第二話
季節は晩春。心なしか五月よりもギラギラしているように感じる太陽が俺的許容温度を超える勢いで熱量を振りまき始める六月だ。道路の生垣に植栽された梔子や民家の柵に絡みついている忍冬の甘ったるい香りと相まって茹だるような熱気は粘着質となり鬱陶しく身体に纏わり付いてくる。
今の俺は高校への通学途中。流石に着慣れてきた制服も今は夏服で、表面積の差分は熱を逃がしてくれるかと思いきや結局次から次へと降り注ぐ眩しい陽光のせいで目下の暑さを緩和してくれることなどゆめゆめなかった。しかも俺の隣には同じ高校の制服を着た女子、歩くヒートアイランド現象こと葛城日向もいるってんだから、体感気温も鰻昇りだ。
並んで歩いているとはいえ、そこに会話は皆無。ただ黙って俺の隣を歩き、居たたまれない空気を醸成するのが現在の日向に課せられた唯一の仕事となっている。不自然ながらもそこから前線にオーバーラップしていくなんて度胸もない俺としては、堅苦しい空気を甘んじて受け入れ歩き続けるしかない。
通学路は俺が今歩いている大通りを直進していけば学校まで一本道。どんな細い道もこの大通りに合流するので、当然ながら所どころで登校途中のクラスメイトと目が合うのだが、誰もが軽く手を上げて挨拶するのみで俺に近づいてこようとはしない。視線を俺の隣で一瞬停止させ、気まずそうに目を逸らす。その繰り返しだ。
これが我が高校における男子の抱く日向の印象な訳だが、女子からするとそうでもないらしい。以前日向本人に聞いたところによるとクラスの女子とは普通に仲が良いそうだ。初めは訝った俺だが、入学してこの方、確かに通学路の途中で女子と軽く手を振り合い、それからニヤニヤ笑いを浮かべて走り去っていく光景を何度も目にしている。
クラスで孤立説は否定されたわけだが、いったい女子は何を勘違いしているのやら。
まあ、どうにしたって誰も寄ってこない通学時間を消化し、通称日向ゾーン(誰も寄ってこない円形の空間)から抜け出せないまま校門へと到着した。
さすがにクラスまで一緒にするなんて試練を科すことのなかったどこぞの神様に多大なる感謝を捧げつつ、下駄箱で靴を履き替えると安普請の校舎に踏み込んだ。
階段を上って一年生の教室のある二階へと向かう。これから一年毎にこの労苦が二倍三倍になっていくことに、かなりの先走りで暗澹たる気分をゲット。それを振り払うようにさして長くもない階段をダッシュし、上りきったところで本日の英語の宿題を思い出して結局暗澹たる気分が晴れることはなかった。
教室の前に移動すると立て付けの悪い引き戸を開ける。開けたままにしておき、後から来る人の苦労を省いてやった己の行動に小さな自己満足を得て、窓側に割り当てられた俺の席へと向かう。
机に鞄を置くや否や、二人のニヤケ顔男子が寄ってきた。近藤と斉藤である。
「やあやあ大神君。本日も同伴出勤ご苦労さん」
「丸くて見事なクレーターだったぜ」
顔だけ見ていると俺の不幸を見て楽しんでいるのか、もしくは僻んだ上での皮肉かいまいち判断が付かなかったが、クレーターの中心で周囲から突き刺さる視線に晒されている俺を見ながら「ご愁傷様!」とか叫んでいたに違いないこの二人は、どう考えても前者だろう。それを拝むために俺より早く登校するその熱意を別のところに向ければいいのに。
本気で脳細胞を死滅させてやろうかと考えたところで、これ以上この二人の脳細胞を破壊してしまったら同じ学校にいられなくなってしまうかも、と不安を感じた俺はチョップの形で上げかけた腕を下ろす。
近藤の方は眼鏡に天パというどちらかと言うとインテリな外見なのだが、入学して間もない時期にあった実力テストでそのネジの外れっぷりを遺憾なく発揮して、学年最下位というたった一人しか得られない栄誉ある称号を手にした実力者だ。しかもそれを自慢してくる辺りコイツのアホは筋金入りだろう。
一方の斉藤。コイツはそこそこ頭も良く、認めたくないものだが短髪の似合う顔はそこそこ整っている。しかしながらどうも頭のネジがちょっとずつズレているようで、通常授業開始から一週間ほど経過した頃、授業中に突然立ち上がって「そうだ、保健室行こう」と某鉄道会社のCMのニュアンスで呟き、教師の制止も聞かずに飛び出していった事件は既に全クラスに伝わるほどの伝説と化している。
