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第六話

 俺は日曜日より土曜日の方が好きだ。なぜなら日曜日というものは翌日に、温い布団を気合で引き剥がし、約六時間の学習に励まなければいけない月曜日が控えているからだ。俺はその憂鬱を日曜日の早い段階から感じてしまう人間なので、心から休めるのは金曜日の夜から土曜日までとなる。よって土曜日の方が好きだ。

 しかし今回の日曜は、そんな憂鬱を感じる暇もなく過ぎ去っていくんだろうな。何せ、面白可笑しいリアクションがたくさん見れるだろうし。

 まだ時刻は正午を迎えておらず、今現在の俺たちは稲葉宅の正面門前で立ち止まっている。なぜかって? フリーズしている人間がいるからだ。

 そして、早速だが一つ目のリアクション。

「…………誰よ、アンタ」

 どうやら限定的な記憶喪失を煩ったようだ。いや、とある個人のアイデンティティの不一致による一時的な記憶野の障害、とでも言った方が正しいのか。誰かの添削が欲しいところだが生憎と俺の友人にサイコメトラーはいない。

 怪訝な顔をする稲葉だが、俺はどちらかと言うと日向側の人間だ。日向に同情するのは致し方ないことだろう。なんてったって実際に同情を味わったんだからな、俺は。そう考えると日向のリアクションを素直に笑う事もできなかった。

 脱水症状でも起こしたかのようにふらふら歩く日向のスピードに合わせて前進し、ようやっと辿りついた玄関の重厚な扉を開いた途端、目に飛び込んできたメイドさんがズラッと並んでお辞儀をしている映像。突然の事にビビッたのか、なんと日向は俺の背中に隠れるとシャツの裾を掴んできた。きっと己の価値観が粉微塵に破壊されて、その結果俺に縋るという未曾有の行動に出てしまったのだろう。気持ちは分からないでもないから、そのままにしておいてやる。別に他意はない。

 本日は稲葉自身が紅茶を用意するらしい。その間に恭子さんの案内で客間へと向かう。さすがに憶えてきたルートを確認しながら歩いていると、未だに裾を摘んだままの日向が俺の耳元で小さく囁いてきた。

「(ね、ねえ。私こんないつも通りの服なんだけど、大丈夫かな?)」

「(お前は俺の服装がドレスコードに引っ掛からないような上等なものに見えるのか?)」

 俺はここに来るようになって初めてドレスコードなんてワードを知ったよ。

 客間に入ると座った事もないような座り心地のソファに勧められ、完全に借りてきた猫状態の日向。

「それで」

こんな事を訊ねられたら当然うろたえる。

「お二人はどのようなご関係なのですか?」

 キュピーンと目を光らせたのは恭子さんだ。いきなりの質問にアワアワしている日向はどうしようもなさそうなので俺が答えることにした。

「兄妹みたいなもんです」

 そこから俺と恭子さんとの睨めっこが開始。……五秒……十秒……十五秒になったところで俺が無意識に土下座しようとしたところで、恭子さんは許してくれた。特に咎められるようなことは無かったはずなのに、なぜかそんなふうに感じたのは被害妄想か。

「お待たせー!」

 ガラガラとカートを押しながら突入してきたのは稲葉お嬢様。やはり稲葉が押すと音が立ってしまうんだな。メイドさんスキル恐るべし。

 それでも漂ってくる香りは本物だった。静流さんに師事して以来、家でも少し家事を手伝っているらしい。いくら断っても引いてくれなかったと恭子さんから苦笑交じりに聞いた。この香りもその成果だろう。

 日向もこういったものには目がないのか今では堪能するように香りを楽しんでいた。

 クッキーも私が焼いたんだ! とはしゃいでいる稲葉だが、見た目は良くても味は……なんて萌えスキルを発揮する事もなく普通に美味かった。

 主に学校の話題でしばらく談笑していると気付けば時計の長針と短針がピタリと重なり合うセクシーな時間となっており、そのまま昼食をご馳走になることになった。そこからは稲葉の案内で食堂へと向かう。

