第四話
――どうしてこんなことになってしまったのか。
ここは水分神社の居間。そこに集まっているのは俺と、俺の正面に座っている日向。
そして――
「あらあら」
と困り顔で頬に手を当てている静流さんと、
「お願いします!」
と床に三つ指体勢で静流さんに何かしらの懇願をしている稲葉の四人である。
もちろん理由は分かっている。俺の目の前で素知らぬ顔のまま煎餅をバリボリ咀嚼している都市問題が原因だ。
俺はそんな都市問題から目を逸らすと、外の宵闇に視線を向ける。
ここで今一度回想を試みることにしよう。一部、というか大分、伝聞が入っているが悪しからず。
…
……
………
稲葉がお嬢様であるという爆裂アイデンティティが発覚してから一週間が過ぎた今日。いつものように視線で急かされるまま朝食を食べ終えて社務所を出た俺と日向は、並んで階段を降りる。その降りた先、鳥居の下で日向ゾーン崩壊因子であるところの稲葉が待っている光景も見慣れてきた今日この頃であるが、この日に限ってその因子は望まれた結果を導くことができなかった。
思えば、ここから伏線は張られていたのだろう。
階段を降り切ったところで俺と稲葉がにこやかに話している。いつもならここで、日向は何かしら言い残しながらも先に出発するはずだったのだ。もちろん、そんな決め事などがあった訳ではないのだが、暗黙の了解でそうなっていたと俺も稲葉も経た時間の流れの中で思い込んでしまっていたため戸惑いを禁じえなかった。
「あ、あれ……? かっ葛城さん、先に行かないの?」
「なんで? あたしだけ先に行かないといけない理由でもあるの?」
「い、いえ……、ないけど……」
こう返されては稲葉も二の句が継げない。
「だったら早く行きましょ」
次に日向が標的に選んだのはもちろん俺で、その視線によるプレッシャーには『早く行け』のメッセージが込められていることを敏感に感じ取ったマイチキンハートは反抗することをしなかった。
早速通学路を歩き始めると、俺の右隣に日向が寄ってきた。いつも俺の右隣を歩いていた稲葉は負けじと俺と日向の間に身体を捻じ込み強引に入り込んでくる。そんなこんなで稲葉を中心に据えて左隣に俺、右隣に日向の奇妙な隊列が完成した。
何故か必死な感じでしきりに俺に話しかけてくる稲葉には申し訳ないとは思いつつも、俺は朝から様子のおかしい日向の素振りを横目に観察していた。するとどうやら日向は科学者にも似た観察眼で稲葉の姿を見ているようだった。如何な理由かは俺にも分からん。
学校への通学時間一杯その陣形が崩れることはなく、下駄箱の前でクラスの違う二人と別れるまで傍目から見たら俺のハーレム的状況は存続された。が、内実ギスギスしていた空気は朝っぱらから俺のただでさえ貧困な精神力を著しく消耗させたのだった。
三人での登校の様子をクラスの男子に目撃されていたため、教室に到着すると俺が賓客となって熱烈な歓迎セレモニーが催されたが、そんなものは全く以って本題ではない。
噂によると、今日の日向の奇行っぷりは凄まじかったらしい。
ここからは、E組の男子から回ってきた話である。
E組は一時間目の授業が数学だったそうだ。情報の発信元である男子が先生の板書を一生懸命ノートに書き写している最中、目の前を飛来している小物体に気付いた。さりげなくその発射地点と着弾地点を特定した彼は戦慄する。
それが、葛城日向→稲葉縁だったのだ。
三人での登校の噂は今朝のE組瓦版でもトップニュースを飾っており、それを見たクラスメイトの総意として『修羅場だ……!』という認識になったらしい。その矢先に起きた事件だったので、男子生徒は『遂にこの牧場みたいな平和なクラスでもイジメ発生か!』と途中からブルブル震えていた。ちなみに日向の立ち位置は牧羊犬らしい。
しかし、よくよく見てみるとその小物体は髪の毛に引っ掛かりやすい消しゴムのカスなどではなく小さく丸めたノートの切れ端で、しかも正確には稲葉の机の上に向けて投擲されていたので、それほど陰湿でもないのかと男子生徒は胸を撫で下ろした。加えて、そこには何か文字が書かれていたようで、何かのメッセージかと思ったらしい稲葉が一枚一枚開いてはノートの隅にそれを書き連ねていった。
授業開始から三十分が経過した頃、ようやく日向の一人小物体投擲競技は唐突に終了を迎え、その試技回数は延べ三十回以上に及んだという。稲葉の机の隅に重ねられたノートの切れ端は、皺が寄っていたこともあって高さ五センチくらいにはなっていた。