そんな二人と、もう何度繰り返されたかも分からない朝のルーチンワークに律儀に答えてやるなんて愚は犯さず、俺は話を変えることにした。
「そういえば今日って朝礼あるんだよな」
「おうよ。微妙に寒く感じる体育館で小一時間棒立ちだ」
「つかあれってやる意味あんの? 朝のホームルームで事足りんじゃん」
一学生にとっては遭遇する頻度の少ない催眠生物である校長の生存を、唯一確認できる機会すら無くてもいいという二人に同意しつつ、ちょっと校長を不憫に思う。
「なんでわざわざ立ちっぱなしで長ったらしい話を聞かなきゃなんねーんだよ」
「俺はそれよか校歌斉唱のがダリー。あれの時大声で歌ってるヤツとかいるけど、ぜってー学校の用意したサクラだろ」
もし本当にそうなら、サクラにバイト代を払う前に俺たちの学費を下げろと抗議したいところだ。まあ、そんな訳ないだろうけど。
教師に聞かれたらデンジャーな話題も時間を浪費するのには最適で、気付くとホームルーム開始のチャイムが鳴っていた。
タイミングを計ったかのように前の引き戸を開けて教室内に入ってきたのは担任教師である男性の芹沢氏。このクラスが初の担任らしく、明るいクラスにしようと常に笑顔で振舞っているのだが時々昔見て憧れたのだろう熱血教師ドラマのような情熱が覗く。卓球部の顧問であるということで入学早々女子部員の少なさを嘆いていたが、それが逆に女子の不安を煽り、結局女子部員は増えていないらしい。
二ヶ月してこなれてきた感のあるクラス委員の生徒が「きりーつ、れーい、ちゃくせーき」と脱力した号令を掛けるとダルそうに従うのが今の高校生のトレンドだ。
「ええー、今日は朝礼がありまーす。朝のホームルームが終わったら体育館に移動してくださーい」
それから本日の事務連絡を済ませ、早々にホームルームを切り上げた芹沢氏は一足先に教室を出ていった。残された生徒はぞろぞろと立ち上がって、先に蟻の熊野参りに参列している他クラスの生徒に混じりながらのんびりした移動を開始した。
体育館に到着してから何故か暗めにしてある照明の下でクラスの列を為しながら、ぶつぶつ文句を垂れているのは近藤斉藤の友人二人。ストレス発散に付き合ってやる義理もない俺は馬の耳に大祓祝詞状態で聞き流していると、やがて壇上にスダレ禿げのおっさんが登場し本日の催眠集会が始まった。
校長は「中間試験は全体的に不甲斐ない成績だった」とか「下校中に近頃再開発されている駅前への立ち寄りが目立つ」とか、催眠電波にやられてうつらうつらしている高校生たちには大した効果も望めない御小言を重ね、特に興味もない俺としては話半分に聞いていると、そのうち館内が拍手に包まれたので同じように手を叩く。
続いて始まった表彰も、当事者でも何でもない俺は力の籠っていない拍手を繰り返す。全ての表彰者を全校生徒の前で晒し者にしたところで予定は全て消化できたようで、ようやっと催眠集会はお開きとなった。
またもや始まった蟻の熊野参り……いや、蟻だっていつも熊野に行ってたら詰まらないだろうから今回は吉野参りにしよう。気を取り直して、蟻の吉野参りに加わりながら己の所属するクラスへの長くもない道のりをたっぷり時間を掛けて移動する。
この後の授業が短縮されることを願ってさ。かく言う俺も英語の授業が潰れればいいなーなんて考えていたりする。英語はどうも苦手なのだ。
とか言っていたところで、英語の宿題をまだ終わらせていなかったことに思い至った。朝のホームルーム前に誰かに見せてもらえば良かったのだが、近藤斉藤に二人に惰性で付き合ってしまったため、すっぽり頭から抜けていた。
教室帰ったら誰に見せてもらうか計画を練る。思索に没頭していたせいかもしれないがさすがに遅すぎる前を歩く男子のアキレス腱にトーキックをかましてしまったのは許してほしい。
クラスの気前いい男子に頼み込んでどうにか英語の宿題を写させてもらった結果、今日の学校生活も平穏無事に過ぎていった。
今週の教室掃除当番になっている俺の班にはサボタージュするようなメンバーもおらず、ダルダルながらもすんなりと終わらせることができた。班員たちは皆部活があると言って掃除が終わるや否や教室から脱兎の如く飛び出していったが、花の帰宅部である俺は教室の戸締りを買って出て鍵を担任に返すと、後は帰るのみだ。