「…………」

 この沈黙は日向のもので、遠い目をしてどこか遠くに思いを馳せているようだった。郷愁の念に駆られるのは良く分かる。こんなものを見せられたら誰だってそうなるだろう。

 ブリタニア王アーサーが座っていた円卓を横に引き伸ばしたらこんな形になりそうな、正に『食卓』といったテーブルが眼前に横たわっていた。思うのだが、こんなにデカく作ったって手間が増えるだけだろう。明らかに人を雇える事を前提に設計されてるよな。

 席が離れていたら会話だってしづらい。なので俺は、ここで食事をする際は卓の隅の方で稲葉と一緒に食べる事にしていた。それを憶えてくれていたらしいメイドさんが既にそのように椅子を配置してくれていて、今日は俺の隣に日向の椅子もあった。

 席に就くや否や運ばれてきた料理の数々はどれも長ったらしくて憶えられそうにない名前。しかし外で食べたらどれだけ値が張るのか分からないものばかりだったので、貧乏根性丸出しの俺は全てを残さず平らげる。初めてここで食事をした時の俺の食べっぷりをシェフが喜んでしまったらしく、以来俺には大盛りで料理を出してくれるようになった。もちろん俺は残せない。更にシェフは喜んで量を増やす。完全なファットスパイラル。

 食事の終わった頃には俺の体重は普段より二キロくらい重かったに違いない。逆に緊張してあんまり食べられなかったと後悔している日向と共に稲葉に案内されて向かったのは、俺も初めて入る稲葉の自室だった。ここに来る頃にはメイドさんも全員引き上げ、中に通されたのは俺と日向だけ。

 部屋の広さは客間と同じくらいはあり、これが一人部屋って言うんだから世間は広い。壁際に並べられているのは勉強机やパソコン用のテーブル、クローゼットに本棚などで、どれもがやはりグレードが一つ違いそうなのだが、その中でも一番目を引くのがベッドだった。日向も早速それを見つけると目を眇めてとことこ近づいていく。

 それからベッドの上に取り付けられた薄っぺらいピンクのヴェールみたいなものをペシペシ叩き始めた。

「…………何よ、これは」

 きっと天蓋ってやつだろう。俺も初めて見たけどな。

 据わった目でペシペシしている日向を気味悪そうに見つめつつ稲葉は、採光のためか大きく取られた窓のそばに置いてあるガラスのテーブルセットの椅子に座った。

「康司君も座って」

 日向は一心不乱にペシペシしているので放っとくことにし、俺は稲葉の言葉に甘えた。

 目の前のテーブルには百合のレリーフが彫られており、繊細な職人技によるものだと素人の俺にも分かる。それがテーブルクロスも無しに普通に置いてあるのだから太っ腹なんだかどうなんだか。

 椅子に座ると俺は改めて部屋を見渡す。

「それにしても、……広いな」

「でしょ?」

 苦笑の形で吐き出された言葉は自嘲を多分に含んでいたように感じた。

「よく友達は広い部屋がいいって言うけど、私はそう思えない。夜とかね、寝る時に電気を消すと部屋の空気が全部私に圧し掛かってくるように感じるの。天蓋って物があるのもその感覚を和らげるためなんじゃないかって思うときがあるよ。本末転倒だよね」

 なるほど、新しい解釈だ。

「私は、あの水分神社の居間が好き」

日向が聞いたら卒倒しそうだが、幸いにも未だに天蓋にスパンキングしているので聞こえていなかったようだ。

「皆で一緒に丸い卓袱台を囲んで、皆で一緒にご飯食べて、皆で一緒にテレビを見て、皆で一緒に笑いあって。…………皆がすごく近くって」

 ……俺はこれを聞いて後悔した。

 もしかしたら稲葉は、水分神社の居間での光景を思い出して、このデカイ部屋の中一人っきりで泣いたのかもしれない。耳を劈くような静寂の中で、シーツにぎゅっと包まって枕を濡らしたのかもしれない。

