第五話
俺は結構金曜日にやる気を出すタイプである。別に誰かと決戦の予定がある訳ではないのだが、何せその日をやり過ごせば待っているのは二連休。授業一時間毎に俺の頭の中にある時限爆弾みたいなタイマーは確実にその数字を小さくしていくし、どこか浮き足立っているクラスメイトの様子も俺の金曜日気分を盛り上げるターメリック、コリアンダー、カルダモン…………つまりスパイスになる。
本日は六月二十九日の金曜日。しかも明日に大きなイベントを控えている金曜日だ。この日の授業にかける意気込みも半端ではない。
午前中に待ち受けていた最大の関門であった英語も突破し、現在は一週間を戦い抜こうとしている戦士たちも小休止して兵糧を漁る時間帯、昼休みだ。
俺はいつも通り近藤斉藤と机をくっ付けると、静流さんのお手製弁当を有りがたく頂いていた。二人は登校時にコンビニに寄って確保した弁当。いつもはお握り二、三個とかで俺の弁当を虎視眈々と狙っているのに、今日はコイツラも一週間の最後という事で奮発したようだ。
「そういえばさー」
しょうが焼き弁当のメインディッシュを初っ端にほとんど消費しながら口を開いたのは近藤だ。
「明日、お前んとこの神社でお祭りあるよな?」
正しくはお祭りではないけどな。
「まあ、あるっちゃあ、ある」
そこで近藤斉藤は揃って俺に顔を近づけると、生暖かい吐息混じりに訊いてきた。
「行ってもいいよな?」
……誠に残念ながら、断る理由が無い。神社としての意義にも反する。
「………………………………来たきゃ、来りゃいいじゃん」
「それだよ、その間」
二人は椅子に座り直すと嘆息し、割り箸で俺を指してきた。綺麗に割れてないところを見ると安物の割り箸か。まあコンビニなんだから当たり前か。
「いつも口ではいいって言いつつも『来んじゃねー』オーラ出しまくりでよー。俺たち行ったら賽銭も奮発するのになぁ」
「全く全く。あんなに素晴らしいものを見せていただけるのなら賽銭に百円様を投げる事も惜しくはない」
奮発して百円かよ。祈願成就を神様にお願いして、そうして得た心の平静の対価こそが賽銭だ。心象風景の荒れ果てているお前らなら諭吉さんを奉ったって安いくらいだろう。以前にコイツラを水分神社にうっかり遊びに来させてしまった時に、ウチに降臨された女神様を拝見して味を占めてしまったらしい。今では折に触れて神社に行っていいかとせがんでくるようになった。勿論全て断ったがな。
ただ、そんなに高い額を提示したら今より更に額が安くなりそうなので慎む。どうしたって神社の門戸は開かれているのだ。行事は基本一般参加OKだし、それに託けて結局は来るだろう。ならば少しでも神社のためになってもらうのが賢明そうだ。
「賽銭百円以上、御神籤一回、御守り一個が条件だ」
「ふふん、了解了解」
「よっしゃ拝むぜー!」
何をだろうな。頼むから神様であってくれよ。
もしかしたら神様に失礼になるような二人の参詣を認めてしまった私めをどうかお許しください。
明日に控えた行事は、俺がこちらに来てから初めて参加する大きな催しだ。それ故に俺のやる気も半端ではない。そのため早いとこ帰って準備を手伝おうと、掃除があるらしいE組の二人を待つことなく俺は家路についた。
普段より早く水分神社に到着し、玄関を開けたところで俺は珍しいものと遭遇した。
「あ、お帰りなさい康司さん」
その人は静流さん……なのだが、服装が見慣れないものだったのだ。
上下ピンクホワイトのジャージにたった今履こうとしていた靴は動きやすそうなスニーカー。巫女装束の方が見慣れているのもどうかと思うが、やはりこれは新鮮だった。
「そのカッコ、どうしたんですか?」
「これから茅を刈りに行くんです。ちょっと足りなくなっちゃいまして」
明日のあれに使う茅か。確かに静流さんの足元には竹籠と鎌が置いてあった。
「でも、あれはもう完成していたのでは?」
「少し危うそうなところを発見したんです。なので補強用に」
なるほど。
「でしたら俺も手伝いますよ」
「そうですか?」