担任芹沢の言葉で女子部員が増えると踏んだ近藤斉藤の二人はまんまと卓球部に入部し、その変わらぬ女子の少なさを嘆いていることだろう。今頃は向かい合って、やけっぱちに「サァ―!」とか叫びながら王子サーブの練習でもしているに違いない。
下駄箱で靴を履き替え、そこかしこに皹の見える校舎から外界へと踏み出した――
――ところで。
「――――!」
本日の天気予報をチェックしてこなかったことを後悔した。
傘を持っていない時に限って雨に降られ、持っていると逆に降らない。それはこの世に生きる全ての人が味わったことのある不条理システムの一つだろう。俺はそんな神様の御戯れに嵌ってあげるお人好しではないので、常に折り畳み傘を携帯している。
しかし、今日の天気は折り畳み傘でどうこう出来るものではなかった。
「……うぅ…………っ……」
脳内で気象庁への質問メールを作成。文面は『晴れ時々女学生という天気記号はどう表現するのか』とでもしよう。迷惑メールだと即座に削除されるだろうが、でも目の前で起こった現象はそうとしか言い表せないのだ。
つまるところ、俺は混乱していた。
俺は今さっき昇降口から外に出たところだった。早いとこ静流さんの笑顔を拝みたいと逸る気持ちを抑えずに早歩きで歩き出そうとして、しかしそれは叶わず、どうしたことか今の俺は、上から降ってきた女子学生を抱きかかえている。
突然上階から聞こえてきた悲鳴にそちらを見てみれば、俺と激突コースで重力に身を任せていた少女が一人。咄嗟にかわさなかっただけ俺にしては上出来だったと思う。
しかし、どうすれないいのだろう、これから。とりあえず立たせて服の埃を払ってやるのがいいのか? このまま抱きかかえていればいいのか?
――それとも、降ってきた理由を尋ねればいいのか?
こんな時にも優柔不断を発揮する俺のチキンハートを今回ばかりは恨めしく思っていると、しかし抱きかかえた少女の方からアクションがあった。
瞑っていた瞼が開いたのだ。
「…………あ、あれ…………? ……どうし、て……生き……て……」
もしかして今の自由落下は俺への殺意の表れ? なんて洒落にならないボケを脳内で即否定し、おちゃれけていられる雰囲気ではないことを再確認して気を引き締めた。
少女の瞳は焦点が定まっていないように虚ろで、ただただ唖然や呆然と言った言葉が似合う表情でブツブツ呟いていた。
「無事、だからだろ?」
話しかけたところでようやく自分が誰かの腕の中にいることに気付いたらしい。それから驚愕に目を見開くと次いで――
――その開いた瞳がぼやけるほどの涙が、頬を濡らし始めた。
「な、何でっ…………どうして、私は生きてるの! ……どうして死んでないの!」
「お、おい! 落ち着け!」
聞く耳など持っていないのか、自分を抱きかかえている腕を振りほどくようにがむしゃらに両の腕を振り回しそうとする。
「…………っ!」
相変わらずどうすればいいのか分からない俺だが、この場で取れる行動は一つしかなかった。ただ、抱きかかえた腕に力を込める。その少女を落ち着かせるように。
腕を動かせなくなった少女は観念すると俺の胸にその握りこぶしを当ててきた。叩こうとしているのだろうが、痛みを与えられるような力など一欠片も籠ってはいなかった。
「どうして、どうしてぇ………ぅひっ…、どうして私は死んでないの……? どうして向こうに行けないの? どうしてあの子は死んでまで寂しい思いをしなくちゃいけないのよ……!」
嗚咽交じりに漏らすのは、きっと俺の想像よりもずっと重い言葉。
「あの子はずっと苦しんでたのに! それでも私たちに心配掛けないように気丈に振舞って! 私はそんなあの子の優しさを何も分からないまま平気で笑顔を返してた! あの子はその裏でずっと一人ぼっちだったのに!」
後悔や憎悪、他にも多くのマイナスの感情がごちゃ混ぜになって溢れ出し、少女は空知らぬ雨を流す。
「私は、傍に行ってあげることも出来ない……!」
……ここまで聞けば俺にも大体分かる。
あの子というのがどの程度の関係の人間なのかは想像するしかないが、かなり近しい人間なのは間違いない。弟や妹あたりが妥当か。そしてその弟なり妹が自殺したのだろう。
