見られていないと油断したのか『なぜ私がこんな事をせねばならん』とでも言うように苛立たしげに顔を歪めたのだ。俺は反射的に懐に仕舞ってあった針を投げようとしてしまったが、隣の静流さんが腕を軽く掴んでくれたお陰で何とか思い止まることができた。

 参列者全員で玉串を奉奠して、後は直会。神饌として備えた御神酒を全員で一口ずつ飲めば地鎮祭も終わりだ。だいたい開始から終了まで四十分程度だが、何度ぶちギレそうになったか覚えていない。来てもらった神様が荒魂にならなかったかどうか本気で心配だ。

 とりあえず儀式は終わったので俺たちが片付けていると、社長が嫌らしい笑みを浮かべながら近づいてきた。

「本日は非常に素晴らしく厳かな儀式をありがとうございます。これで我々一同、安心して着工できます」心にもないことを。

「それと、うちの娘がそちらの神社でお世話になっているそうで」

 こっちが本題か。そりゃバレるよな、水分神社にいること。稲葉家の自家用車である黒塗り高級車に目を向けてみれば側に爺やが控えており、アレが社長に教えたんだろう。完全に社長の傀儡だな。まあ傀儡になるのが仕事なのかも知れないけどさ。

「いえいえ、御息女にはお手伝いしていただいてまして、我々も大変助かっております」

「そうですか。ですがやはりいつまでもお邪魔させておくのも心苦しい。今日中には迎えに参りますので」

「社長ともなればご多忙の身でしょう。ご無理はなさらずとも結構ですよ? 我々は御息女が居りましても一向に構いませんので」

 おじさんの真意に気付いているのかどうなのか、そういう訳にもいきません、と社長はそこで会話を切るとおじさんから目を逸らし車へと向かい始める。

 その背中に、おじさんはもう一度言葉を投げかけた。

「ウチにも御息女と同級の娘がおりますが、あの年頃の娘は難しいですからな。私も随分と嫌われたものです」

 上手い皮肉だ。あの娘二人がおじさんを嫌ってる素振りなんて見たこともない。

「……………………何が、仰りたいので?」

「そうはなりたくないものですな、という事ですよ」

 立ち止まって振り返った社長はおじさんの返答に、ふん、と鼻から声を出すと、そのまま車へと向かっていった。


 一度会社に戻るのだろうという認識が甘かった。社長ってのは、忙しいどころか随分と自由の利くご職業らしい。

 おじさんの車で水分神社に帰ってきたとき、階段前に止められた黒塗り高級車を見て俺たちは肝を潰した。駐車場に車を停める悠長な時間などなさそうだと判断した俺はそこで車を降りると一気に階段を駆け上る。くそ、括袴ってのは動きづらいな。いちいち足を踏み出すたびに両脚の膨らんだ部分がぶつかってもどかしいったらありゃしない。消耗の激しい大腿筋を叱咤してやっとこさ境内に辿りついた瞬間「嫌、離して! いやぁ!」という間違いなく縁の痛切な叫喚が耳に届き、そちらを見れば社長が縁を引っ張りながら社務所から出てくるところだった。

「ちっくしょ……!」

 俺はすぐさまそちらに駆け寄ろう――としたところで肩を掴まれた。社長の仲間か、と思ったらその手の持ち主はおじさんで、首を横に振って俺に『待て』の合図。それから掴んでいた俺の肩を後方に引き戻すようにしながら、おじさんの方が一歩を前に出た。

 社長に近づいていき、やがて向こうも寄ってくる人影に気が付いた。

「これはこれは秀一郎様。お早いご到着ですね」

 にこやかに語りかけるおじさん。対する社長も笑顔で応戦。

「ええ、連れ帰るなら早い方がいいかと思いましてね」

 おじさんはそこで、今なお離れようともがいている縁をチラッと視界に収める。

「御息女は嫌がっているご様子ですが?」

「照れ隠しでしょう」

「なるほど、勉強になります」

「それは良かった」

 二人ともにこやかなままで会話しているが、その迫力は俺みたいな子供が入っていけるほど緩くはなかった。悔しいが、これが年功というものなのか。

 そういえば日向と恭子さんはどうしたんだ? そちらは社長の狙いではないから大丈夫だとは思うが、一緒に来ているはずの爺やが目に見える所に見つけられないのはやはりマズイ。どうしたものかと思案した結果、日向の方は恭子さんがいるから多少は心配の程度も落ちるということで申し訳ないがそちらを信じることにしてこの場に集中する。