それからの稲葉は授業そっちのけでメッセージの解読作業に移る。そのまましばらく時間が経過し、丁度授業終了のチャイムが鳴った頃。
稲葉がグシャッと切れ端の束を握りつぶした。その力の入れ具合といったら彼女の普段の様子からは想像できないもので、白磁の肌に青緑の血管が浮き出ていたそう。
クラス委員が号令を掛け、礼を済ますと同時に稲葉は俯いたまま日向の元へと向かい、その腕を掴むと鬼気迫る勢いでどこぞへと連行していった。
二人の友人各位は、その際に何をしていたのか、とても訊けなかったそうだ。
――目が怖くて。
二限目は化学。担当の教師が危機感というネジのぶっ飛んだ人だったのか内容も王水を作るとかいう実験だったため、ここで何かちょっかいを出したら洒落にならない惨劇を引き起こすと懸命にもマトモな判断をした日向は授業中ずっと大人しくしていた。
イジメ疑惑も自分たちの思い過ごしだったのかと誰もがほっと一息ついただろうが、次なる魔獣は三時間目の体育の授業場所であるグラウンドにて伏臥しながら鋭い牙に涎を滴らせていたのだ。
男子女子共にグラウンドでのソフトボールをすることとなった体育の授業。当然男女混合で行うはずもなく、近隣の他の高校生からも広いと羨まれるグラウンドをフルに使って男女別れての試合が行われた。
情報発信元の彼以外にも一時間目の一件で怖いもの見たさに走る蛮勇な男子はいたらしく、その彼らと共に女子の試合を覗いてみると、なんとそこでも悲劇は発生していた。
チームメイトからピッチャーを任された日向は最初、普通に『まあこんあもんでしょ』くらいの力で投げていたのだが、偶然にも相手チームになった稲葉がバッターボックスに入った瞬間、セットポジションが変わったらしい。その堂に入った素晴らしいフォームから繰り出されたのは――
「ぎゃっ!」
と稲葉がらしくない声で仰け反ってしまうほどの顔面近くへと伸びていく剛速球だった。
奇しくも相手チームにいた、ソフトボール部でも次期エースと目されている少女が、青ざめながら「百十キロくらい出てたかも……」と呟きつつその場にへたり込んでしまったのはカワイそうだったが『やはりイジメは発生しているんだ……!』と確信した男子たちもまた、イジメる側の圧倒的な迫力に当てられて身体を小刻みに震わせていた。
授業終了後。稲葉は再び俯き加減で日向の腕を掴むとどこぞへと連れ去っていったが、勿論のこと誰もそこで交わされた会話の内容を知らない。
運動の後というのは三大欲求の中でも睡眠欲がむくむくとその勢力を活性化させる時間帯だ。四限目ということで食欲との激しいデッドヒートを演じたみたいだが、その授業が古文という催眠効率の良い内容であったため、ほとんどの生徒が睡眠欲を優先させた。
体育の授業で獅子奮迅の如き活躍を見せた日向も、もちろん睡魔の誘惑に負けて眠りこけていたので、稲葉にとっては今日初めての安息の時間となったに違いない。
この後に、本日最大の難関が待ち受けているとも知らずに。
昼休み。いつも通り友人たちと机をくっ付けてランチタイムに突入しようとしていたところに声が掛けられた。
「稲葉さん、一緒にお昼食べましょ」
「は? え、ちょっと……!」
了解を得ないままに強引に椅子を割り込ませ、自分の弁当箱を広げてしまった日向。こうなってはしょうがないと稲葉グループも自分たちの弁当を展開し始めたが、やはりその表情は引き攣っているように見えた。
一緒にお昼と言っても特に日向が会話に参加することはなく、時々自分の弁当の中身を口に運びながら、ただじっと稲葉の様子を観察していたらしい。その時の空気といったら居たたまれないことこの上なかったろう。稲葉を思ってのことか、それともただタイミングを逸しただけなのかは分からないが、それでもその場を離れることをしなかった稲葉の友人たちに敬意を表したい。
もうすぐ昼休みも終わるという時刻になって、稲葉の友人たちはようやく解放されると表情の緊張を解いた。しかし、そこで口を開いたのが葛城日向。
「ねえ、稲葉さん。そのお弁当って誰が作ったの?」
緊張が緩んだところに突然訊ねられ、稲葉は特に裏を考えることもなく正直に答える。
「え、こっこれ? 家の人が持たせてくれたものだけど……」