助かります、という嬉しい言葉を背中に聞きながら俺は加速装置を使った……みたいな意気込みで自分の部屋に飛び込むと、同じく動きやすいジャージ上下に着替えて玄関へと取って返す。すると俺の分の鎌を用意して待ってくれていた静流さんに全身全霊をもって感謝の意を表しつつ、並んで玄関を出て行った。
向かう先は水分神社の階段を降りて数分歩いたところにある茅の群生地。最近あまり見なくなったが、幸いにもこの場所にはまだ茅の生える原野が残っていた。
一昔前までは池だったらしいこの場所は栄養が豊富らしく、早いうちに茅が入ってきてくれたお陰で今では一大群落となっている。水分神社では毎年この時期になると、ここから茅を拝借しているそうだ。元々が水分神社に寄進された神領なので、使っても何ら問題ないらしい。
百メートル四方はありそうな広大な土地。そこから毎年使う分だけを一区画として刈り取って、次の年はまた別の区画から刈り取る。それを繰り返す事で俺たちに半永久的な茅を供給してくれているので、つまりは区画毎に現在の茅の高さがまちまちなのだ。
既に刈り取った今年の分の茅。その次に長い区画から少しだけ確保する事にした。
俺と静流さんは並んでしゃがみ込み、茅の生長点ごと刈らないよう気をつけながら集めていく。それを一人十株くらい刈り取ったところで、静流さんからOKサインが出た。
「このくらいで、もう大丈夫ですよ」
「了解です」
凝り固まった肩を回していると、隣では静流さんが両手指を組んで大きくノビをしていた。んん~、なんて可愛らしい声を漏らす横顔は満足感に満ちていて、見ているこちらまで幸せになれそうだ。俺の場合、静流さんの傍にいる時はいつも幸せになってますがね。
いつしか太陽も傾いており、今では俺たちの真正面から挑みつけるようにオレンジ色の光線を放っているが、爽やかな表情の静流さんは『本日もお勤めご苦労様です』と語りかけるように淑女の笑顔を向けていた。太陽だって益々赤くなるってもんだ。
「感謝、しないといけませんね」
唐突にそう切り出したのは静流さんで、目線は太陽をお見送りする方向のまま。
本当に突然の事だったので、俺は反応を示すのに多少時間が掛かった。
「……、……何にです?」
「何もかもに、ですよ」
額に滲んでいた汗をジャージの袖で拭いながら、
「私たちに恵みを分け与えてくれるこの大地に。私たちを今日も生かしてくれるこの世界に。そして――」
それから、俺だけにそのとびっきりの笑顔を向けてくれた。
「いつも私を助けてくれる、康司さんに」
これ以上の殺し文句ってあるのだろうか。
「それに私は、自分の生い立ちにだって感謝しているんです」
はにかみながら胸元で指を組む。なんだか気恥ずかしい事を告白するように。でも太極の笑顔は消えることはない。
「両親は私が大学に行かなかったことを気に病んでいるみたいですけど、それは私自身が決めた事です。私の進みたい道はそんな所にではなく、私の生家にありました」
そう言って水分神社のある方角に目を向ける。ここからでは背の高い杉林の影になって見えないが、確かにその表情は感謝に満ち満ちていた。
「こんな素敵な気持ちを教えてくれた両親に、そして『神道』というものに、私は本当に感謝しています」
俺は今まで、この人は強い人なのだと、漠然とそう思っていた。きっと大変な努力をして今の自分になったのだと。だが、どうもそんな難しい話でもないようだった。
きっとこの人は誰よりも生きていることを楽しんで、満足している。
静流さんの笑顔の裏にあったのは強さだけじゃなかったのだ。勿論強さもあるだろうが他にも誇りや喜びなどなど、それらの明るい感情が合わさることで面に出てきたのがあの瑞々しく優しい笑顔だったのだ。
もしかしたら、それらの言葉は世界の暗い部分を知った稲葉からすると受け入れられるものではないのかもしれない。でも、だからこそ俺はこれからも二人に一緒にいて欲しいと思う。静流さんの世界はポジティブに傾き、稲葉の世界はネガティブに傾いている。相容れないように思えるこの二つの価値観をお互いに認め合えた時、きっとそこには素敵な優しさが生まれるような気がする。
「……そうですね」
俺は感慨深げに呟いて、静流さんと目を合わせると微笑み返した。