この暗い世の中だ。ニュース番組をつけっ放しにしていれば暗いニュースなんて余るほど出てくる。その殆どは最低限の情報を事務的に伝えるのみで、すぐに人々の記憶から消えていく運命だ。また、この世にはそんな事務的な連絡にさえならない、近所のおばさんたちの暇つぶしの話題となって消えていくだけの小さなニュースも数多転がっている。この少女もそういった小さなニュースの当事者なのだ。無責任に話すおばさんの言葉で傷付いていた、そんなニュースの当事者。
自殺の原因なんて今の世には溢れすぎていて分からないが、彼女はそこに自分の責任を見出し、同じ道を辿ることを選んだ。
あの子の生前の苦しみを思い、死んだ時の痛みを思い、そして死後の寂しさを思い、彼女はあの子に寄り添おうとしたのだ。
「……その子も、あんたと一緒で優しかったんだろうな」
俺は彼女を胸に抱いたまま呟く。
彼女の行動、それ以前にあの子の行動は、きっと人間の倫理に反するものだったろう。常識人たちなら揃ってこう言うはずだ。
『親から貰った命を自分から捨てるなんて、道理に反する』
『死んで苦しみから逃げているだけだろう』
そこで常識人に問うてみたい。
――だったらアンタは死ねるのか。誰かのために死のうとできるのか。
落ちてきた際の勢いからして一階とか二階とかから飛び降りたんじゃない。恐らくは屋上から。その時、少女はこれから己がぶつかるであろうコンクリートの舗装を目にしたはずで、どれだけ痛いんだろう、死ぬのってどれだけ痛いんだろう、と無機質な地面を見て少なからず考えたはずだ。その時の恐怖は死のうとしたことのない人間には分からないだろう。
人というのは生物だ。常識人の人たちが言うように、自らの命を粗末にせず、脈々と次代に命を続けていくべき生き物だ。だが、生きているからこそ人は『死』に恐怖する。己の生命を停止させる『死』に先天的な恐怖を抱く。
この少女は、あの子への想いでその恐怖を捻じ伏せたのだ。これを優しさと言わずしてなんと言う。
「……そうだなー」
重い空気が支配しているこの場から上空を見上げてみれば、これでもかというくらいに透き通った真っ青な空。その明るさ、その広大さ、目にして思い出すのは中三の夏、周りの皆が高校受験の準備を始めた時期のことだった。
両親が揃って死んだ時、俺は本気で後を追おうとした。
唐櫃に収まった真っ白い顔の両親を見て何を考えたかなんて覚えていない。でもその後に、山道を登って崖から飛び降りようとしたことははっきりと憶えている。
なぜなら、俺はそこで恐怖に打ち勝てなかったからだ。
崖の縁に立って自分が激突して死ぬはずのグレーの岩肌を見た。大き目のごつごつとした岩が幾つも転がっており、それに自分は肌を破られ血をしぶかせ内蔵を曝け出し、そして死ぬのだと、そう考えたら、全身が総毛だってそのまま固まってしまった。その映像は今でも時々脳裏にフラッシュバックするくらいに強く俺の頭に焼き付けられている。
そこにやってきたのが、俺の両親とも旧知の仲だった葛城夫妻。俺の様子がおかしかったからと付いてきており、崖っぷちで固まっている俺を抱きしめ「水分神社においで」と言ってくれたから、今俺はこうして生きている。
すぐに他のコミュニティに入っていけるだけの気持ちの整理はつかず、さんざん心配してくれた気のいい仲間たちもいたため、中学だけは地元の方で卒業したいと申し出て、おじさんはそれを笑顔で了承してくれた。おばさんなどは時々短くない距離を苦にもせずにやって来てはご飯を作ってくれたりもして、本当にもう頭が上がらない。
もしかしたら、追い詰められた状態で誰かに手を差し伸べてもらった人は、逆に救われなかった人に対して何か言う権利は無いのかも知れない。そもそもが相手に対しての冒涜に当たる可能性だってある。
でも、ここで言わなかったら、俺は後悔する気がする。
自殺しようとした彼女を擁護した手前、彼女の行動を否定することなどないが、ここまで関わった俺個人の感情として彼女には生きてもらいたい。
そして、今の俺に出来る事が一つある。というか、俺の頭では一つしか思いつかない。
「日本の天国って、どうなってるんだろうな」
あの子が、もう寂しくないと思ってもらえればいいのだ。
彼女の悲しみを拭うことはできないかもしれないが、そうすれば少なくとも自殺をしようとした動機はなくなる。