稲葉の口から飛び出た『家の人』というフレーズに眉を顰めた日向はしかし「そう」と短く答えるとそれっきり興味を失ったように自分の弁当箱を片付ける作業に戻ってしまった。なぜそんな質問をしたのか皆目見当もつかない稲葉が消化不良になったのは言うまでもない。
そんな意味深な会話のあった昼休みの後、それを伏線としてどんな奇行に走るのかと注目していた情報発信元の彼だが、予想に反して日向が行動を起こすことはなかった。それを受けて五時間目の授業である歴史の授業中も全く身が入らずにただ悶々としながら過ごしていた稲葉だが、その五時間目終了後に新たな展開が待っていた。
稲葉が日向の席の横を通り過ぎた刹那、はっきりと聞こえる声で呟かれたのだ。
「……これじゃあ無理ね」
周りで聞いていた人にはサッパリな内容だが、それに人一倍反応したのは渦中の稲葉。離れかけたところから映像を巻き戻すように日向の席までバックで戻ってくる。
「ど、どうゆう意味よ!」
「分かってるくせに」
今日一日の自分の素行、そして脳裏に浮かんだ『貞淑』の二文字に、くっ、と稲葉は歯噛みする。それを見てニヤッとした日向は次いで慈愛に満ちた聖女のような優しい笑顔になり、こう語りかけた。
「今日、授業が終わりましたら私の家にいらっしゃいませんこと? 面白いものが見られますわよ」
気色悪いだけの口調の変化に身を引きつつも、どう言ったところで、それが何であるか興味津々である稲葉は『しょうがないから聞いてあげるわ』的に斜に構えながら尋ねる。
「ふ、ふん。何よ?」
そして、日向はこう答えた。
「アイツの好みど真ん中の人」
六時間目の間中ずっとトイレでも我慢しているようにソワソワしていた稲葉だが、居ても立ってもいられない心境でありながら無断早退するような不良生徒になる事もできず、明らかに高校レベルでないエントロピーとかいう理論について熱く語る物理教師の必要性を高校一年における熱力学第二法則の重要度と同レベルだと判断してからは、ただ早く授業が終わらないかと時計ばかり見ていた。
なんてことを伝聞最後のエピソードとして、また意識は俺の元に戻ってくる。
これらの真偽の程は定かではないが、内容を聞く限り、果てしなく真に近い話であると俺は確信している。何せ、日向だからな。
この噂を伝えに来てくれた男子生徒は般若の笑顔を浮かべつつ砕かんばかりの強力で一度俺の肩を握ると去っていった。きっとこんなものは、これから俺に降りかかる災難のほんの氷山の一角に過ぎないのだろうな。くわばらくわばら。
放課後。俺が下駄箱で靴を履き替えていた時、後ろから物凄い足音が聞こえてきたと思ったら、それは止まる気配などないまま俺へと直進してきた。さすがに避けようかと考えていると目の前でようやく急ブレーキを掛け、しかし止まりきれずに前につんのめりながら俺の腕に縋り付いてきたのは、あの話を聞いた後ではアイツしか考えられない。
「こ、康司君……!」
その顔が上気しているのはただ走ってきただけなのだと思いたいところだが、生憎と俺の脳ミソはそんなに楽観的じゃない。その後ろから日向が付いて来ている事実からして、どうやら決定的なようだ。
「今日、康司君の家に行っていい!?」
ほら来た。チラッと稲葉の向こうにいる日向を睨むが、ヤツは口笛なぞ吹きながらそっぽを向いている。話になりそうにないので目の前にいる稲葉へと目を戻すと、その赤く潤んだ瞳を、懇願するような表情を見てしまい、俺は何も言えなくなった。
「いいよね!」
因幡の素兎を放っておくことのできない俺は根っからの大国主気質なのだと理解しつつ稲葉の頭を撫で、それから苦笑すると言葉を返す。
「おう、別にいいぞ」
と、答えた瞬間首に衝撃を感じた。何が起こったのかと視線を下ろしてみれば何者かの細い腕が俺の喉仏を潰している。そんな凶悪ラリアットをかましてきたレスラーはリングネーム『緋糸愛乱弩』で、そのままチョークスリーパーの体勢へと移行すると、さすがに死の恐怖を感じた俺は全身全霊をもってソイツを引き剥がした。
「さっさと行くわよ」
解放するや否や俺の右隣に付く日向を仇敵でも見るような目つきで睨みながら、稲葉は朝の如く強引に割り込むと視線を俺に固定した。
俺と稲葉の会話の途中途中に茶々を入れてくる日向のせいで結局は二人の口喧嘩に終始した家路も終わりを迎え、水分神社の鳥居をくぐると階段を上る。