やっぱり静流さんは凄い。その認識を新たにして、俺は今の会話の余韻に浸るように反芻していく。そして結果――顔を赤らめる事になった。
……何だか、俺今めっちゃ恥ずかしいこと考えなかったか? 素敵、なんて柄にもない言葉を思い浮かべた気がするぞ。そして極め付けが、
「それに、もし私が水分神社に生まれなかったら康司さんとの『縁』も繋がらなかったんですもんね。やっぱり、感謝感謝です」
もう正面から静流さんの顔を見られなかった。
「あれ、どうしたんです? 顔が赤いみたいですけど……」
素でこういう事を聞く人なのだ、静流さんは。元はといえば貴女の気恥ずかしいセリフが原因だというのに。
「ゆ、夕日のせいですっ!」
我ながらバッチリな言い訳をして、足元の竹籠を持つと先に歩き出した。小走りに隣に並んでくる静流さんは不思議そうに首を傾げていたが、もちろん本当のことなど言えようはずもない。
ただ、二人並んで夕焼けの中、影を重ねつつ歩く時間は、そう悪いものではなかった。
遂にやって来た明くる日。六月の晦日である。俺は遠足前日の小学生のように眠れなかったのだが、この神社での初めての大きな行事だ。顔を洗って気合を入れなおした。
本日水分神社で開かれるのは『夏越の祓』である。これは特にこの神社特有の行事などではなく、遍く全ての神社でこの日に執り行われ一般参詣者の穢れを祓う大祓の神事だ。
そして、その一番の目玉といえば――
「「でっけえええええええええ!」」
と近藤斉藤の友人二人が驚嘆しているでっかい物だ。
「なあなあ、何だこれ!」
「これは『茅の輪』だ。茅で作った輪っか。これをくぐって穢れを祓うんだ」
はしゃぐ友人二人に、正装の俺は苦笑した。
「なあなあ、もうくぐっていいのか?」
「そうだなぁ。正しいくぐり方とかあるんだけど、簡単なのでいいよな。お前らだし」
「ん? 今馬鹿にされた?」
「気のせいだ」
肩をすくめると俺は『茅の輪』を示した。
「普通に一方向にくぐるだけでいいんだ」
「へえー、簡単だな!」
「もっと難しい作法とかあるんだと思ってた!」
やはりこっちで正解だったか。流石は学校でも伝説のアホ二人。
おっかなびっくり足を上げ下げしている可笑しな男二人に聞こえないようもう一度苦笑を漏らしながら、俺は境内の中を見渡した。
予想通りだが、やはり若い人の姿は年配の方に比べて少ない。俺と関わっているので他の人より多少神社について知識のある二人も今日の行事が『夏越の祓』だって知らなかったし、それだけ若い人の意識から神社が離れてきたってことなのか。関わっている人間としては寂しい限りだ。午後からおばさんが『夏越の神楽』を舞う予定になっているが、そこで人が増えるとは神社離れを痛感した今では考えにくい。
寂寞の思いに湿りがちになった心を振り払うように騒がしい友人二人に目を戻してみると、くぐり終わってから何かを探すようにあたりをきょろきょろしていた。そして、もう既に人だかりができている一区画で視線を固定する。そこで俺は溜息を吐いた。
そうだ、そもそもコイツラだって『夏越の祓』自体が目当てじゃないんだった。
きっと驚いた事だろう。コイツラの目当ての人の他に二人も、知っている人物が巫女服着て接客しているんだからな。完全に停止してしまった二人の元へと俺は向かうと、その肩を叩いてやった。瞬間、電流を流された蛙のようにビシッと背筋を伸ばす。
「二人とも、お参りは済んだのか?」
「あ、ああ。ちゃんと百円入れたぞ」
「なら後は御神籤と御守りだな」
喉を鳴らした二人の背中に手を添える。せいぜい神社の経済を潤してもらおうか。
「そういえば、最近の神社ってどこも財政が厳しいらしいぞぉ。たくさん買ってくれたら売り子も喜ぶだろうなぁ」
そう言って押し出す先は、人だかりのできている方向。静流さんと日向に加えて稲葉までが売り子をしている授与所の方だった。
悔しいが、近藤斉藤と同じ考えの人間が多いこと多いこと。完全に神社本来の意味を忘れているな。ここはコスプレ会場じゃないんだっつうの。
俺は『茅の輪』の側に控えてくぐる人をサポートしながら、もし授与所でフラッシュが焚かれたらその瞬間、懐に隠してある針でカメラを打ち抜き鉄くずに変える決意を固めておく。まあ幸い、その辺りは弁えてくれたのかフラッシュが焚かれることは無かった。
