第三話
当然といえば当然なのだ。
お産に際して体調を崩しやすいのはやはり第一子の出産を経験する女性で、そうなると当たり前だが新婚さんが多いわけ。所帯を持った事のないどころか結婚できる年齢にもなっていないガキンチョの俺にはその時の旦那さんの気持ちなど分かろうはずもないが、想像するにきっと庇護欲と独占欲の塊なのだろう。愛する奥さんに別の男が触れようとしていれば、そりゃ呪詛も吐きたくなるか。もしかしたら俺が静流さんに近寄ってくる男を無意識に威嚇しているのと似ているのかもしれないな。
ともあれ明けて今日。昨日の呪詛のせいか優れない体調を押して朝食の席についた俺だが、心配してくれるおじさんおばさん、そして静流さんの優しさに涙が出そうになった。このまま学校を休んでしまえば静流さんに看病してもらえるというこの上ない幸福の時間が俺を待っていたはずだが正面から漂ってくる『早く行くぞ』的なプレッシャーに負けてしまい鞄を持って立ち上がることを余儀なくされる。
いつも通り、二人並んで階段を降りる。今日も特に変わらぬ日向ゾーンに取り込まれて肩身の狭い通学路が待っているのかと思うと陰鬱たる気分になるが、しかし。
本日の日向ゾーンは鳥居を出て一メートルも歩かないうちに崩壊することとなった。その日向ゾーン崩壊因子は鳥居に背中を預けて降りてくる誰かを待っていたようで、足音に気付くと笑顔のまま振り返り――
「あっ、康――」
俺の隣にいる日向ゾーン形成因子であるところの葛城日向を目にして停止した。
「えっ、え? か、葛城さん?」
「ん? あ、稲葉さん」
空気が止まった。そこら中を舞っているはずの杉花粉すら空中で静止してしまったように空気が固い。二人が既知の間柄であるのは同じクラスに所属しているからだと俺は知ってしまっている。これは俺の不安が的中してしまったんじゃないだろうか。
「ど、どうして、康司君の家から、葛城さんが出てくるの……?」
ガビーン! と顔に影を作って呆けている稲葉に大体の事情を悟ったらしい日向は胡乱に目を細めると、どこか高圧的とも取れる上から目線で言い放った。
「前提が間違ってるけど、ここは康司の家じゃなくて、あたしの家よ」
言葉に棘があるのは気のせいか。
「だ、だから! どうして一緒に出てくるの!」
「一緒に住んでるからに決まってるじゃない」
またしてもガビーン! と表情に影が差す。これはあれだ、ノルウェー出身表現派画家ムンク作の『叫び』に描かれた人物と同じような呆け方だ。
ど、同棲…………! と可笑しな方向へ、しかも物凄いスピードで勘違いした稲葉に、日向はしかし表情の怪訝を解くことはしなかった。
「てゆーか、康司のこと知ってるんだ」
その言葉で復活した稲葉は難題に直面した数学者のように顔を引き締めると、そそくさと俺の隣に近寄ってきた。
「も、もちろん!」
胸を張るな胸を。目のやり場に困るだろうが。……見比べてみたところ、どうやら稲葉の方がデカい模様。ご内密に。
「それで、朝っぱらから人様の家の前で何やってんのよ?」
稲葉を完全に敵認定したようだった。言葉の抑揚に容赦がない。
「べ、別に貴女なんかに用は無いわ! 私はただ康司君と一緒に学校行こうと思って!」
こちらも最初に話していたときの「挨拶くらいはするけど仲良くも悪くもない」みたいな初々しい感じが消失してるんですけど。
「うっわ、粘着」
「何ですって!」
両方ともタイプは違えど、美少女が口汚く罵りあうというのはこうもインパクトがある光景なのかと俺は一人肩を震わせる。そもそもこの黒い言葉の応酬は俺を中心に据えて始まったはずだが、今では完全に俺を無視してお互いへの恨みつらみだけが先走っている。
不毛な口喧嘩に先に終止符を打ったのは日向だった。托卵された杜鵑の卵を見つけた鶯のような目で稲葉を睨み、ついでに俺にも一睨みくれながら日向は身を翻した。それから一人で学校へと向かう。
最後に、今後長きに渡って稲葉を燻らせる事になる皮肉を残して。