 母親が早くに亡くなって。最近妹も亡くして。夜の暗い部屋で一人ぼっちであることを実感し、俺を含めた水分神社の人たちや学校の友人。そんな人たちに会えることをひたすらに想像して、稲葉を押し潰さんと迫ってくる孤独感から逃れていたのかもしれない。

 稲葉は妹が亡くなった日から、いや、もしかしたら母親が亡くなった日からずっと、その孤独に耐えてきたのだろう。それなのに、ここで働く家人たちは父親の言いつけなのか稲葉に必要以上の接触を持とうとしない。孤独に打ち震える少女を前にしても、誰も側に居ようとしない。

 これを訊ねるのは、おこがましいだろうか。

「父親の事、どう思ってる?」

 瞬間、稲葉の肩が震え、それが全身に伝播するとそのまま俯いてしまった。それでも、俺は待つ。この問いの回答を。

 さすがにもう限界だった。稲葉の前で口にはしなかったが、抱いていた不信感はとっくの昔に不快感に進化している。

 だって、どう考えたっておかしいだろ。なぜコイツが苦しんでいる時に、一番側にいるべき人間がいない。情報が行ってないのか? いや、この屋敷で働いている人全員が知らないなんてことはあるはずがない。爺やとかは知ってそうだが、あの見るからに老巧で温和そうな人物が重要な連絡を怠るとは思えない。俺に人を見る目がないだけか?

 俺は待つ。稲葉が次に言葉を搾り出すまでにかかった時間は数秒だったか、もしくは数分だったか。緊張の中でただ稲葉を見つめていた俺にはどちらとも思えた。

「……わからない」

 その答えは、答えとは言えないもの。

「わからないよ……!」

 次に吐き出したときには悲痛な叫びに変化しており、天蓋を叩いていた日向もその慟哭に気がついて驚いたように目を見開く。それからこちらへと歩み寄ってきて俺を睨め付けたが、いつになく真面目な顔で『黙ってろ』の合図を送ったら案外素直に黙ってくれた。それから二人で稲葉を見つめる。

「本当は私だって気付いてた! 私たち家族があの人にとって、ただの付属物でしかないんだって! お母さんが死んだ時も、光が死んだ時も、私が死のうとした時も! あの人は帰ってこようともしなかった! 爺やは連絡の届かないところに居たって言ってたけど、伝えても帰って来る気がなかったってこと、私だってとっくに気付いてた!」

 両の拳を太ももの上で握り締め、そこに落ちているのは空知らぬ雨。どうやら泣沢女神に気に入られてしまったらしい。

 いきなり始まった稲葉の絶叫に日向は目を丸くする。きっと今頃、高校で自殺を図ったのが誰なのか気付いたんだろう。

「そんな人を……、私たち家族を捨てた人を、父親だって思えるか分からない……! 今さら、お父さんって呼べるかなんて分からない!」

 そこからはもう言葉は繋がらなかった。俯いたままの稲葉の顔から涙と泣き声が落ちていくだけ。

 この叫びを聞いた人はどんな事を思うのか。きっと汚らわしいモノでも見るように顔を顰めるんだろうな。その時に考えているのはこんな事だろう。

『自分を生んでくれた親に対してなんてことを言うんだ。親がいなければアンタが生まれてくる事も無かったんだぞ。親は死ぬまで親なんだ。それが分かったら仲良くしな』

 …………俺には無理だ。そんな正論を吐ける自信は毛頭ない。どれだけ常識人たちが無意識の内に見ないフリをしていたって、この世には五逆を犯さざるをえなくなるほど追い詰められた人っていうのがいると思う。世界には六十億もの人がいるんだからな、億分の一の確立だったとしても六十人はいる計算になる。そして、そんなふうに追い詰めたのは何処の誰だ。ただ表側だけを伝えてくるニュースなどを見たオバサンなどは「最近の若い子は怖いわねー」でその話を終わらせるのだろう。どうしてそんな行動に出たのか、そこまで追い詰められたのはどうしてなのか、そこには完璧に知らん振りを決め込んで。