 そして目の前で繰り広げられている口諍いは、これまでの裏に真意を隠していた言葉の応酬ではなく、完全な表舞台での舌戦となった。

「貴方のようになってしまっては、親として終わりだという事が良く分かりました」

「……何ですと?」

「言葉通りの意味ですよ。親としての責任を放棄し、子供と向き合うことをしない貴方は父親失格ということです」

 おじさんの言葉に社長は一瞬牙を剥いたが、すぐに余裕の笑みに戻る。

「お言葉ですが、ちゃんと扶養義務を果たしておりますよ。私はね」

「ここで扶養義務なんて言葉を出してきた時点で貴方の認識はその程度という事です。法律で心が分かりますか? 法律を勉強したら御息女の気持ちが分かるようになりますか? 貴方の言葉はそれくらい見当違いなのですよ」

 社長は一転、押し黙った。そこにおじさんは言葉を重ねる。

「どうしてそこまで御息女が貴方と行きたがらないか、考えた事がありますか?」

 声には一切の迷いがない。それだけ芯の通った人ってことだ。

「真なるところは彼女のみぞ知る……ですが、私が想像するに貴方が父親として、引いては人間として、尊敬できなくなったからだと思うのです」

 社長が言い返す気配はない。いや、返す言葉が見つからないのか。図星を指されて。

「貴方はちゃんと御息女のことを知ろうとなさっていますか? 趣味、特技、好きな食べ物、好きな場所、好きな番組。それから――好きな人がいること」

 ハッと顔を上げた縁はおじさんを見て、次いで俺を見て、頬に紅葉を散らした。分かりやすいな、おい。まだ秋には早いぞ。同じアントシアニンなら蕎麦木は年中赤いが。

「知らないでしょう? 貴方は。そんな事も」

 おじさんには珍しい攻撃的な言葉。それを受けた社長は苦し紛れに口を開いた。

「……散々好き勝手言ってくれているが、全ては我々稲葉家の問題だ。貴方には関係ないことでしょう」

「いいえ、あります」

 敵前逃亡を図った社長だったが、それも簡単におじさんに一蹴されてしまった。俺だったらこれを言われたら引き下がってしまうかもしれない。さて、おじさんは何を根拠に関係あると豪語したのか。

 その答えは、これだった。

「そちらの御息女は将来、貴方だけでなく私の娘になるかもしれないのですからね」

 驚きに目を見開いたのは、現在境内にいる四人の中で言った本人であるおじさんを除く全員である。つまり俺と縁、そして社長だ。ただ社長の驚きだけは大分ネガティブな方向みたいで独占欲の表れのようだが、ここに来て娘に独占欲っていうのも凄いな。

 縁に目を向けてみれば、完全に秋の竜田川を越えているし。見てる俺まで赤くなりそうだろうが。俺はまだそんなつもりはねえ!

「そんな女の子に、親として相応しくない姿は見せたくないのですよ。自他含めて、ですけどね」

 その時背後の階段から二人分の足音が聞こえてきたが、この状況を見てどう思うのだろうか。涼しい笑顔で立っているおじさんを中心に、顔を赤くした人間が三人。間違いなく緊迫したシーンではないわな。