「康司に気に入られたいなら『貞淑』って言葉を辞書で調べた方がいいわよ」
それじゃお達者で~、と手をひらひらさせながら日向は行ってしまった。その颯爽とした去り様を呆然と見送りながら背後を振り返ってみると、水分神社の鳥居がその威容を俺に見せ付けている。つまり、まだ神社の目の前だ。隣の様子をチラッと窺ってみれば遠ざかっていく日向の背中を恨めしそうに見つめるブスッとした稲葉がいる。
これはまた、学校まで苦難の道のりになりそうだ。
ところがどっこい。本日の朝の登校時間は稲葉が熱心に日本神話や水分神社の事を訊いてきてくれたお陰で話題に困ることもなかった。なにやら最近家で勉強しているらしい。今どき自分から神話を勉強する人なんて稀だろうし、神社に住んでる人間としちゃあ嬉しくないはずがない。そのお陰で、朝にはまったりした時間を過ごすことができた。
でも世の中、嬉しいことの後には辛いことが待ち受けてたりするもんなんだよな。
教室に到着すると、何やらいつもと内部の様子が違っていた。
俺がドアを開けた瞬間まず目に入ったのは、いつも俺の引き攣った顔を見て爆笑していたはずの近藤斉藤の二人をはじめ、程度は違えどその笑声に加わることのある他の男子生徒まで全員が、ただ机に座って俯き大人しくしていたのだ。いつもこいつらのハッチャケ具合を目にしている女子たちが遠目から気味悪そうに眺めている事からも、その異様さはお分かり頂けるだろう。
俺も男子の中では例外的に女子と同じ行動を選択し、できるだけそいつらから距離を取りながら己の席へのルートを迂回していった。
自分の縄張りに辿りついても、とてもじゃないが安心できない空気に肩身を縮ませていると、背後に気配を感じて背筋を凍らせる。恐る恐る振り返ってみれば、そこには――
「…………うぉっ!」
思わず仰け反ってしまうほどの奇怪な、強いて言うならトランプのジョーカーみたいな口の両端を吊り上げた笑顔を湛えた近藤斉藤の二人が立っていたのだった。急遽、頭の中に住む誰かが警鐘を乱打し始め、その警告に従った俺はその場から逃げ出そうとするのだが、当然目の前の二人がそれを許してくれるはずもない。敢え無く俺は二人に捕縛され、教室後方の隅っこへと連行されるのだった。BGMにはドナドナでも流しておいてくれ。
その隅っこに座らされ、友人二人……友人と称するのもどうかと思ってきているが、ともかく近藤斉藤に囲まれて蟻の這い出る隙もない状態。何故いきなりヤンキーみたいな連中に絡まれているのか全く以って見当もつかない俺は、パッとみ喜色満面の二人が放つ無言のプレッシャーに身体を震わすことしかできない。
俺の移動を制限したところで今度は他の黙りこんでいた生徒も立ち上がり、こちらへと向かってくる。そうして完成されたのは男子約二十人によるバリケード。強行突破など不可能、ミッションインポッシブルだ。
「……なんだよ」
モグラ戦争で劣勢に立たされている東土竜のような声で迫力なく相手を糾弾するのが精一杯。そんな俺を笑顔のまま見下し、しかし近藤の口から紡がれたのは予想と違い、まるでどこかの敬虔な宣教師が信仰を持たぬ者に教えを説いているような穏やかな声音だった。
「分からないかい? 君がどうしてこのような状況になっているのか」
まあ言葉の内容はただの犯行予告にしか聞こえなかったけども。
続いて斉藤が口を開く。
「君は水分神社に住んでいるよね」
口調は優しい。でも裏がどす黒い。
「……ああ」
「いつもは誰と一緒に家から登校しているんだい?」
「……日向……、葛城日向です」
敬語になってしまったのは俺のチキンハートの判断だ。ここでは相手を刺激しない方がいいという懸命な判断だったと俺自身も思う。
「そうだ、葛城日向のはずだ。で、今日は一体誰と一緒に登校したんだい?」
それを訊ねられた時点でコイツラが何の目的で俺を囲っているのか理解してしまった。