 心が幼かったのだと、子供に全責任を押し付けて。

 確かにその通りの場合もあるだろう。全ての親が悪いわけでもない。でも俺の目の前には親に傷つけられた人間がいる。常識人として稲葉の涙を見ないふりをするか、非常識人だと罵られても稲葉の涙を拭ってやるか、そんな選択をもし迫られた場合、俺は迷わず後者を選択する自信がある。

 もちろん今のご時勢で五逆を犯すことを肯定するつもりは断じてない。殺してしまってはそりゃいけないとも思う。でも、この世界はそんな綺麗でもないってことだ。無機的に書き連ねられた新聞や雑誌の文字は平気で人を傷つける。ニュースで伝える形式的な言葉は簡単に人を傷つける。それらの文字や言葉の裏にある事実には目も向けないで。

 稲葉の置かれた状況だって、そんな文書の裏に隠された真実の一つ。そして、それを隠匿した人物は恐らく――。

「…………そっか」

 これを言ったのは日向だ。何か具体的な言葉を返すわけでもなく、穏やかに一言そう言うと、稲葉の側で膝立ちになりそのまま片手で肩を抱き、もう片方の手で背中を擦ってやっている。きっとこういうところが、日向が女子から慕われる所以なんだろうな。

 稲葉が袖を濡らしている間、俺などには見せたことも無い優しい表情の日向はずっと背中を擦っていた。やがて沢泣女神も去っていき稲葉は「ありがと」と日向に囁くと俯いたまま窓に向かい、それを開け放った。最近じゃ熱量を放出しすぎて地上の民から疎ましい視線を向けられているのだろう紅橙色の太陽は、そんな疎外感が辛いのかスピードを上げて地球の裏側へと逃げおおせようとしていた。

 昼間よりは幾分涼しい風が部屋の中に舞い込んでくる。その風に黒髪を遊ばせながら稲葉が目を擦るのは、次に振り向いた時に前と変わらぬ笑顔を見せるためだろうな。

 その場で、稲葉はくるっと反転した。

「えへへ、なんかゴメンね。陰気な話聞かせちゃって」

「別にいいさ。陰気さで言ったら神社に住んでる俺たちも負けてないし。な、日向」

「一緒にしないでよ」

 空気を変えようと日向に話を振れば、俺の意図を汲み取った日向もそんなように返してくれる。お陰で、稲葉は小さくだが笑ってくれた。まあ、俺たちへの気遣いだったかも知れんがな。