何も咎められる謂れは無いはずなのに二股をした男の気持ちを理解してしまった俺の心。そんな傷付いた心を癒してくれるものが何かないかと考えを巡らせながら階段を上りきると、そこで――
――水の妖精さんに出くわしました。
俺たちの前にうっかり姿を見せてしまった悪戯好きの妖精さんは赤と白の燐光を纏って楽しそうに周囲に水を撒き散らしていました。
……まあ、単に静流さんが巫女装束着て打ち水をしていただけなのだが、稲葉の心理的に受けた衝撃を加味して少しばかり脚色した。
稲葉のショックに付き合う形で俺たち全員が呆けていた時間は数秒。その間に、静流さんの方が俺たちの帰宅に気付き、こちらへと寄って来た。いつもと変わらぬ澄み切った笑顔を湛えながら。
「あら、お帰りなさい。康司さんに日向ちゃん。二人で揃って帰宅なんて珍しいですね」
ある程度近づいてきたところで俺たちの後ろにもう一人控えているのが目に入り、静流さんは舗道の端っこで力強く咲いた一輪の蒲公英を見つけたように笑むと首を傾げた。
「あら、そちらの方は?」
「はうっ……!」
一歩近づくと仰け反った稲葉に、さすがに奇妙そうな顔をする静流さん。しょうがないな、目の前で見知らぬ少女がエビゾリしてりゃあそりゃ不気味ってもんだ。
あと稲葉。階段でエビゾリすると危ないぞ。エクソシストじゃないんだから。
「あ、あの……?」
不気味でもなお近づこうと努力する静流さんの心意気には感服するのみだが、
「はうっ!」
だから、仰け反るのは止めろって。
このままでは話が進まないので俺がエクソシスト少女の簡単なプロフィールを話すことにする。
「こいつは友人の稲葉です」
「どうしても遊びに来たいって言うから連れてきたの」
そこで静流さんは得心がいったように頷いた。
「まあ、そうなんですか。見ての通り何も無い所ですがゆっくりしていってくださいね」
神社があるではないですか。俺たちの目の前で変わらぬ偉容を見せ付けている神社が。それとも、神様にでさえ謙譲を迫ったのか。なるほど、俺は静流さんこそがヒエラルキーの頂点に君臨する人なのだと畏敬の念と共に納得した。神様だってこんな、寂れた池に一輪だけ咲き誇っている芙蓉みたいな女性の言葉を蔑ろにできるはずはない。
「はっ……、はひっ!」
緊張のあまり返事を咬んでしまった稲葉はその恥ずかしさからか顔を茹で上げられたロブスターのように真っ赤にして再び硬直。怪訝な顔をする静流さんに「コイツ、ちょっとあがり症なんで……」と愛想笑いを返しながら俺と日向で協力して稲葉を社務所の居間へと連行した。
心休まる藺草の香りが鼻腔に入り込んできた途端、放心状態となってぺたんと畳に座り込む稲葉。俺と日向も似たような疲労感に苛まれて同じように腰を下ろした。
「……あ、あれが………………例、の……」
茫然自失状態のまま、稲葉が何事かぶつぶつと呟く。
「そう」
それに日向は頷くと口端をニヤリとつり上げて、それはもう嫌らしい笑みを浮かべた。
「ど真ん中の人」
「はう……っ!」
と再び仰け反り、今度こそは背中から力なく倒れていく。下が畳ということもあって、倒れた際に立った、ぱすん……という乾いた音はどこか悲壮感を感じさせる音色だった。
しかし今度ばかりは仰け反ったまま終わりではなかった。
「ま、負けない……!」
悲壮な決意を胸に秘め、いやむしろ表情にまで出して、起き上がり小法師ばりに倒れてもすぐに起き上がると勢いのまま立ち上がり、玄関へ向かって居間を飛び出していった。
ドタドタという慌しい足音が、玄関の引き戸を開くガラガラという音を最後に周囲の生活音へと紛れていってから数瞬。いきなり訪れた耳が寂しくなるほどの静寂に身を委ねていたところで、およそ花の女子高生とは思えない挙動、膝立ちのまま卓袱台側まで寄っていって煎餅を掴もうとしている日向に気が付いた。スカートに皺が寄って見えそうになっているのも構う様子はない。これは単に気付いていないのか、それとも俺を欠片も意識していないのか。後者だった場合、さすがに凹むかも知れんから答えは訊かない。
俺は出来る限り目を鋭くし、搾り出せる限りの眼力で品性の欠片もなく音を立てて煎餅を噛み砕いている日向を睨む。
「お前が焚き付けたらしいな」
「みふぇいふぇかぬぁうぃ、あわうぇふぁっふぁかわ」