ちらちらと授与所の様子を窺っていると、気付けば神楽殿でおばさんが『夏越の神楽』を舞い始める時間になっていた。
優雅に舞いながら、しゃんしゃんと神楽鈴を鳴らす。
そちらを見てみれば熱心に見物する参拝客もいることにはいるのだが、やはり圧倒的に多いのは何事かとそちらを一瞬だけ見てすぐに興味を失ったように顔を逸らす人の姿だった。そして、そのほとんどが若い人である。
こんな伝統芸能には興味なんて無いんだな。
認めたくないものだが認めざるを得ない。きっとこれが現代人の普通の感覚なのだ。嘆かわしい事に。
ふと上空を横切った祥雲の影に取り込まれたので見上げてみると、青空の中に縁起の良さそうな饅頭型の雲がフワフワ浮いている。その周りは確かに澄み切った蒼穹のはずなのに、俺には玄雲に覆われた灰色の空にしか見えなかった。
耄碌が始まったのかね。
「…………何だかなー」
「どうかなさいましたか?」
「ぬおう!」
アンニュイな感じで考えていたボヤキが口から出ていた事に話しかけられてから初めて気付いた俺。そして、話しかけてきた人物は――
「きょ、恭子さん! いらしてたんですか!」
「はい、お嬢様のご様子を窺いに」
「……さ、左様でございますか」
あれから何度か足を運んだ稲葉邸にて聞きなれた丁寧語だが、やはり聞いているとこちらまで丁寧になってしまう。まあ丁寧になる分なら問題ないか。
恭子さんは早速稲葉のいる授与所に目を向けるかと思いきや意外、左手方向で行われている神楽に見入っていた。
「あれは……神楽というものですか?」
「え? え、ええ。そうですよ」
「ですが、神楽というのは神を鎮めるために舞われた演芸だと聞き及んでいるのですが、それを何故参拝客の穢れを祓う『夏越の祓』で舞う必要が?」
興味を持ってくれているらしい。しかも質問が結構ハイレベルだった。答え甲斐もあるってもんだ。
「それはですね。この行事自体が元々邪神を和めるために行われた神事だったからなんです。むしろ『茅の輪』くぐりの方が後から付け足されたものですね。だから『夏越の祓』で『夏越の神楽』を舞うのは至極当然のことなんですよ。ちなみにこの『夏越』という名称も『和める』から付けられたとされています」
ふむふむ頷きながら「そうなのですか」と真剣に聞いてくれていた恭子さんは今の俺にとってこの上ない精神安定剤となった。例え一時だけだったとしても実際に神社に興味を持ってくれている人を見ると心が癒される。
俺が心の中で謝意を述べていると、恭子さんは次こそ人垣のできている授与所に目を向けた。その人の多さに目を丸くしている。
「盛況のようですね」
それは単純な感想か、それとも裏事情を察した上での皮肉か。恭子さんの人柄を考え、俺は前者であると信じる事にする。
「三分の一はお宅のお嬢様のお陰ですよ」
「そうなのですか?」
爪先立ちになって授与所内を覗こうとする恭子さん。目的のお嬢様を発見する事ができたのか、ふっと表情を緩めた。
「ふふ、楽しそうです。ここでの生活はお嬢様にとっても充実なさっているようですね」
「だといいんですけど」
俺は初めて稲葉邸にお邪魔した時に恭子さんと交わした会話を思い出していた。同じことを思い浮かべていたらしい恭子さんと目を合わせるとお互いに微笑を交換した。
確かに稲葉は水分神社に来るようになってから少しずつだが変わってきたように思う。俺はそれに二つの理由があると考えていて、一つ目は静流さんに師事しての家事修行。静流さんの仕事に付きっ切りの稲葉の手際は傍目に分かるほど良くなっていた。稲葉自身もそれを感じているらしく、最近ではより一層身を入れて修行に励んでいる。そして二つ目が日向の存在だ。顔を合わせては口喧嘩ばかりしている二人だが、それがいい感じに稲葉の感情の吐き出し口になっているようだ。最近では学校でもお互いの友人グループ含めて仲良くしているようで、巷では同盟を組んだという噂がまことしやかに囁かれていた。何の同盟なのかは知らん。