 日向と目を合わせると、向こうも俺と同じことを考えている事を察する。単純な思考回路に二人で苦笑すると日向は逆光の中で微笑む彼女に笑顔を向けた。

「ねえ縁。今日の夜、ウチでご飯食べましょ?」

「ああ、そうだな。何だったら泊まっていってもいいんだぞ、縁?」

 縁は案の定、木通と郁子どっちを食べるか聞かれた子供のように縁は俺たちの顔を見比べていた。

「ん? どした」

「え、ど、どうして……名前……」

「何よ、私たちの名前に何か文句あんの?」

「ち、違う! どうして急に下の名前で……」

 縁の目元は赤く染まっており、俺は久しぶりにその頭を撫でたくなった。立ち上がると縁の元へ向かい、ビクッと肩を竦ませるのも構わずに長い黒髪を梳くように撫でる。

「急に縁って呼びたくなったんだよ。なあ、日向?」

「ええ、ホント唐突な衝動だったわ」

 そんな言葉をどう思ったのか、縁は突然大声を上げて笑い出した。俺たちも釣られて笑みを零す。しみったれた空気はもう必要ないのだ。

 一頻り笑うと、俺たち三人は本日の夕食を共にするべく部屋を後にした。ドアを開けるとその脇で待機していた恭子さんに縁は告げる。

「今日のお夕飯、日向のところで頂いてくるから」

 どうやら縁から日向の呼び名も下の名前になったようだ。

「かしこまりました」

 と頭を下げる恭子さんから縁と日向は並んで離れていく。それを見計らって一歩遅れて部屋から出たのは、頭を下げたままの恭子さんに呼びかけるため。

「恭子さん」

「はい」

 顔を上げた恭子さんは真摯な瞳で俺の目を見返してくる。まるで、何を言われるのか分かっているみたいに。

 だったら、遠慮することはないか。

「もう一度、貴女の中の優先順位を考えてみてください」

 俺は踵を返す。歩き出しながら言い残す言葉は、できるだけカッコをつけて。

「初めて会ったときに、貴女が俺に話してくれたお嬢様を想う気持ちを、俺は信じていますよ」

 そのまま前の二人の背中を追って歩き出す。

 あの日にやるやると言って結局開かれなかった保護者会は、父親の指示で爺やが根回しした結果である事を、この時背後から聞こえてきた声で知った。


 突然やって来た縁が夕食に同席する事を笑顔で承諾してくれたおばさんと静流さん。すぐに追加の材料を鍋に投入してくれる二人の背中にちょっとうるっと来てしまったのは俺の中でも何か思うところがあったのかね。

 居間で待っていると、やがてやって来たおじさんが縁を見て目を丸くし、それから顔を綻ばせた。ぐっと華やいだ簡素な畳部屋を嬉しそうに眺めている。

 運ばれてきた料理を並べつつ小皿を分けるなど手伝いを始める縁だったが、相変わらず日向の方は動く気配が無かった。神社の方の手伝いは今でも続いているが、それ以外は全くやる気がないらしい。

 しかして始まった六人での夕餉。同級生三人が揃っている事から話題は学校に関するものが多く、しかし他の三人もニコニコしながら聞いてくれていた。しばらくして我慢できなくなったのかおばさんが縁の頭をこねくり回し始めて、りんご病の如く顔を赤くする縁には申し訳なかったが、残りの四人はそれに笑いながら食事を進めた。

 料理もあらかた無くなり食後の満足感に浸っていたところで、静流さんが突然「あっ」と言って居間を出て行ってしまった。その行動のそれらしい理由を俺たちが思いつくより先に戻ってきた静流さんは手に一枚の紙片を持っており、横七センチ縦五センチくらいだろうか、その程度の小さな紙っきれだった。

「今日、神社に地鎮祭をお願いしたいって方がいらしたんですけど、その方に頂いた名刺の名前に後から気付きまして」

 名刺を差し出すのは縁の方。

「この方ってお知り合いですか?」

 結果から言うと、その名刺には居間の穏やかな空気を一瞬で吹き飛ばす、ジェット排気以上の暴力的な風力が秘められていた。

 受け取った縁はその体勢のまま硬直し、どんどんと表情をなくしていく。嫌な予感のした俺と日向が横から覗き込んでみれば、そこにはこんな文字が踊っていた。

 ――『株式会社稲葉建設 代表取締役社長 稲葉秀一郎』と。


 ググッてみたところ稲葉建設というのは最近一部上場を果した興隆著しい建築会社だそうだ。企業理念を見てみると『前例に囚われず常に新しい建築意匠を探求し、そこに人間が生きていく上での恒久的な幸福を生み出す事を目的とする』とあるので多少ベンチャーっぽいのかもしれない。ただ、時が経てば朽ちていく、広い意味では消耗品であるところの建築物に『恒久的な幸福』とか見出そうとしてる辺りなかなかにハッピーな脳ミソをお持ちのようだ。以前より海外からの発注も多くあるらしく、そんなハッピーな建物が世界中に蔓延しているのかと思うと世も末だな。

 その後について語っておく。

 停止してしまった稲葉を嘲笑うかのように玄関のチャイムが鳴らされたのはすぐ後だった。俺が仄暗い電灯に照らされた玄関の扉を開けてみると、そこに立っていたのはシンプルメイド服から黒のエプロンを外しただけのベージュワンピース姿の恭子さんで、俺の顔を見るなり開口一番「申し訳ありません!」と頭を下げてきた。

「と、当主様が……お嬢様と晩餐を共にしたい、と」

 さすがに頭に血が上ったね。何を考えてるんだ、その親父は。お前の娘が一人居なくなってんだろうが。それなのに残った娘と暢気に夕食だと。ここまで他人のことを考えられないのも珍しいな。ほんと、ふざけるのも大概にしろ。