その沈黙こそが自分たちの行動の正当性を保つ証拠であると確信を持った近藤斉藤の二人は揃って俺の制服の襟首を掴み上げながら絶叫を放つ。それが、その答えだ。
「昨日の登場からうちのクラスの間で人気赤丸急上昇中の稲葉縁と昨日の今日で同伴出勤かよ――!」
きっと廊下にいた人間にまで届いたであろう痛切な叫声に俺は耳を塞ぐ。ブンブン揺さぶられるが、俺は二人を押し留める気にはどうしてもなれなかった。なぜなら――
「ぶふぉおおあおおおあおあぉおああおお!」
と、人の泣き叫ぶ声とは思えないくらいの醜声を上げながら、イグアス大瀑布並みの勢いで滂沱と涙を流していたからだ。襟を掴む拳には如何程の力も籠っておらずいくらでも振り払えそうだったが、俺は揺すられるままにしておいた。
だって、見ているこっちが辛くなるほどの泣きっぷりだったから。
気付くと周囲を取り囲んでいた他の男子も床に崩れ落ちてグジグジ言っていた。その向こうに見える女子たちの視線は冷たいものだったが誰に向けられたものかは気にしない。
近藤の口からは懺悔とも取れる叫びが漏れる。
「本当は葛城日向との同伴だって羨ましかったんだよコンチクショー! 御上が俺たちに青い春を恵んでくださらないのは、それを僻んでひねくれて、こやつを笑いものにした罰ですか! 人の幸福を妬んだ卑しい我々への罰なのですか――!」
そこまで自分を卑下しなくても。ま、アホだけどさ。
不幸なことに、こういう時に限って朝のホームルーム開始のチャイムが鳴りやがる。
「やあ皆、おは――」
前側の扉を開けて入ってきたのは担任の芹沢氏。案の定というか、教室の隅に集まって涙ボロボロ鼻水ズルズルなちょっとヤバイ感じになっている男子生徒たちを目にした彼は途端に、ちょっと古めの朝の挨拶を最後に意識を手放してしまった。それは有害映像を見ないようにと無意識の内に発揮した脳の防御手段だったか。
独りでに動いた手は、もう一度扉を閉めたのだった。
数秒後に復活したらしい芹沢氏は変わらぬ笑顔で何事も無かったように教室へと入ってきた。担任としての職務を放棄することはできなかったようだ。ここで問題を起こしたら今後の教師生活に支障を来たすと判断した彼の勇気ある判断に心の中で拍手を送る。
その数秒の間に自分の席へと戻った男子たちは未だに鼻をグジグジ鳴らしていたが、芹沢氏が意識的にそちらを見ないようにしていたのは面白かったな。
泣き疲れたためか、その後は比較的大人しかった男子連中に囲まれながら本日の授業も五体満足のまま乗り切り、放課の世界へとたどり着くことができた。すっかり朝のことは無かったことにしている担任の芹沢氏は気持ち悪い男子の中心にいた俺を呼び出すこともなく、帰りのホームルームも一通り完遂させた。クラス委員が「きりーつ、れーい、さよならー」と号令を掛ければ後は掃除のある生徒は掃除を、そうでない生徒は無罪放免で娑婆へと解き放たれる。
天然娘がもう一波乱を運んできたのはそんな時。つまり、まだ教室に全員が揃っている状態の中、彼女は笑顔で教室の扉を開くと数多の視線を連れてくることも厭わずにスタスタ俺の席へと歩いて来、そしてエレクトロン焼夷弾を放った。
「ねえ康司君。今日、私の家でお茶しない?」
身も心も焼かれた全ての男子生徒が無言のまま俯き、ゆっくりと立ち上がる様はそりゃあもう不気味だったな。それだけで下手なホラー映画よりもよっぽど心拍数が上がった。
そこで俺の取った行動は迅速だった。彼女――稲葉のお株を奪って、蛇が獲物を捕食する時のような敏捷さでもって「ひゃっ」とか言っている彼女の腕を掴むと教室から逃げ出し、高速で階段を駆け下りている途中に今週一杯教室掃除の当番だったことを思い出したが戻ることはしなかった。明日登校してからが怖いが、しゃーない。今から戻ったって俺の身に起こる悲劇には大して違いもないだろうし、腹を括ろう。
昇降口で靴を履き替えていたところで稲葉が「痛いよっ」と声を上げたので慌てて俺は掴んでいた腕を放す。