それに、俺は今まで二つの神社から御利益を頂いていたのだ。三輪神社と水分神社、そろそろ片方の御利益を別の人に分けてもいいだろう。ほら、複数の神社で同じ内容を祈願すると神様同士が喧嘩して御利益がなくなるって言うだろ。俺の場合、水と酒の神様が幸運にも意気投合して喧嘩しなかっただけで。
胸元の優しい彼女に目を移してみれば、いきなり語りかけてきた俺をポカンと見つめている。泣き腫らした跡でその目元は赤く、三輪神社出身の俺としては『因幡の素兎』を連想してしまう。反射的に頭を撫でてしまった自分に苦笑し、俺は恐れ多くも大国主神を演じることにした。
泣き叫ぶ素兎を救った大国主神を。
「本当に天鈿女命は素っ裸のまま桶の上で踊ってんのかな」
できるだけ明るく。それを己に命じていたが、実際に想像してたら本当に面白くなってきた。何やってんだ、神様。
いきなり意味の分からないことを喋り始めた俺をきょとんと見つめる彼女の頭をもう一度撫でる。この楽しさ、あの子の向かった場所がこんなにも楽しいところなんだと伝わることを願って。
「朝には常世の長鳴鳥が鳴いて、昼間は天照大神が世界を明るく照らして、夜には月読尊が仄かな月明かりを注いで、飯時には豊受大神の作った美味い飯を食って、その時に大物主神の醸造した酒なんかも飲んで、木花之開耶姫と一緒に富士山の花見をして、でも時々素戔嗚尊が大暴れしたりもして、騒がしい毎日を過ごしてんだろうな」
こんなことを言ったところで、彼女が仏教徒とかクリスチャンだったら意味ないんだけども、な。でも大丈夫。ここは世界でも有数の無宗教国家である日本。きっと問題ない。
外国人からしたら結構馬鹿にされるみたいだけどな。無宗教って。
「…………ふふっ」
と少しだけ彼女の顔が綻びそうになったところで、騒ぎを聞きつけた部活の生徒などで構成された野次馬どもが集まりだしてしまった。これではおちおち話をしていられる状況ではない。
たぶん上で悲鳴を上げた女子なのだろう、一人の女性徒が先生を引き連れてやってきていた。その女生徒も半分泣いていて、俺の腕の中にいる少女の無事を確認すると周囲を憚ることなく涙を流し始めた。いい友人がいるんだな。
俺は彼女に兎少女を預けることにした。教師もいるし問題ないだろう。
何か言いたそうな目を俺に向けてきた兎少女だが、これ以上俺に伝えられることは何もない。そのままゆっくりと踵を返す。
振り返る直前、友人の胸に抱かれもう一度泣き出す少女の姿が見えたが、きっともう大丈夫だ。ポジティブにそう考える。
俺はそそくさとその場を後にした。ちょっとだけ早足で高校の敷地を出る。
ちょっとノスタルジックな気分になってもう一度青い空を見上げると、そこには白いふわふわした雲が一つだけ流れていた。止まって見えるあの雲は、これからどこへ行くんだろうか。もしかしたら神代にまで行っちゃったりするのかもな。そう思うと何だかあの雲も楽しそうに見えてくるから不思議なもんだ。
ふと体感温度が上昇してきたことに気付くと案の定、後方から小走りに俺を追いかけてきていた一人の少女が隣に並んだ。もちろん日向だ。
……その胡乱な目はなんだ。
「何したの?」
いきなり疑ってきやがった。こいつの中で俺の評価はどうなっているんだろうかね。きっとヒエラルキーの最底辺、食物連鎖でいうと植物プランクトンとかなんだろうな。
「何もしてねーよ」
「でも泣いてたじゃない」
「だからそれは俺のせ――、ん? もしかして俺のせいなのか? で、でも! ちゃんとあの場で解決したはずだ」
俺は歩くスピードを速める。しかしそれにも付いてくる日向は相変わらず突然やって来た訪問販売員を見るような目付きだったので、それからは終始そっぽを向いていた。
確かに解決した……と、思う。そうでなければ彼女はもう一度自殺を図ってしまうのかもしれないが、俺にはそれを非難する資格はない。残念だが、ただ受け止めるだけだ。
葬式が神式だったら手伝えるんだけどな…………って、何を不吉なことを。大丈夫だ。そう信じよう。こうなったら明日も腰を据えて登校するだけだ。
でも一応、帰ったら神楽でも踊ろうか。
翌日。