全く以って通用している気配はなかった。疲れたように眉尻を下げたまま煎餅の咀嚼も止めることはない。
せめて飲み込んでから喋れ。
「ん……っと。だから、私が軌道修正してあげたの。そのうち私に泣いて感謝するに違いないわ」
白い喉を動かして嚥下する姿は歳相応の少女っぽくて悪くはないのだが、口を開いた途端にこの傲岸不遜。台無しだ。
「まあ、この際それはいい。俺が懸念してるのは静流さんに迷惑が掛かるんじゃないかってことだよ」
静流さんは俺や日向より三つ上で、つまり今年から同級生たちは大学生活や浪人生活などを送っているわけだが、それに加わることなく高校卒業以来神社を手伝っている健気な人なのである。本庁の人間もその健気さに心打たれたのか、特例的にまだ二十歳にもなっていない静流さんに浄階の位階を授けた。分かりづらいかも知れないが、これは本当にすごい事なのだ。
しかし、そんな敬意を露ほども感じていない日向は苛立ちというか落胆というか、とにかくそんな感じに顔を険しくすると、これ見よがしに嘆息した。
「そこまでシスコンだとさすがにキモい」
うっせー。
俺の反抗するような視線も枝垂柳みたいに軽ーく受け流し、日向はもう一つ嘆息すると重そうな瞼を閉じた。
「あのスーパーお姉ちゃんの事だから、大丈夫だと思うけど?」
筋違いな劣等感でも感じているらしい日向の言葉に俺はムッとすると、立ち上がる。
「あのスーパーお姉ちゃんだからこそ、大丈夫じゃなくても大丈夫だって言いそうなんだろうが」
外の様子を窺うために、そのまま居間から出て行った。
居間の扉を後ろ手に閉めているとふと聞こえてきた、むくれたような「何よ……」という声には男心に少しだけキュンとしたりはしたが、それを言ってやる気はさらさらない。
玄関から一歩外に出てみると、何故か境内の空気は緊迫していた。その妖怪緊張さんの発生場所は左手、手水舎の柱の影だった。
「じー…………」
柱から顔を半分だけ出して、じー、とか口に出しながら何者かへ視線を向けているのは稲葉その人で、そこまであからさまだと隠れる気が全く無いのは丸分かり。逆にむしろ自分の存在を意識してもらおうとしているように思えて仕方ない。
もちろん、そんな伊弉諾尊を黄泉から追いかけてきた伊弉冉尊みたいな不気味な存在を看過できるほど静流さんもオトボケさんではなく、もちろん笑みの形のまま顔を引き攣らせていた。持っているものは既に桶と柄杓ではなく、一本の竹箒。どうやら掃除を始めたところのようだ。
その竹箒の柄をきゅっと握り締めながら、伊弉冉尊の方へ顔を向ける。
「あ、あの……何か?」
問答無用で排除ではなく、気丈にも対話を試みる静流さんの慈愛の心には感服するのみです。
対する稲葉は、そんな慈愛の心を小学生ピッチャーの球を本気で打ちにきたプロ野球選手のように簡単に弾き返した。
「私のことはお構いなく。どうぞ作業をお続けになって下さい」
「は、はあ……」
いくらなんでもそれは無理があると思うぞ。
稲葉の言葉が丁寧になっているのは、せめてもの対抗心か。
最初はやはり気になって仕方がない様子で固い動きだった静流さんだが、しかしだんだんと表情にも笑顔が戻り始め、遂には鶯の鳴き声などよりよっぽど耳に心地いい鼻歌まで歌い始めてしまった。こうなったのなら特に問題は見出せず、俺はしばらく静観することに決めた。
今、静流さんが遂行しているのは境内の掃き清め。境内を綺麗に保つのも水分神社の巫女さんである静流さんの役目なのだ。
ここ水分神社は出入り口の階段方面以外三方を杉の林に囲まれており、つまり山の土砂面が広がっている。風の強い日などは花粉と一緒に砂埃や土埃も大量に舞い込んでくるのだ。それを履き集めて境内を清め、しかもその土を山へと返す。大山祇神の御戯れにも笑顔で付き合う静流さんの人間性は聖徳太子の比ではない。
さっさかさっさか掃いていき、三十分もしない内に境内ほぼ全域を終わらせてしまったその手際の良さに「はう……!」とショックを受けて目を虚ろにしている稲葉は申し訳ないが面白かった。
竹箒を片付けた静流さんが次に向かったのは拝殿。三角の屋根が三つ横に並んでいる、いわゆる水分造りの本殿のすぐ前に建っている拝殿の掃除だ。叩きでかなり年期の入った掛け軸などの文化遺産が被っている埃を落とし、それから柱や梁に付着した埃も落としていく。傷つけないよう細心の注意を払いながらも素早い手際はさすがで、稲葉はやはり鳩がゴム鉄砲を食らったように面食らっている。