「ど、どうしたの?」
大して教室からここまで距離もなかったはずなのにぜえぜえ切れる息を整えながら思うのは、今の言葉をマジの天然で吐いたのかどうかってことだ。まあ自覚されても困るような気はするから教唆するような愚行は自重しよう。
追ってくる気配はないので安心しつつ靴を履き替え、それから青空の下へと踏み出す。頭の上から微かにブーイングが降ってきたような気もしたが、ここで振り返ったら般若面を顔面に貼り付けた悪漢どもに呪い殺される。そんな危険を感じた俺は背中に冷たい汗をかきながら足早に校門を抜けた。小走りに付いてくる稲葉は首を傾げているがこのままでいいか。稲葉には学校が悪意渦巻く危険極まりない場所なんて認識を持って欲しくはないし。つーか、危険極まりないのは俺にとってだけか。朝と同じく日本神話について飽きもせず訊ねてきてくれる稲葉に気を良くしながら、俺たちは並んで歩いていた。
特に何の予定もないので稲葉の家でお茶をすることには大賛成。ただ、そうなった場合稲葉の両親とも顔を合わせることになるのではと緊張していたところ「両方ともいないから……」と苦笑気味に言ってきた。そこに何か翳のような色を見た気がしたが、それ以上稲葉も続けようとはしなかったので俺も触れることはしかった。
学校を出てから十五分ほど歩いて、水分神社の鳥居前にたどり着く。
「ここのさらに先なのか」
「うん、そう」
~十五分後。
「まだ着かないのかよ!」
「もうちょっとだよ」
いつしか道路は勾配を持ち始め、今ではちょっとした山道と言ってもいいくらいな坂道を登っていた。道幅も広く、しっかりアスファルトで舗装されているので本当の山道を歩くほどの疲れはないが、やはり登り慣れていない坂道が続くと気持ちの方が挫けてくる。
男の矜持なんてものをかなぐり捨て俺の方から休憩を持ちかけようとしたところ、稲葉が声を張り上げた。
「ふう、着いたよー」
「お、おお。やっとか――っておい!」
……ああそうだよ。俺だって思ってはいた。ずいぶん遠いなーとか、けっこう登るなーとか、これだけ離れたところにあるんだからかなり広い家なんだろうなーとか、確かに思ってはいたんだ。
「なんじゃこりゃぁ――!」
でも目の前の光景は、俺の想像力を遥かに逸脱していた。ちなみに出血したわけではないので心配ご無用。
古いネタを使ったところで俺は悟った。きっとここは『時の大迷宮』とか、そんな感じのダンジョンなんだ。そうに違いない――と、思わず現実逃避としゃれ込んでしまうくらいには、常識的に考えられない物体がそこで座を占めていた。
「……古い、……復刻、……文藝復古、…………ルネサンス?」
そうだ、きっとどこぞの科学者の開発したタイムマシンによってルネサンス期から輸送中、出現時間と座標を間違えて設定してしまったんだ。そう思った方が夢がある。
俺の混乱を表現したところで事実をありのまま伝えるとなると、中世の西洋貴族でも住んでいそうな洋館がでんっと威圧的に鎮座していた。まさか日本でベルサイユ宮苑みたいなビスタを目にする日がこようとは。
細かな彫刻を施された正面門の両脇に植栽された樹高二十メートル以上ありそうなヒマラヤスギは綺麗な円錐形。その向こうに見える芝の敷かれた広大な庭も手入れが行き届いており、寝転がったらさぞ気持ちよさそうだ。
そうだ、肝心の建物の描写を忘れていた。建物自体はレンガの赤茶色が目立つクラシックな雰囲気。そのせいでルネサンス的な印象を持ったのだと思う。多分。あと敷地面積? 何だか想像するのも面倒くさそうだからパス。きっと一万平米くらいはあるんじゃね? 適当だけど、そんな的外れでもない気がするんだから相当な大きさだと理解してくれ。
大邸宅に目を向けたままポカンと大口を開けて呆けている俺に何を思ったのか、稲葉は得心のいったように指を立てると懇切丁寧に説明してくれた。
「あのレンガは外側だけなんだ。日本じゃ地震とかが多いから総レンガ造りの家は強度の問題上無理なんだって」