やはり通常通りに日向ゾーンの餌食となって、針の筵の中での移動を余儀なくされたがしかし、今日の俺はそれすら瑣末な問題だと感じられるほどに心臓がバックバックしている。やはり昨日のあの出来事の後だ。当事者としては緊張してしまうのも無理はないと自己弁護。
教室に入ってみると、やはり話題はそれで持ち切りだった。あれだけ野次馬がいたんだから当然の結果だが、彼女の心情を考えるとやりきれない。
真っ先によってきたのは近藤と斉藤の二人だ。
「なあなあ聞いたか。昨日うちの学校の女子が飛び降り自殺しようとしたんだってよ。未遂だったらしいけどさ」
「下にいた男子が受け止めたらしいぞ。あと、その事で今日の放課後に保護者会が開かれるとかって噂だ」
その男子であるところの俺としてはあのまま未遂で終わってくれたことに安堵した。
「その人も無事だったんだろ? だったらいいじゃん。これ以上話題にするのもどうかと思うね」
「そりゃそうだけどさ…………、なんかちょっと、やばくね?」
きっと一般人の感覚ではこの感想が当たり前なのかもしれないが、やはり少し腹立たしい。その無責任に面白おかしく口にした言葉で相手がどれだけ傷付くのか、もうちょっと考えてくれ。
その時――
バスンッ! とデカイ音を立てて教室のドアが開かれた。ドアを開けた本人はそんな音を立てるつもりは無かったようで、いきなりクラス中の目を図らずも集めてしまったことに驚き、霞網に捕らわれた小鳥のように視線の網に絡まったまま身動きを止めると俯いてしまった。
さらに――
教室の一部でヒソヒソ話が始まった。それはドアを開けた少女を見ながら開始されたもので、どうやら昨日の野次馬がこのクラスにもいたらしい。時々俺の方を見ているのだから確定的だろう。
ドアの向こうに立っていたのは、昨日の少女だった。
少女は明らかに自分を見ていると分かるヒソヒソ話に表情を無くし、顔面蒼白になりながらも萎縮してしまったようでそこから動けずにいる。
俺はヒソヒソ話グループに目を合わせるとちょっと目付きを鋭くしつつ『止めろ』の合図。それを受けて野次馬君は諸手を上げて降参のポーズを取ってくれる。話の分かるヤツで良かった。
昨日の今日だ。彼女がここにいるという事は、俺に用があったと自惚れてみてもいいだろう。急に立ち上がった俺を見て驚いている近藤斉藤の二人を後目に彼女の元へ向かう。誰かが近づいてきたことに気付いて顔を上げた彼女は、それが俺であったことに顔の緊張を少しだけ解いたがしかし、この場で話すのもどうかと思ったので俺は彼女の腕を掴むと階段の踊り場へと連行することにした。
踊り場に付くや否や、少女は俺にガバッと頭を下げてきた。それはもう凄い勢いで。
「ごめんなさい! なんだか迷惑掛けたみたいで……」
「別にいいさ」
そういえば名前も知らない彼女の姿を今初めてちゃんと見た気がする。昨日は何せ超至近距離だったし、じっくりと眺められる状況でもなかったしな。
しかしまあ……。改めて見てみると、かなり綺麗な少女だった。静流さんほどではないが長く伸ばされた黒髪はストレートで、蛍光灯の白い光を反射して煌めいている。鴇色の唇や涼しげな目元、白皙の素肌が彩る顔の造形は綺麗という表現がしっくりくるもので、日向よりも静流さんに似た雰囲気を持っているように感じた。まあ、他の女性と比べるのもどうかと思ったけど。
この学校の女子の制服では胸元のリボンの色が学年によって違っており、彼女の胸元にあるのは日向やクラスの女子でも見慣れた赤のリボン。同学年なのは間違いない。
「貴方の名前とクラス、先生に聞いたの。どうしても昨日のお礼が言いたかったから」
お礼、か。それが言えるんなら本当にもう大丈夫そうだな。
最後に確認の意味も込めて、俺は彼女に質問した。
「あの子は今、どうしてると思う?」
「…………うん。きっと、楽しくやってる」
彼女が浮かべたのは、小さな笑顔だった。
「……そっか」
それならもう何も言うことはない。俺の役目は終わった。こんな綺麗な女生徒との接点が無くなることを惜しんでいる自分がいなくもないのだが、大国主神だって因幡の素兎を救ったあとも面倒を見たわけではない。
もうすぐ朝のホームルームも始まる。後ろ髪引かれながらも俺は教室に戻るべく反転した――ところで。