次いで、拝殿の掃き清め。落とした埃を毛先ふさふさな箒で集めていき、塵取りで回収すると社務所のゴミ箱に持っていく。その間約十分。高校生のダラダラ清掃活動とは比べ物にならないハイペースだった。しかも文句の付けようもないくらいにキレイ。
稲葉に目を向けてみれば、もう仰け反る体力も残っていないのかただ死んだ魚みたいな目でボーっと静流さんの背中を追うことしかできないでいた。やがてその場に崩れ落ち、制服が汚れるのも気にせず膝を抱えて地面に『の』の字を書いている。いじけ方はやけに古風なんだな。
だが、これで終わりでもない。
用具を片付けた静流さんは一旦俺たちの前から姿を消し、数分後にややしっとりした姿で艶やかに登場した。きっと掃除の後なので禊をしてきたのだろう。これからする事を考えたら、それは当然の事だな。
拝殿に戻ってきた静流さんは正面――本殿の方を向いて中心近くに正座すると、榊の枝に紙垂を付けて作った玉串を持ち、祝詞を唱え始めた。
「――祓い給へ 清め給へ 幸はへ給へ」
突然聞こえてきた、先ほどのおっとりしたものとは違う静流さんの声に稲葉も顔を上げその背中を見る。きっとそこにある種の畏怖を感じた事だろう。俺も初めて聞いたときは驚いた。
「――祓い給へ 清め給へ 幸はへ給へ」
これは祝詞の中でも最も簡易なもので、大祓詞や祓詞はおじさんおばさんが奏上することになっているので、静流さんの担当はこれになっている。しかし、俺はこの短い言葉に確かな力があるように感じる。齢十八、今年で十九歳の少女が浄階の位階を賜ったのも、相応の理由があったってことだ。
「――祓い給へ 清め給へ 幸はへ給へ」
三回唱え終えると玉串を神棚へ奉納し、それからスッキリした笑顔で静流さんは立ち上がった。俺もそれを見届けると社務所へ取って返し、出ていった時と同じ体勢のまま随分減った煎餅の山を更に崩している稲葉を横目に見ながら座る。その少し後に、うな垂れた稲葉が覚束ない足取りでとぼとぼと戻ってきた。俺の隣に腰を下ろすと、ぎりぎり聞こえるくらいの声量で声を絞り出す。
「…………あーゆー人が好みなの……?」
非常に答えにくい質問。日向までが俺に鋭い視線を向けてきていた。
でも俺は正直に答える。本心だからな。
「嫌いな訳はないよな」
「あはー……あー……、……そうだよねー」
「…………お、おい?」
意識はあるようだがこっくりこっくり舟を漕いでいる状態の稲葉は、なんだか危うい感じだった。心配だが、どう声をかけていいのか分からない俺。そんな時に居間にやってきたのは、無意識の内に稲葉をこんな失意のどん底に叩き落した罪作りな女神様だ。
「ああ、そろそろお夕飯の支度をしないといけませんね。稲葉さんも、よろしければご一緒にどうですか?」
話しかけられるまで、この場に静流さんがいたことに気付かなかった稲葉は、突然の事に復活するとなけなしの笑顔を浮かべた。その潔さは賞賛に値するな。
「あ、……はい、是非。ご相伴に預かります」
「分かりました」
潔白な笑顔で頷くと休む間もなくお勝手へと消えていく静流さん。その憎める要素の全く見当たらない清廉な女神様の笑顔は今の稲葉には少しばかり堪えたようで、静流さんが見えなくなった瞬間にニヒルな笑みを浮かべると、またゆ~らゆ~らし始めてしまった。
それからやって来たおじさんは稲葉が夕食に同席する事を笑顔で承諾してくれ「ゆっくりしていきなさい」と粋な言葉を掛けるとテレビを付けてスポーツニュースを見始めた。贔屓の野球チームが今日のデイゲームで勝利を収めたのかチェックするのだろう。おばさんは静流さんを手伝うべくお勝手へと向かった。
俺の贔屓のチームは今日はナイトゲームなので、午後六時半過ぎの今はまだ試合開始直後だ。途中経過が出ないかなーと待っていてもやはり一、二回までしか進行していない試合を伝えるほど時間も無限ではないようだ。俺はそのままテレビをボーっと見つつ、日向は夕食がちゃんと入るのか見ている方が不安になるほど今も煎餅を咀嚼しつつ、稲葉が自宅へ夕食をご馳走になる旨を携帯で伝えた頃、お勝手からおばさんと静流さんが夕食を運んできた。