どうでもいいわ、そんな事。
「そんなことよりほらっ! 早く中入ろっ」
「お、おい! 引っ張んなって!」
なんて言っても止まるはずのない稲葉は白皙の両腕を俺の右腕に忍冬のように絡み付けると問答無用でズンズン玄関へ向かう。通り過ぎた玄関の両開き扉は綺麗な艶を放つ黒褐色の木製で、なんか映画とかで時々見るノックするための輪っかみたいなのが取り付けられていた。もちろんそんなハイソサエティな物品の名前など知るはずもない俺は、ノックするための物なんだから、と便宜上ノッカーとでも呼ぶことにする。
その扉をくぐると、そこにはホールのような空間が広がっていた。聞くところによるとジャン・ローズとかって名前の赤みの強い大理石が床材として使われていて、その艶ときたら一般ピーポーが土足のまま踏みつけることに罪悪感を憶えるほどだ。ホールの正面奥にあるのはY時型の階段で、そんな物はふんだんな金を掛けて製作した洋画のセットでしか見たことないが、ともかくそこと回廊構造になっている二階が接続している。
今、そのホールを横切っている一人の女性を発見。
「恭子さん、ただいま!」
「あ、お嬢様。お帰りなさいませ」
……メイドがいるよ、メイドが。コイツがお嬢様なのはもう知ってるから、あえては触れない。……でも、本当にいるんだな、お嬢様って。
恭子さんというらしいメイドさんははっきり言って年齢不詳。さすがに四十代はないと思うが、十代と言われても三十代と言われても『ふーん』と納得してしまいそうな女性だった。クールビューティーって言葉が似合いそうな美人で、左目の目元にある小さな泣き黒子がポイント高し。
着ている服は良くテレビでネタになるようなフリフリヒラヒラが大量についたものではなく、ベージュのワンピースに黒のエプロンといったシンプルなもの。個人的にはこっちの方が好きだ。それ以前に実際にこの世に実在した『メイドさん』という職業に興味を惹かれ御上りさんよろしくしげしげと物珍しげに眺めていたところ、メイドさん――恭子さんと目が合ってしまった。
「あら? そちらの方は、もしかして……」
「うん、そう!」
どうやら俺のことを知っていたようで、稲葉に元気よく肯定されると恭子さんは恭しく腰を折った。
「ようこそいらっしゃいました。大神康司様」
様付けで呼ばれたの初めてだ――とか一瞬考えたのだが、少しして俺は年上の人に頭を下げられているという未曾有の事態に気付いた。選択肢を選べないどころか選ぶべき選択肢を一つも思いつけないでアタフタしていると恭子さんは頭を上げてくれ、俺の脳ミソはオーバーヒート寸前で急速冷却されていく。冷えてきた頭に入ってきた情報は、やっぱりカチューシャみたいなのは着けてるんだなー、というさして重要でもなく、しかしある意味重要でもある情報だった。重要だろ? カチューシャ。
稲葉は俺の腕を開放するとくるくる回りながら階段の方へと足を向ける。
「それじゃあ恭子さん。私、着替えてくるから康司君を客間に案内してあげて。あ、あとお茶の準備もお願い」
「かしこまりました」
慇懃にお辞儀をする恭子さんにありがとっ、と笑顔で伝えると稲葉は正面のY字型階段をタタタッと駆け上っていき、かくしてホールには今さっき顔を合わせたばかりで年齢不詳の恭子さんと微かな身動ぎの音まで反響してしまいそうな研ぎ澄まされた空気に全身を緊張させる俺の二人が残った。ホール自体が広く、しかも足元にあるのは一歩を踏み出すごとにカツン、カツン、と音を立てる赤み鮮やかな石材。ラグジュアリーな空間に慣れていない俺が肩身の狭い思いをするのは質量保存の法則くらいには当然の原理だった。
何だか広所恐怖症にでもなりそうな俺の繊細な心理状況を慮ってくれたのか、恭子さんが早々に俺を案内し始めてくれた。