背後から伸びてきた白蛇の如くしなやかな二本の腕に右腕を絡め取られた。振り返ってみると満面の笑みの彼女。どこか、太ったカエルを目の前にしたアナコンダのような。
「私、E組の稲葉縁っていうの。これからよろしくね、康司君」
「…………、……ああ」
聞きたいと思っていた名前(稲葉かよ)も聞けた。これからも接点を持つことも確約してくれた。いきなり俺のファーストネームも呼んでもらえた。しかし、今の俺がどうにも喜べなかったのは言い知れぬ不安が心の中で発生し、イメージでは鳴門の渦潮が如く俺を巻き込まんとグルグル渦を巻き始めたからだ。
一年E組。それはアイツのいるクラスだったから。
教室に戻ると今度は俺が霞網に引っ掛かって視線に包囲されたが、どんな質問にも知らぬ存ぜぬで返しているうちにクラスメイトたちは興味を失ってくれ、それでも時々背中に押し寄せる圧力には完全無視をもって対抗した。
E組から不穏な噂が流れてくることもなく、朝の噂話も昼飯時には生徒の頭から薄れ始め、放課後には教室内からは自然消滅していった。高校生の頭の中には、毎日語りつくせないだけの話題が満載なのだし、一日中暗い話題を続けるのもどうかと考えたんだろう。できればこのまま終息していくことを願う。
当番の教室掃除を超特急で終わらせ、部活に精を出す生徒にも負けない勢いで教室を後にしたのは静流さんから例の鍼治療を仰せつかっていたからだ。指定された時間にはまだ余裕があったが俺の静流さんへの依存度ゆえに静流さんの笑顔の幻影が見えてしまい、その禁断症状を取り除くためにも無意識に脚の筋肉が高駆動にギアチェンジしたらしい。
靴を履きかえる時間ももどかしく、ようやく外履きを履くとトントンとつま先で履き心地を整える。それから静流さんの待つ水分神社へと向かうために笑顔で青空の下へ突撃――しようとしたところで、またも後方から伸びてきた白蛇の如き白い腕に右腕を絡め取られた。パブロフの犬と同じ効果、つまり反復による条件反射によって俺は蛇に睨まれた蛙状態へ移行。硬くなった首の筋肉を動かして何とか背後を振り返ると、やはりそこにはアナコンダスマイルがあった。
「康司君、一緒に帰ろう?」
稲葉縁であった。
何だか昨日の今日でテンションが違いすぎる気がするのだが、それは一先ず置いておいて。歴戦の漁師が万力を持って船を手繰り寄せるような力強さで俺の腕を縛り上げているくせに、ちゃんと拒否の選択肢は用意されているのだろうか。
いや、それもどうでもいい。なぜなら目の前の彼女は、どうしたって魅力的な笑顔で、絶妙な角度に首を傾げながら、しかもちょっと上目遣いでもって俺と並んでの帰宅を所望されたのだ。これで断れる男がいたら見てみたい。俺は無理だ。
「えへへ」
という訳で、現在ツーショット真っ最中。女子と二人だけで帰宅するというのは高校生男子にしたら垂涎モノのイベントかもしれないが俺の場合は日向という前例でそんな甘いイベントが夢想である事も理解している。その通り、ここに来てまた俺のチキンハートが真価を発揮してしまった。
どうしたって俺と稲葉は今日名前を知り合ったような、さらに言うなら昨日初めて顔を合わせたような間柄なのだ。しかも完全な赤の他人である女子と一緒に帰宅するなんて初めての事かもしれない。始めは話題も豊富にあるからと調子をこいていたのが、ネタの切れた今になって帰宅の道中は居たたまれない沈黙に包まれることとなった。
隣を見てみると稲葉は笑顔なので不機嫌ではないようだが、俺のチキンハートではその沈黙に耐えられない。
既に本日の学校で起こった楽しげな話題は使い切ってしまった。それからは話題を探すためにさりげなく周囲の景色へと目を向けていたのだが視界に飛び込んでくるのは『何ちゃら副都心』みたいな触れ込みの再開発の結果誕生した似たようなモダン建築ばかりで、そんなものとっくに使っている。白い花が咲いている花水木の並木に入った瞬間に『花の話題は女子向きだっ』と即座に話題にしたのは言うまでもないだろう。
そのまま歩いていくと周囲の風景も並んだ建築物の無機的なものから樫や椎などの雑木林の有機的景観へと変化していく。もう水分神社も近いのか杉の木もちらほら見つけられるようになった。そういえば、今までこんなに通学路の周囲を見たこと無かったかも知れない。ふと林の中の姫娑羅に絡まる通草を見つけ、秋になったら収穫に来ようとかなり先取りの予定を入れた。杉林があるということは、ここはもう水分神社の土地のはずだし。