これはきっといい変化だろう。俺も授与所の方を見て齷齪と働いているだろう稲葉の姿を想像して頬を緩めた。その時。
「ところで」と真顔に戻った恭子さんが俺に向き直った。
「気掛りがお有りのようにお見受けしましたが」
「はい?」
と返したところでさっきのアンニュイな呟きを聞かれていたことを思い出した。
しかし、思い出したところでどう言ったものか。
「あー、お気になさらず」
「そういう訳には参りません。私は使用人の身分を越えて大神様にお願いをした身。その大神様が困っていらっしゃるのを見過ごすことなどできません」
だそうだ。しかし、こんな大きな問題の解決策などそう簡単に見つかるわけではないんだから、誰かに聞いてもらったところでタダの愚痴になる気がする。
「聞いてもらって、すぐに解決する話でもありませんし……」
恭子さんはしつこかった。「それでも、是非」
こうなったら俺の特殊スキル『婉曲表現』を使用しよう。
「そうですねー……。日本人の誰もが洋服を普段着として着用するようになった昨今ですが、そんな状況にあってもう一度和服に目を向けてもらうにはどうすればいいんでしょうか? ……ってな話です」
どうだ、これが俺の『婉曲表現』の真骨頂。もはや疑問の原型を止めているのかも定かではない。……それじゃだめじゃんってツッコミは止めろ。
ところがどっこい。そんな俺の意味不明な言葉にも顎に手を当てて真剣に考え始めてしまう恭子さん。そこまで真面目に考えてもらっちゃうと俺の心にも罪悪感が……。
間もなく恭子さんは思考の淵から戻ってきた。
「……当たり前の回答になってしまいますが、やはり和服の良さを喧伝していくしかないんじゃないでしょうか」
まあ俺の質問も質問だったから、そんな当たり前が妥当な答えでしょう。
「ですが」
ん? ここで否定の接続詞を入れてきた。
「日本人が『和服はいいものだ』っていう確かな価値観を持っているなら、あえてそれを積極的な行動に移させる必要はないように思います。その価値観があるなら、日本から和服が無くなることはないんですから」
……目からウロコが落ちたね。確かにそうだ。街中で和服を着ている人なんて全くと言っていいほど見かけないというのに、なぜそれは今も無くなっていない?
そこから派生して考えたのは、どうして若い人は神社から離れていっているのに、神社という名前や場所を知っているのか、ということ。それはきっと、神社が俺たち日本人の生活と寄り添っているからだ。お祭りや縁日の際には由緒など知らなくとも出店の並ぶ参道を楽しそうに見回しながら歩き、正月には家族揃って神社にお参りに出かける。これはきっと何年経っても日本から消えることのない文化だろう。
あの授与所の前に並んでいる人たちもそうだ。彼らは神社に勤める女性の正装が巫女装束だと知っているからこそ、今日も神社にやってきたのだ。でも、それを知っていたのは何故だ? それが知ろうとしなくても知ってしまうほど近くに存在しているからだろう。
――なんだか大丈夫そうだ。素直にそう思えた。
ほんのちょっと視点を変えただけなのに、こんなにポジティブな考え方ができるようになるなんてな。まだまだ捨てたもんじゃないじゃん、神社も。
「なるほど……」
いつしか思索に耽っていた俺の面はアホ面だったと思うが、その表情をどう判断したのか、恭子さんには珍しく不安そうに俺を訊ねてきた。
「あの……、こんなもので、参考になりましたでしょうか?」
初めて聞く自信のなさそうな声。それを吹っ飛ばすように俺は出来る限り快心の笑みを浮かべた。
「ええ、かなり」
これは心からの本音。恭子さんのお陰で気付いていなかった神社の価値を見つける事ができたんだから。
俺の笑みに釣られるように恭子さんは草原を撫でる暁風みたいな涼しげな笑顔に戻っていく。安心した様子で頷くと、それからお参りをして茅の輪をくぐって早々に帰ってしまわれた。お賽銭に硬貨ではなく紙幣――しかも諭吉さんが見えたのは気のせいだろうか。
しばらく後に帰ってきた友人二人は完全に大口を開けて呆けており、その手に握られていた戦利品は俺の出した条件の五倍であった。五枚の御神籤(二人共に大吉と大凶両方を当てるという快挙を達成)と五個の御守り(なぜ安産の御守りを買った)を手にして楽しそうに語る二人の土産話を話半分で聞いていると『夏越の祓』も終了の時間となった。