ホールから続く一階廊下へと入り、そこに伸びていたのは百メートル走の世界記録保持者でも十秒以上かかりそうな赤い絨毯の敷かれたストレート。その左右の壁にある扉は数えるのも面倒なほど。漫画などの場合、部屋の数を数えるのが一般的だと思っていたのだが俺は開始十秒も経たないうちに白旗を揚げた。途中途中に飾られている絵画の下にあったプレートに歴史の教科書で見たような画家の名前がちょくちょくあった気がしたが、きっと見間違いだろう。そうに違いない。
完全に価値観をぶっ壊されながら案内されたのは大き目の扉が目を引く部屋の前。扉の上のプレートに『ゲストルーム』とあるのだからそうなのだろう。
玄関よりも明るい色の扉に指紋など決して付けないよう細心の注意ですり抜けると室内装に目を移して、もう指紋なんてどうでもいいかとニヒルな溜息を吐いた。
六畳ある俺の部屋を十個くらいは並べられそうな広い室内には扉などと比べて桁違いに高そうな家具が揃っていた。ただ、その高級感を正しく伝えられない高校生の貧弱な表現力を許してもらいたい。
床に引いてあるのはシックな色使いで幾何学模様の描かれた絨毯。踏むのが申し訳なくなるほど毛の高い絨毯はきっとペルシャとかの工芸品だ。
本革っぽい匂いのするソファーが部屋の中心に向かい合って二つあり、それに挟まれているのが、これまたアンティークみたいに熟成された温かみのある木製の低いテーブルだった。壁に飾られている向日葵畑の絵にはもう目を向けないことにした。
簡単に言ってしまえば、この部屋の家具を売りさばくだけでうちのリフォーム+家具全てをワンランクアップさせられそうだということ。荒んできた心を癒すためにも部屋の隅の方に追いやられている棕櫚のグリーンインテリアを視界に納めた。
恭子さんに勧められるままソファーに腰掛けるとフリーフォールを体験したかのような落下感覚に襲われ咄嗟に腰を上げてしまったのは俺が色々プアだからか。
貧乏丸出しの俺に特に何も反応を示すことなく恭子さんは一度部屋から退散するとティーセットをカートに乗せて戻ってきて、てきぱきと準備を始めた。その間、無言。
沈黙に耐えかね、玉砕覚悟で何かを話しかけようかと俺が思案し始めたところで、恭子さんの方から話しかけてきた。
「お嬢様からお話は伺っています。あそこの水分神社にお住まいだそうで」
作業の手を止め、俺に向き直ると唐突に頭を垂れる。
そして、あの話題を繰りだした。
「お嬢様を救っていただき、ありがとうございます」
まあ知らないはずはないだろうと思ってたから、いつかは来ると意識していたが、ここまで直球でくるとは。それに、目上の人から頭を下げられるのは心臓に悪い。俺にエリート職は向いていないと諦観しながら、慌てて恭子さんに返事をする。
「い、いえ。あれはたまたまですから」
「偶然であれ必然であれ、お嬢様の命を救っていただいたことには変わりありません」
ようやく顔を上げてくれた恭子さんは俺と目を合わせると、次には辛そうに表情を歪めまたすぐに俯いてしまった。
「縁お嬢様の妹である光お嬢様が、…………自害なされたのは、今日より丁度一週間前でございます」
そんなに最近のことだったのか。
「それからの縁お嬢様は塞ぎこんでしまい、我々使用人とも会話をせず、満足な食事も摂らず、お部屋に閉じ篭ってしまうようになりました。そして、いきなり学校に行くと仰られたのが一昨日のことです。……おそらく、この家では我々に止められてしまうと考え、それで学校に向かったのだと思います」
なるほど。
「縁お嬢様も光お嬢様も、どちらもお優しい方にございます。縁お嬢様の行動も、その優しさ故のものだと我々も理解しております」
それは俺も思い知っている。あの事件の時に。
「学校側から連絡が入り、我々がお迎えに上がったとき、お嬢様は泣いておられました。しかし、その表情にあったのは辛さだけではありませんでした」
恭子さんはもう一度そこで顔を上げ、俺と目を合わせた。
「泣き笑いの表情で、お嬢様が仰ったのです。『私を、それに妹を救ってくれた人がいる』と」