とか考えてカーブを曲がると少し先に水分神社の灰色の鳥居が見えてきた。ようやく開放されると胸を撫で下ろしてしまったのは不可抗力と思ってほしい。
そこで、何か忘れているような気がして隣の稲葉を見る。彼女は何故かちょっと驚いたような顔をしているが…………って、あっ! そこで思い出したのは俺たちが今何をしているかということだった。
そう、帰宅である。学業という本日のお勤めを終えた俺たちは、よく書類とかに書く自分の住所へと帰還しているのである。俺は話題を探すのに必死だったし、隣の稲葉は笑顔で俺についてくるので全く気にも留めなかった。つまり稲葉の家の場所など全く聞かず、俺は自分の家へと何も考えずにビシバシ向かっていたのだ。
これはさすがにマズいな。慌てて隣の稲葉に謝った。
「わ、悪い! 俺、なんも聞かずに自分の家に向かっちまって! 家どこら辺だ? 送ってくから」
送り届けて全速力で帰ってきてもアルバイトにはギリギリ間に合うかどうか、いや間に合わないといった感じだったが、この際しょうがない。俺の無神経さがそもそもの原因なのだ。甘んじて静流さんの叱責を受けよう。……悪くないかもしれない、なんてな。
しかし、当の稲葉は喋る烏でも見たような表情のまま首を横に振ってきた。
「……ううん、大丈夫」
「な、何が?」
「私の家も、この先だから」
指差したのは水分神社と同じ方向。ただ、水分神社は今歩いている道路と階段で接続されており、稲葉の示したのは道路を更に直進した先の方角だった。
一瞬俺に気を遣っているのかと思ったが、彼女の驚愕が途中まで本当に家路が同じだったことに対するものだと思い至り、俺はほっと胸を撫で下ろした。
そうして水分神社の鳥居前にたどり着く。俺がそこで立ち止まると稲葉は不思議そうに鳥居の先に続く階段を見上げた。
「ここって……」
「水分神社だ」
「神社に住んでるの?」
「ああ」
稲葉は唐突にぽんっと手を打って、
「あっ、だから日本神話に詳しかったんだね」
俺も昨日の会話を思い出す。そして、今度は俺が驚いて稲葉を見つめた。
「へえ、知ってるのか」
「そりゃあ、天照大神くらいはね」
確かに日本神話で知名度の高い神様といえば天照大神、素戔嗚尊、日本武尊がトップスリーだろうが、今ではそれすらも知らない人がいるというのに。
「……………………これは、ほん……的に……きょうしないと…………」
「ん? なんだって?」
小声での呟きだったので聞き逃してしまい、咄嗟に聞き返すが答えてくれるつもりは無いようだった。
「んーん、何でもない」
稲葉は長い黒髪を揺らしながら頭を振ると、それから俺に小さく手を振ってきた。
「それじゃあ、また明日ね」
「ん? ん、ああ、また明日」
俺が階段を上り始めた時も手を振りながら見送って、上に着いても稲葉は笑顔でこちらを見上げていた。それからもう一度小さく手を振ると己の家路へと戻る。その足取りはどこか浮ついているようにも見え、なにか楽しいことでも待っているかのようだった。
まあ、楽しいことがあるなら、それに越したことはないよな。アイツだっていつまでも暗いままじゃ鬱病になるってもんだ。
稲葉の心がいい方向に向かいつつあることを実感して、俺は境内へと目を戻した。
今日のお客さんを出迎えるためか、社務所の前では静流さんがいつもの巫女装束に身を包んで立っていた。『立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花』とはよく言うが、この人の場合は立っていようが座っていようが歩いていようが、あらゆる動作を形容するのに百花繚乱が必要だ。全く罪な人。園芸業社さん、品種改良、頑張ってください。
それはさておき、静かに待っている静流さんの笑顔を見て間に合ったようだと一安心。
「あっ、康司さん。まだお客様はみえてませんよ」
「みたいですね。俺もすぐに用意してきます」
急いで己の部屋に鞄を放ると風呂場にて簡単な禊を済ます。その時願ったのは、今度は呪詛を囁かれませんように、ということで、それから狩衣括袴に着替えると針の準備をし客間へと向かった。そして――
――呪詛を囁かれました。