夕日の光を浴びながら浮き立った足取りで帰っていく二人を見送りつつ、急に静かになった境内を見渡す。授与所や神楽殿の前に目を向けてみれば、大勢いた人たちの幻が見えそうになるくらい俺の目と耳には昼間の喧騒が残っていた。石畳には、多くの人が歩いた事を示すように土埃がこびり付いている。
何だかんだで一杯の人が来てくれたんじゃん。恭子さんの話を聞いていなかったら、今頃こんなふうに思えなかったかもしれない。
参拝者が全員帰った事を確認して俺はおじさんと一緒に『茅の輪』を片付け始めた。ふっと授与所の様子を見てみると、中で日向と稲葉が机に突っ伏している。静流さんがいないと辺りを見回してみれば、既に竹箒を持って境内の掃除に取り掛かっていた。今回はさすがに倒れている二人に同情するな。あれだけの人を捌ききった上で笑顔も絶やさず掃除に精を出している静流さんの方が凄すぎる。ホント、心配になるくらいのハイスペック。
今日のうちにするべき事はあらかた終わり、おじさんは今日の経理を、おばさんと静流さんはお勝手で夕食の準備をしている。俺はというと授与所から覚束ない足取りで戻ってきた二人と共に居間でダレていた。ただ、全身を包むこの疲労感も今日の盛況の反動だと思えば気持ちいいものだな。
卓袱台に頬杖をついていた日向は不意に復活を果たし、おもむろに煎餅を掴む。口を開いたのはそれを齧るためだと思ったのだが、そうではなくて言葉を投げるためだったようだ。……俺に向けて。
「ねぇ康司ー」
「んー……?」
「あの女の人、誰?」
びくっと震えたのは残り二人の肩。
「綺麗な人だったねぇ。お姉ちゃんと同じかちょっと上くらいの」
続いて稲葉がゆらーりといった感じで身を起こす。その様はさながらゾンビ物のホラー映画かロボット物のパニック映画を想起させ、今なおうつろな目で左右にゆらゆらしているので、どちらかと言うと前者のイメージが強くなった。
「その話、私も聞きたいなー」
まあ、日向が言っているのは十中八九あの人のことだろう。というか、そうでなかった場合俺に思い当たる節は無い。疚しい事など無いのだから正直に言って問題ないはずだ。
「あれは恭子さんだぞ」
「え? 恭子さん来てたの?」
「おう、稲葉の晴れ姿を見に来たんだそうだ」
「ちょっと」
俺と稲葉共通の知り合いだと理解したらしい日向は俺への刺々しい視線は収めたが、追及の手を緩めはしなかった。
「誰よその、恭子さん、っていうのは」
「私の家のメイドさん」
「は?」
日向は今しがた咥えた煎餅を取り落とした。それから眉間に皺を寄せそこを指先で解していたが、やがて意を決したように稲葉に向き直る。
「なんだか今、メイドさんとか非現実的なワードが聞こえた気がしたんだけど……?」
否定の言葉を待ち望んでいた日向に返ってきたのは「なに意味分からないこと言ってるの? この人」的な稲葉の怪訝な顔だった。それに呆然とする日向だが、大丈夫。お前の価値観は現代日本人として正しいものだ。
「日向って、稲葉の家行ったことあるのか?」
「え? な、ないけど……」
「だったら明日にでも行ってこいよ。お前の常識が完膚なきまでに破壊されるから」
「……あんまり行きたくないんだけど」
無視して稲葉に許可を取る。
「いいよな?」
「うん。いいけど…………康司君も一緒に来て欲しいなー、なんて」
「おう。了解」
「ちょっと」
日向は自分を蔑ろにして会話を展開されるのが嫌いらしい。俺に向けて手に持っていた茶色い円月輪を放ってきた。完全に俺の専売特許となっている円月輪キャッチは既に達人の域に達しており、人差し指と中指で挟むという高等技術でもって対応。もちろん食べ物は粗末にするべからず。豊受大神に感謝しつついただく事にする。咀嚼して嚥下。
「そんじゃ、明日は稲葉の家だな」
日向は真っ赤になっており、そんなに怒るほど嫌なのかと訊ねてみたところ首を横に振ってきたので、問題なかったらしい。
稲葉までが顔を赤くして頬を膨らませていたのは俺の理解の及ぶところではなかった。