あの時に語った言葉で十分だったかと少し不安もあったが、稲葉の心を多少は癒していたことを実感して俺は安堵の息をつく。
「それから少しずつ、お嬢様から笑顔を見せていただけるようになりました。……そのような経緯があって、今に至ります」
喜ばしい変化のはずだが、未だ恭子さんの表情は晴れない。
「ですが我々使用人からしますと、ご無理をなされているように見えて仕方ありません。ご自分のなさったことが、どれだけ多くの人に影響を与えてしまうのか。それを知った縁お嬢様は我々にまで心配掛けまいと、もう自分は大丈夫だと、必死に訴えようとしているように思えてならないのです。……お優しいお嬢様のことですから。しかし、それはとても危うい事だと使用人一同危惧しております」
俺が思い出しているのは一昨日と昨日の稲葉のテンションの違い。それを見て大丈夫だなんて安心していた俺を過去に戻ってぶん殴ってやりたい。
恭子さんはそこで、ふっと表情を緩めた。
「でも、そのお嬢様が大神様のお話をなさる時は、とても自然で、心から嬉しそうにしていらっしゃいました。…………そこで、です」
恭子さんの顔には決意のようなものが見える。きっと心から守りたいものがある人は、こんな表情を作ることができるのだろう。
「一使用人が差し出がましいとは重々承知しつつもお願い申しあげます」
その力強い目からは、ここからが本題であるというのがひしひしと伝わってくる。
俺も、覚悟をしておいた方がいいだろう。
「どうか、お嬢様の傍にいて差し上げてください」
ある程度は予想していたけどな。傍にいる、か。
そこで恭子さんは俺に一歩近づくと俺の両手を捧げ持つように己の両手で包み、潤んでいる瞳を至近距離から見せ付けるように俺の目を覗き込み、続ける。
「お嬢様が大神様のお話をなさる時、それこそが以前までの明るく元気で、そして優しいお嬢様の本来の姿だったように思いました。きっと今のお嬢様にとって、大神様こそが罅割れてしまいそうな心のピース一つ一つを繋ぎとめている楔なのです」
確かに一昨日と昨日とそして今日の三日間で稲葉の色々な表情を見た。無理をしていたのかも知れない。明るく振舞おうと必死に心を奮い立たせていたのかも知れない。でもそれが稲葉本来の感情の発露になってくれたなら、それは俺にとっても嬉しいことだ。
それを見ることができるのなら、きっとどんな努力も報われる。そしてそこに、俺に出来ることがあるのなら、断る理由など一ピコグラムも思いつけなかった。
お願いします、ともう一度深く頭を下げた恭子さんにできるだけ優しく届くように。
「もちろんです。俺に出来ることなら」
その言葉にバッと顔を上げると、俺の笑みを見て恭子さんの方も笑顔を輝かせた。そろそろ涙が目尻から零れ落ちそうだって状態にまで涙ぐみ、ありがとうございます! と言おうとしたらしいところで――
「お待たせ――!」
稲葉お嬢様が両開きの扉を豪快に開け広げながら部屋内部へと突貫してきた。
当然ながら俺の目はそちらへと向き、そして致命的な遅れに気がついたのは、その登場から一秒以上が経過してからだった。
……俺の今の状態はどうなっている? たしか恭子さんに両手を握られ、潤んだ目で見つめられていた気がするのだが。傍から見たら、それはどのような情景に映るのだろう?
しかし稲葉お嬢様の表情は笑顔のまま崩れない。これは静流さんスタイルか――! と戦々恐々としつつ何かしらの安心材料を得ようと、とにかく何か手に握ろうとしたところで、先ほどまで働いていたはずの両手の触覚が働いていないことに気がついた。
そちらに目を戻してみると、目の前にいたはずの人物がいない。もう一度稲葉の方に目を移してみれば、和やかに談笑する恭子さんの姿があった。いつの間に移動したのか知覚できなかった上に、その目元には涙の跡など微塵もない。
――これがメイドさんクオリティ……!
また一つ、価値観が打ち砕かれた瞬間だった。もしくは女の怖さを知った瞬間?