 羞恥に顔を赤くしてはいるが確かに尊敬を抱いている目でおじさんを見る縁の表情に、さらに顔の赤みを増した社長はどんな怒鳴り声で喚き散らすのか、と思いきや。

 ピタリと動きを止める。それからの行動は意外だった。

「……………………くっくく」

 静かに笑い出したのだ。そしてそれは間もなく境内を穢すような醜声の哄笑に変じる。

「っくっくくくかかははぁはっははっはははあぁあはははははあっはぁはははは!」

 この上ない不気味さに、さすがのおじさんも一歩を退く。

 一顰一笑の社長はもう何が何だか分かっていないのか、縁を掴んでいた手を離してそのまま自分の顔を掴み、腹が捩れるという表現がピッタリきそうなほど豪快に腰を折って笑っていた。自由の戻った縁は目の前の人物の豹変に顔を引き攣らせると、連続猟奇殺人鬼にでも追い詰められたような表情で逃げ出すと俺の胸に飛び込んできた。こんなに頬を濡らして。よっぽど怖かったんだな。俺だってコイツの頭を泣き止むまで撫でてやりたいが一先ずは俺のすぐ後ろにいるおばさんと静流さんに預ける。それから、社長がどんな行動に出てもいいように懐から針を取り出して構えた。

 聞くに堪えないこの笑いが、初めて気付いた己の醜さに向けたものだったら良かったんだが、このおっさんに限ってそれは無いと断言できるのが悲しいね。

「……ははあ、っくくく……、なるほど、これかぁ」

 その通り、ようやく止んだ奸凶のような哄笑の後に続けた言葉は、それはもう最低のものだった。

「これが宗教お得意の『洗脳』かぁ」

 それはこの世界に数多いる宗教信者全てを愚弄する言葉だった。

 思い出すのは先の地鎮祭の時。まるで自分とは違う野卑な生物でも見るているかのようだった視線。まるで愚かな滑稽劇でも観劇しているかのようだった表情。その全てが今の最悪の言葉に繋がっていたのだ。

「かはは、さすがだ。これが洗脳、洗脳だぁ。かつて人々に死後の安寧なんてあるはずのないものを約束して、意のままに動きしかも死をも恐れぬ最高の兵隊を作り上げた宗教。神への捧げ物だと信者を誑かして寄付をさせ、己が至福を肥やしていただけの神官ども。くかか、娘を調教して我が社に取り入ろうとでも考えているのか? これだから卑俗のオカルトには付いて行けん。……反吐が出る」

 それはアンタが宗教の上っ面しか知らないだけだろうが。宗教にだって色々ある。確かに過去にはそういった側面もあっただろう。でも信じている人はそれを生きるための希望にし、生きるときの規範にし、生きることの喜悦としている。その意思を、その誇りを、その信頼を、アンタが卑しめていい権利なんてこれっぽっちも無い。そんなもの、誰にもありはしないんだ。

 でも、目の前で荒れ狂うおっさんは、そんな事にも思い至れない。

 人としての尊厳を失った者はどうなるのか――そんな哲学的な疑問にも今なら答えられる気がする。何せ、その成れの果てが目の前にあるんだからさ。

 社長は境内を、まるでゴミ屋敷の中にいるかのように顔を顰めながら見回し、

「国民のほとんどが無宗教である日本こそが、世界で最もまともな国だと思っていたんだがなぁ。そういえば神道なんてマイナーな宗教がこの国には蔓延っていたよなぁ。…………もういい! 戻るぞ!」