ご飯や大根の味噌汁を始めとして彩り豊かな筑前煮、風味豊かなほうれん草の胡麻和え。五人分しか買っていなかった鯖の味醂干しは、日向がこれ幸いと稲葉と半分こする事になった。稲葉よ、そんな申し訳なさそうな顔する事はない。コイツは生粋の肉食獣なのだ。
「――たなつもの 百の木草も あまてらす 日の大神の めぐみえてこそ」
「「「「「いただきます」」」」」
料理が出揃うと、いきなりおじさんが祝詞を奏上し始め、それが終わった途端家人全員で食前の挨拶をする。突然の祝詞に驚き、その後の俺たちの揃いっぷりも唖然と見ていた稲葉だが、次の瞬間には自分は参加していなかった事にオロオロしだした。
こんな古い習慣を今も続けているところは少ないだろうから稲葉のその反応も当然で、もちろんそれを咎める人間などこの場にはおらず、おじさんが「別に大丈夫ですよ」と苦笑すると、いつもより賑やかな晩餐が開始された。
最近ちょっと多すぎる気もするゴールデンタイムのクイズ番組の問題に一喜一憂できる家庭というのも珍しいだろう。特に途中からは、あからさまに稲葉を意識して正答をひけらかす日向と、その勝負を受けて立った稲葉の一騎打ちとなり、その白熱加減はそのまま食卓の笑声に昇華した。
途中、和やかに二人の様子を眺めていたおばさんが急に立ち上がって稲葉の元へ向かい「かわいいかわいい」と連呼しながら頭を撫で撫で愛玩し始め、撫でられた方の稲葉の赤面っぷりがさらに場を和ませると葛城家の宴も酣を迎えることとなった。おじさんはそれら全てを暖かく穏当な笑顔で見守り、目を細めている。
最終的には混沌の様相を呈してきたようにも思う盛宴も終わりを向かえ、今度は稲葉も参加すると意気込んでいる食後の祝詞をおじさんが奏上した。
「――朝よいに 物くうごとに 豊受の 神のめぐみを 思え世の人」
「「「「「「ごちそうさまでした」」」」」」
全員揃わせることができ、稲葉も存外に嬉しそうだった。
そして夕食後。おじさんはまだ仕事が残っていると執務室に戻ってしまった。米粒一つ残さない家族の食べっぷりに顔を綻ばせたおばさんは食器を持ってお勝手へと向かう。いつも通り手伝いを申し出た静流さんだが「あなたもたまにはゆっくりしなさい」とやんわり断られてしまったため、居間には四人のティーンが残された。
ずずーっと四人揃ってお茶を啜る。いいな、こうゆうの。
笑顔のままの四人は誰も口を開かず、しかし決して居心地は悪くない。稲葉もそんな静寂に身を委ねていた一人だったが、何か大事な事を思い出したようにバッと顔を上げた。
それから見つめたのは――
「静流さん」
「はい?」
呼びかけに笑顔のまま首を傾げるハイスペック女神様だが、呼びかけた本人である稲葉の次の行動を見て目を丸くする事になる。
ガバッ! と。床に三つ指をついたのだ。そして言い放った言葉は――
「弟子にしてください!」
………
……
…
ふう、回想終了。長い道のりだった。
そんなこんながあって稲葉は床に三つ指、静流さんが困ったように頬に手を当てる状況が発生したわけだが、それは今も継続中である。
「弟子、ですか?」
「はい!」
「私の、ですか?」
「はい!」
曲解のしようも無い簡潔な返答しか来ず、静流さんはもう一度「あらあら」と困り顔で漏らした。稲葉はそれを見て返答が拒否に傾いているのではと思ったらしく、声を大にして申し立てる。
「もちろん私に神社の重要なお仕事が勤まるとは思っておりません!」
「……でしたら、何について教えてほしいのでしょう?」
具体的な部分を訊かれ、一転していい方向に向かいつつあると判断した様子の稲葉は一気に捲し立てた。
「お掃除とかお料理とかその他諸々の作法とか! 静流さんの技術を是非伝授して頂きたいんです! お邪魔になるような事は一切致しません! お願いします!」
再びガバッと頭を下げる稲葉を目線を下げて見つめつつ、しかし静流さんの口調は穏やかなものに戻りつつあった。
「それは、私のお手伝いをしてくれる、と解釈してもいいんでしょうか?」
「構いません!」
「あまりお給料は出せませんけど……」
「構いません! むしろ頂くわけには参りません!」
ここが正念場だと三つ指に額を擦り付けるようにした稲葉。どうも御老公に平伏す無頼漢のように見えたのは秘密だ。
でも、その嘆願という形で表現された必死の努力の甲斐あってか、静流さんの表情は遂に笑顔に戻った。きっと稲葉の必死な表情を彼女の熱意だと理解してくれたのだろう。