和やかに会話しながら、香り高い紅茶をすすりつつ、茶請けのスコーンを摘みつつ。残したまま冷えてしまった紅茶をすぐさま暖かいものに取り替えてくれるという、本場のブリティッシュスタイルみたいなサービスにいちいち感嘆していると、初めて経験したティータイムというものはあっという間に過ぎ去った。
大きな窓の外を眺めてみれば太陽が本日の就労時間を全うしようとしており、最後の仕上げとばかりに振りまく朱色の光で緑の芝生すら染め上げている。
「あ、もうこんな時間なんだね。楽しくて気付かなかった」
そりゃ何より。
「これから歩いて帰ったら遅くなっちゃうから送っていくね」
俺が断りを入れようと口を開く暇すら与えずに、稲葉はテーブルの隅に置かれていたベルのようなものをチリンチリン、と鳴らす。すると数瞬の後、客間の扉をノックする音がした。
「入って、爺や」
爺やだってよ、爺や。失礼しますと入ってきたのは整えられた白髪と筋肉隆々の肉体が何ともアンバランスな燕尾服を着た老紳士だった。どうでもいいけど、モノクルとか掛けてる人を現実世界で初めて見た。
「康司君を送っていくから、車の準備をお願い」
あ、車なのね。俺はてっきり稲葉が歩きで送ってくれるのだと思い、帰りのことを考えて断ろうとしたのだが、車なら何の遠慮もいらないな。
「ふう、今日は楽しかったなぁ。康司君も楽しんでくれた?」
「おう。……何かのアトラクションのようだった」
俺の的確な比喩に首を傾げる稲葉だが、すぐに苦笑を浮かべた。
「正直言うとね、ちょっと寂しかったんだ。……一人で暮らすには、この家はちょっと広すぎて」
それに疑問を感じた俺。そう言えば、ここに来る際も両親の話をあまり語ろうとはしなかったが……。
「両親は、ここには住んでいないのか?」
結局、訊ねることにした。すると稲葉は少し俯いてしまう。やっぱ失敗だったかと不躾を反省していると、訥々と小さい声ながらも稲葉は話してくれた。前髪の陰になって表情は確認できなかったが。
「……お母さんは、私が小学生の時に死んじゃった。お父さんは仕事で世界を転々としてて、今じゃどこにいるのかも分からない」
これは部外者が口に出すべきことじゃないのかも知れない。それでも俺はどうもこの父親に不信感を覚えた。稲葉の唯一残された肉親なのだから、それを稲葉の前で言うつもりはないが、俺は稲葉から見えないように顔を顰める。稲葉の背後に控えている恭子さんも目を瞑ってくれているので、見えてはいまい。
「恭子さんとか、爺やとかもいるじゃん」
「……うん、そうだね。皆良くしてくれてる。でも、あまり私と近くなろうとはしないんだよ。きっと、お父さんに言われてるんじゃないのかな?」
恭子さんの表情を盗み見るが目を閉じたまで変化はない。
どう声を掛けるべきか思索したところで、俺に言えることは一つしかないと思い直す。
その時、再び扉がノックされ爺やが車の準備が出来たことを伝えてきた。それを受けて恭子さんが先導する形で客間を後にする。目の前を歩いているのは恭子さんで、俺の隣にいるのが稲葉である。今がチャンスだ。
俺は『傍にいる』という四文字を脳裏に描きながら言うべきことを言う。恭子さんの背中に向かって。もちろん隣の稲葉にも聞こえるように。
「恭子さん。今日の紅茶もスコーンも、すんごい美味かったです。俺にとってはどうも常習性がありそうですんで、またすぐに飲みたくなるかもしれません」
あえて稲葉を方は見ずに、恭子さんの背中を見つめたまま。俺の稚拙な頭を振り絞った婉曲表現に恭子さんは振り返ると、顔を綻ばせながら口を開いた。
きっと、返ってくる言葉も一つだろう。
「ええ是非。またいつでもお越しください。我々も、心よりお待ち申し上げております」
用意された車というのは、高級住宅街の車庫とかに収まっていそうな黒塗りつやつやのヤツで、ボンネットの前の方に良く分からない動物のオブジェのような物が立っていた。
もちろん乗り心地は俺の庶民性を如実に見せ付ける結果となったが、その庶民としてはリムジンとかいう長いのが来なくて本当に良かったと胸を撫で下ろすばかりである。
車に乗り込んだあと、隣に座った稲葉の表情が抑えきれないくらいに緩んでいたが、それを指摘するような無粋な真似はしなかった。