 再び大声を張り上げたのは何故かと考えていると、社務所の中から黒くてデカイ影が飛び出してきた。その黒服をビリビリに破いた影――爺やは社長の元へ走って追いつく。

 社長は心を患っているとしか思えないほどの破滅した笑顔のまま反転すると、階段の方へと歩いていく。

「そんな餓鬼、くれてやる。所詮、他社とのパイプ作りにしか役に立たん小娘だ」

 最早視線は縁を追うこともない。道化師のような笑みで階段を目指し、降り始める。

「それにしても盲点だった。この国を良くしていくためにはまず、こんなものからどうにかしないといけないよなぁ」

 そんな邪悪な言葉を静謐な境内の空気に混ぜ込みながら、社長は去っていった。


 社長がいなくなり、立ち込めていた暗雲も大方彼方へと消えていって気が緩んだ瞬間、他の懸念を思い出した。他の四人より先に走り出す。

 さっき爺やは社務所から出てきた。ということは当然ながら社務所の中で何かをしていたということで、そこに日向と恭子さんの二人がいる可能性も高い。

 我が家に土足のまま上がることは最低限の礼儀として許すことなどできず、しかし玄関にてコンマ一秒で靴を脱ぐと中に踏み込んだ。

「おい、日向! 恭子さん! どこだ!」

 社務所全体に響き渡るように叫びを上げると「こ、こっち……」と返ってくる声があった。どうやら座敷の方から聞こえてきたようだ。そちらに急行すると、

「はぁ…………はあ…………、っはぁ…………」

 昨日の登場時同様に服をビリビリにした恭子さんと、隅っこの方で身を小さくしている日向の姿を発見した。恭子さんの方はやはり登場時と同じように満身創痍だったが、日向には外傷はなさそうだった。所どころ畳が節くれ立っていたり障子が破れていたりするのは、ここで戦闘があった証拠だろう。

「大丈夫か、二人とも」

「っ、ええ。何とか。――そ、それより!」

 恭子さんは目に涙を溜めて俺の両肩を掴んできた。

「お嬢様は!? お嬢様はどうなさいました!?」

 この人もよっぽど心配してたんだな。いい主従だ。

「大丈夫です。縁なら今外でおばさんと静流さんと一緒にいるはずですから」

 聞き終わるや否や俺の肩を突き放し「お、お嬢様――!」と泣きながら主の元へと向かっていってしまった恭子さんなのでした。さもありなん。引き止めるのは無粋だろう。

 そして俺は、もう一人の俺が心配するべき人物に向き直る。暴れん坊爺やが去って多少恐怖は収まっただろうが、やはり今も体の震えは止まっていない。そりゃそうだな、こいつだってちょっと意固地なだけの普通の女子高校生だ。目前で殴る蹴るの戦闘を繰り広げられたら普通に怖いだろう。男子高校生の俺だって怖い。

 震えつつ俺を見上げる瞳には涙霞が掛かっていて映る姿はぼやけているだろうが、それでも俺と判別できたようで、とうとう涙腺が決壊してしまった。そんな日向の傍で膝立ちになり視線の高さを合わせたら、掛けるべき言葉は一つだ。

「もう大丈夫だからな」

「……うんっ…………う、うわあああん!」

 顔をくしゃっとさせて俺の首に抱きついてきた。もう少しこういう部分を普段から出していけばウチの学校でもファンクラブとか出来るんだろうけどな――なんて無骨なことは言わない。俺はタイミングの分かる人間のつもりだし、そもそもこいつは意地っ張りだからな。そんなことを実際に聞いたら益々意固地になるだろ。

 当分やみそうにない日向の心の雨を肩で浴びていたところ、背後にドタドタといった足音が近づいてきた。振り返ってみるとおじさんで、息を切らしているのは最近運動をしていなかった身体を無理矢理に走らせてきたからだろう。それだけ急いでいたのだ。愛する娘の無事を確認するために。

 日向もおじさんの姿を目にし、涙の量を増やす。それから立ち上がるとその胸に迷わず突っ込んでいった。クリーニングに出したら相当高そうな狩衣に涙が滲みこむのも厭わずに日向を受け止め、優しくその髪の毛を撫でているおじさんの姿を見て、俺は正直にこの人のような父親になりたいと思う。それに、最高の反面教師も見れたからな。

 心から辿りたい道と絶対に辿りたくない道。この二つがはっきり見えているってのは、男としてかなりの強みだと思うがどうだろう?


 外からも四人が戻ってきて、現在居間には今朝と同じくおじさんおばさん静流さん日向恭子さん縁、そして俺の七人が全員揃っていた。七人全員で囲む丸い卓袱台は少し小さいが、その小ささが今はとても嬉しい。

 七人全員でお茶を啜り、ほっと一息。ようやく戻ってきたこの優しい空気の中で、一番初めに口を開いたのは先ほど応急手当を済ませた恭子さんだった。ちなみに今は静流さんの私服に身を包んでおり、見慣れない水色のシャツブラウスに白のロングスカート。俺としてはこれを着た静流さんも拝見したい。なんて、恭子さんに失礼か。