「わかりました」
稲葉は顔を上げるとパッと顔を輝かせる。まるで静流さんの笑顔が連鎖したかのようで花で例えるなら夏の日差しに真っ向から立ち向かう向日葵のような眩しい表情だった。
俺も一緒にニコニコしていると、正面から円月輪(醤油味)が俺の眉間を切り裂かんと飛んできたが、それをかわすことなくキャッチし、そのまま口に運んだ。食べ物粗末にしたら女神様から天罰が下ることを俺は知っている。こんな瑣末なことで女神様の手を煩わせることもないだろう。
その後。車で迎えに来てもらうという稲葉は到着の連絡が入るまでずっと静流さんと話し込んでいて、時々俺をその話題の中に引き摺り込んでいた。残された日向はというとブスッとしながら、やはり煎餅をバリボリ咀嚼していて、心なしかさっきより大きく感じたその音はコイツの精一杯の強がりだったのかもな。
きっと今の若い人たちは巫女装束っていったらただのコスプレの一分野だと思ってるんだろうな。それを今日思い知った。
稲葉が静流さんに弟子入り志願してから二十四時間も経過していない翌日の放課後。水分神社の居間にて静流さんのお下がりの巫女装束に身を包んだ稲葉は微笑んでいた。
「どう?」
その場でくるりと回って見せる。そして、こう言ったのだ。
「似合うかな?」
「似合う似合わないを議論する服装じゃないでしょうが」
「…………♪」
日向の言葉はどうやら稲葉の選択的透過性を持った鼓膜によってシャットアウトされるようで、視線を俺に固定したままルンルン気分は曇らない。しかしながら、今回ばかりは日向と全くの同意見である俺は答えに窮した。
思った通りのことを正直に述べるのは俺のチキンハートが否を提示してきて、しかも稲葉の期待に満ちた目で見つめられては、こう返すしかなかった。
「ま、まあ……いいんじゃないか?」
「えへへ、やった」
「…………」
今回ばかりは日向に罪悪感を感じざるを得ない。真横から向けられる刺々しい視線も受け入れよう。稲葉は巫女装束の神秘性など何一つ理解していない。今度、丸一日かけてじっくり教えてやる事にしよう。
数分間、嬉しそうな稲葉、俺に胡乱な目を向ける日向、そして気まずい俺。三者三様の表情で過ごすと、やがて静流さんがやってきて稲葉と共に外へと向かっていった。二人とも黒髪ロングで、元々雰囲気が似ていることもあってじゃれ合っている姿は日向などよりよっぽど仲睦まじい姉妹のように見える。いやはや、目の保養だ。
二人の足音が完全に社務所内から消えた。変わらずブスッとしている日向は卓袱台の前に座り自分でお茶を淹れつつずずーと飲んでいる。お前が淹れたらどんなに上等なお茶だってひねくれて番茶になっちまうに違いない。だからそんなに渋い顔をして啜ることになるんだ。番茶も出花とは言うが、コイツにもそんな時期が来ることを願ってやろうか。
それにしても、だ。俺は前々から気になっていた事をここで訊いてみることにした。
「お前は静流さんの手伝いしないの?」
「何でよ?」
疑問に疑問で返すのは感心せんな。この際はっきり言ってやろう。
「このまま放っとくと、後々ますます入りづらくなるぞ?」
「何がよ?」
意地っ張りめ。痺れを切らした俺は立ち上がると日向の腕を掴む。そのまま引っ張り上げて玄関まで連れて行き、そこで背中を押してやった。
恨めしそうに睨んでくるが、そんなの屁でもない。
「お節介」「結構だ」
存外素直に出て行った日向は一瞬だけこちらを振り向いて笑顔を見せた気がして、それに満足した俺は居間に戻ると先ほど日向が急須に注いでいたお茶の残りを自分の湯飲みで飲み、一息ついた。
ズズー。
「ふぅー……」
…………静かだ。
…………………………………………。
…………………………………………俺も何か手伝おう。
焦っているつもりはなかったのだが、何故だか急に寂しくなった心が運動神経を活性化させて俺の歩くスピードを速めたように思う。玄関を出る頃にはほとんど小走りになっていた。俺が出てきた瞬間に日向が噴出していたのは癪に障ったが、ここで何かを言い返したらさらなるトラウマを負う可能性があったため反論することはしなかった。
静流さんより手水舎の掃除を仰せつかった俺は、黒色に近い石肌のぬるみをたわしで擦る作業に没頭する。
普通の水道水よりも冷たく感じるその水に触れている間に、この火照った顔が元の色に戻る事を信じて。