 ――なんて、今ここで喚いても仕方ない。

「……優先順位は、変わりませんでしたか」

 もう一度、申し訳ありません! と謝意を述べてくる恭子さんの頭頂部を見て、俺も八つ当たりだったとすぐさま反省。この人にだって守るべき生活があるのだ。それなのに無理を言って苦しめていたのは他の誰でもない俺である。

だから、同じように謝罪する。

「すいません。俺も言い過ぎました」

「そ、そんな! 頭をお上げください!」

 泣きそうになりながら俺の肩を掴んで持ち上げようする恭子さん。この表情が恭子さんの葛藤の証じゃないか。きっと最後まで抵抗してくれたに違いない。顔をよく見てみれば左頬が少し赤くなっているが、その理由を訊く事はしなかった。

 でも、ここで縁を行かせていいのだろうか。しかし、行かせなかった場合、恭子さんの立場が危うくなる。どうしたものか。

 考えに考え抜いた結果、初めて恭子さんと会った時の『お嬢様の側にいてくれ』という言葉を思い出した。だとしたら俺のとるべき行動は一つしかない。あとは俺の中にあるチキンハートをどうにか黙らせるだけだ。

「恭子さん、俺も――」

「いいよ、康司君」

 しかし俺のなけなしの勇気は背後からの、優しい口調ながら有無を言わせぬ言葉にあっさり敗北した。状況を察した縁は呆然とする俺を抜き去り、靴を履くと玄関から出て行ってしまい、恭子さんも慌てて後を追いかけていく。すれ違ったのは一瞬で、その表情を見る事は叶わなかった。

 俺が想像するのは縁が見るだろう映像。水分神社の階段を一段一段降りながら段々近づいてくる真っ黒な車。それは赤いテールランプを不気味に点滅させながら少女を呑み込まんと待ち構えているのだ。この時、縁はどんな顔をしているだろうか。泣いているだろうか、怒っているだろうか、それとも無表情だろうか。それを考えると、心臓が絞られるような強烈な痛みを得た。そして居ても立ってもいられなくなる。

 まだ縁が階段の影に消えてからそんなに時間は経っていない。俺が走り出すと、続いて日向も靴を履かずに玄関から飛び出してきた。二人で階段に走っていき下を覗いてみれば、縁は中程を降りているところだった。

 今ならまだ届くはずだ。

「おい縁! 何かあったら、いや何も無くてもウチに来い! 出来うる限り早く来い!」

「そうよ! あれだけ私たちに話したんだから、一人で解決するとか格好つけるの無しだからね!」

 俺たちの叫びに縁は足を止める。そこで振り返らなかったのは彼女の強さか優しさか、もしくは強がりだったか。

 数秒そこで立ち止まり、やがて再び歩き出した。その足取りに迷いは無く、ゆっくりと自分を待ち受ける暗い深淵へ降りていき、そして漆黒の闇へと吸い込まれた。

 暗い表情で戻ってくると居間では急に出て行ってしまった縁に家人が慌てていたので、俺が一声掛けて座ってもらう。それから稲葉縁という少女のことを、その彼女の過去を含めて家族に伝えた。勝手に話す事に逡巡もあったが、この人たちなら本気で縁を想ってくれる。そう確信して、真剣に話し始めた俺を見て慌てるのを止めたおじさんは、腕を組んで目を閉じ静かに聴いてくれていた。おばさんは、これぞ親身! ってな具合に縁のことを心配してくれて、やはりというか静流さんは「私のせいで……」と泣きそうになっていたので静流さんのせいではないことを懇切丁寧に説明した。

 俺は知っている。こういう別れ方をした場合、ドラマや映画ではそれが今生の別れになったりするのだ。あくまでフィクションだと信じ切れない俺は神様に願ったりもしたが、今頃になって三輪神社と水分神社の神様がどうも喧嘩を始めてしまったらしい。その発端は多分『酒と水ではどちらが良薬となるか』とかだろうね。

 かくしてフィクションはノンフィクションへと進化を遂げ、翌日――

 ――縁は学校に来なかった。


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