「申し訳ありません!」

 音も立てずに湯飲みを置くと、一歩を退き土下座する。それから卓袱台の上に何か黒い物体を一つ乗せた。長辺二センチ程度の本当に小さな物で、どうやら小型の機械のようだった。遠目から見たら、箪笥とか冷蔵庫の裏によく隠れていそうなあの黒光りするG――油ギッシュなコックローチに見間違えそうだ。

 他六人の頭の上に?マークが浮いているところへ恭子さんが投下したのは、中性子爆弾さながらの威力を持った爆弾発言だった。

「これは盗聴器です」

 全員がズザッ! と同時に身を引いたのも無理はないと思う。だって盗聴器だぞ。そんなもの普通に生活してたら一生触れる機会のない機械だろ。果てしなくサスペンスの匂いがするし――はっ! そういえば今日は火曜日だったか……!

 なんて、どうでもいいことを考えていたのは恐らく俺だけで、全員の脳裏に浮かんでいた言葉は一致していただろう。曰く――『そこまでするか!』。

「先ほど調べてみたところ、私の鞄に仕掛けられておりました。そのため昨日私がこちらにお邪魔してからの会話は向こうに筒抜け。逃げる手段があると知られてしまったため、私たちに逃げる暇を与えないよう警告も無しに爺が突入してきたようです」

 もう一度ガバッと恭子さんが土下座する。今度は静流さんが先手を打って額の下りてくる位置に掌を構えており、頭を下げたところで押し返していた。

 そうして顔を上げさせられた恭子さんの目に映ったのは六人分の苦笑。

「まあまあ、皆無事だったんですから」

 おばさんがまったりと言った言葉こそが俺たちの総意だ。七人が全員この居間に『いつもどおり』揃っている、その事実が何よりも俺たちにとっての僥倖。恭子さんが参加したのは昨日が初めてだなんてツッコミは厳禁だ。既に心は一つなり。

 しかし、恭子さんは自分の不甲斐なさが許せない様子。

「ですが、私の注意が散漫だったせいで日向様にまで怖い思いをさせてしまいました」

 一番の後悔はそこのようだ。しかし、ここにいるのは葛城家。日向を含め、恭子さんに恨みを持っている人間などいはしない。

「ですがもデスラーもありません。あなたが気に病むことなんて何も無いんです」

 これを言ったのはおじさんです。好きですね。

「ふーむ、……でしたら、夕食は恭子さんに作ってだけませんか? 今日みたいなのは老体にはきつくって」

 自分の肩をとんとんと叩いてみせるおばさん。これがこの人の配慮の仕方だ。

 恭子さんは愛溢れる言葉を受けて途端に瞳を潤ませ、はい! と返事をするとお勝手へ歩き出そうとする。と、そこに付いていく人がいた。静流さんである。

「お手伝いしますよ」

「え、ですが……」

「昨日のお料理がとても美味しかったので。私にもその秘訣を教えてくださいません?」

 ……しみじみ思う。本当にここはいい場所だ。

 いつも俺たちを大らかに見守ってくれているおじさん。おばさんの持っている優しさや慈しみの心は確かに娘二人にも受け継がれていて、静流さんはもちろんのこと最近では日向からもちょくちょくそれを感じるようになった。

 そして、新参の家族である縁は今の遣り取りを見て感極まったのか目頭を指で押さえている。この少女はそこで泣ける人なのだ。

 もう一人の新しい家族である恭子さんは、日向に怖い思いをさせてしまった事をあんなに気に病んで、その謝罪とそれでも自分を許してくれた感謝から何かを返したいと夕食の準備をしてくれている。

この居間には優しさと感謝が溢れている。

 俺は今まで『類は友を呼ぶ』という諺をネガティブな意味でしか使ってこなかった。でも、これをポジティブな意味で使えた時、そのコミュニティは間違いなく暖かな場所になるだろう。この場所のように。

 日曜日。縁が自室で言っていた言葉にも、今なら心底同意できるな。

 ――ああ、俺も好きだ。この居間が。

 だからこそ、守りたい。

 社長が置き土産に残していった奸悪な言葉を思い出し、俺はその意志を新たにした。


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