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第一話

 逃げたくても逃げられない――人は誰しもが、そんな場面に出くわす事がある。そこで世の人は『ここで逃げたら僕はダメになる!』とか勇気を奮って立ち向かうのだろうが、そんな気概も何もないチキンハートの俺としてはやっぱり逃げ出したかった。

 俺の目の前には今、肌色の山が聳え立っている。と言っても標高三十センチくらいの法律的には山にも認められないような小山だが、確かにそこはこんもり盛り上がっていた。

 その正体は、妊婦さんのお腹。どうだ、逃げ出したいだろう。

 新婚さんらしい女性が座敷に敷かれた布団の上で横になり、妊娠八ヶ月くらいの結構大きくなったお腹を高校生男子であるところの俺の前で晒し、しかもその旦那さんが俺の一挙手一投足を見逃すまいと目をギラギラと血走らせ、何か疚しいことをすれば即座に絞め殺せるように、手の指を解すみたいにわきわき動かしているのだ。セオリーの根性論などでは覆せないほどの居たたまれない感覚を男性諸君は分かってくれることと思う。

 正座を始めてから大して時間も経っていないはずなのに、既に痺れてきたように感じる足の感覚を取り戻すように小さく身動ぎ。それから隣で同じく正座をしている見目麗しい女性を盗み見た。

 微動だにしない背筋はスターラップでも埋め込まれているかのように真っ直ぐで、その直立ぶりは、もうちょっと奥側に立っているこの座敷の柱である磨き丸太の方がどちらかというと傾いているように錯覚してしまうほど。

 白の襦袢に緋袴という、いわゆる巫女装束で芙蓉の顔に浮かべているのはデフォルトの笑顔。腰まで伸びた艶やかな烏の髪は半ばくらいで一つに束ねられ、僅かな透影にも煌めくそれは屋内においても輝きを失わせることなどなかった。

「それでは、治療を始めたいと思います。方法は先ほどご説明した通りですので」

 女性は正座のまま頭を下げる。そんな礼でさえいちいち雅な動作に見えてしまうから不思議なもんだ。この人だからこそ、というところか。

「それで、どちらが痛むのでしょう?」

 声が彷彿とさせるのは霊山を流れる清流。『名は体を表す』というは正しくその通りで、この女性の名前は葛城静流という。流麗かつ透き通った声で語りかけられたなら、何を言われても不安を抱く人など居はしまい。

「えー……っと、ここの辺りが……」

 それを受けて正直に答えてくれた妊婦さんはお腹の下の方を擦る。それだけで痛みに顔を顰めるのだから、よっぽどなのだろう。

「分かりました。……それじゃ、康司さん」

 静流さんに促され、いよいよ退路を絶たれたと察知した俺――ちなみに名前は大神康司――の中にあるのはポジティブな熱血理論などではなく、逃げられないならやるしかねーじゃん的なネガティブ巻き込まれ型人生観。どうせやるなら静流さんのポイントを稼がないと損だという楽観的思考を自分の中に生み出し、覚悟を決めて奥さんの盛り上がったお腹に目を落とす。一瞬、旦那さんがこちらを睨んでいるのが視界の端っこに映った気がしたが、ここでそれを認識してしまっては、せっかくのポジティブ思考も萎えてしまうという自己防衛本能が働き、脳が理解することを拒否してくれたらしい。そんなチキン脳に感謝すると同時に、俺は奥さんのお産に関して当の奥さん以上にナーバスになる旦那さんもこの世にはいらっしゃるということを、今後の教訓として頭に刻み込んだ。

 俺は横に置いてあった漆塗りの小箱を手に取る。少しだけ金粉による装飾の施された、そこそこ値の張りそうな黒い箱だ。その中に長さ別で仕舞ってある物の中から、十二センチほどのものを選んで取り出した。

 それは針。

 静流さんの視線を感じながら俺は心を落ち着けるように両目を瞑る。そしてもう一度開くと、針の先端を奥さんの示していた患部へと持っていった。

「………………!」

 奥さんが息を呑んだのが分かる。当たり前か、いきなり男が針取り出して自分に向けたら、いくら説明されてたってそりゃ怖いよな。

「大丈夫ですよ。少しちくっとしますが、それだけですから。すぐに終わります」

 俺が安心させるための言葉を言おうかどうか迷っていたところ、絶妙なタイミングで妊婦さんに声を掛ける静流さん。さすがだ、よく気が付いてくれる。全世界に三十億人以上いるだろう全ての女性を調査対象にした『奥さんにしたい女性ランキング』でもトップスリーに食い込んでくると信じて疑わないね。

 奥さんの方もこんな青二才に言われるよりも、落ち着いた雰囲気の女性に励ましてもらった方が不安は拭えるだろうしさ。何だか少し足が浮いて見える旦那さんも、静流さんにこう言われては手を出せまい。

 これで俺は集中できる。

「――禁厭の一念を通す御針」

 針の先端を近づける。そして、軽く触れさせると同時にもう一言を付け加えた。

「――当病治癒」

 瞬間、奥さんの表情が驚愕に彩られる。ま、そうだろうな。ほんの十秒ほどで治療が終わり、しかもそれで痛みがバッチリ引いたんだから。

 さっきとは違う緊張で痺れてきていた足を滑らせ、俺は静流さんに場所を空ける。

「終わりました」

「ええ、ご苦労様」

 心から労わってくれていると分かるその笑顔が見られるなら俺は水垢離だろうが護摩行だろうが、どんな苦行にだって耐えて見せましょう。例えば目の前で囁かれる呪詛に耐え抜くなんていう難行にだって。

 信じられないように患部を摩っている奥さんに、上品な所作で音もなく傍に移動した静流さんが語りかける。

「どうでしょう? 痛みは残っていませんか?」

「は、はい…………、全く……」

 胡乱な目で俺を見ていた旦那さんも未だ驚きの抜け切らない奥さんの様子を目の当たりにして、ようやく呪詛を止めてくれた。

「女性は」

 破顔したまま話し始めた静流さん。新婚夫妻もその清らかな声音に心奪われる。

「一時とはいえ、ご自身と、旦那様との愛の結晶であるお子さんの命を同時にその身に宿すのです。お子さんの身体を育み、そして奥様の体調管理もしなくてはならないのですから身体にとっては大変ですが――これは凄いことなんです」

 優しい声色に釣られるように自身も笑顔になっていく奥さん。その奥さんを助け起こしている旦那さんも、ついさっきまで呪詛を唱えていたとは思えないほどの清々とした表情を浮かべていた。そして二人は微笑み合う。

 何だかんだで俺も釣られて頬を緩め、それから静流さんの横顔に視線を移したところで不意に二つの事を悟った。

 一つは、いつもながら静流さんは凄いな、ということ。

 そしてもう一つは――

「また何かございましたら、いつでも当神社にお越しください。当神社――水分神社は、数多いる女性の味方です」

 ――男は女性の尻に敷かれる運命にある、ということだった。


 最終的には共に朗らかな笑顔になって帰っていたご夫婦を見送った後、俺は社務所の居間に戻ってきていた。

 今なら空だって飛べそうな開放感に包まれていたところで実際に重力を緩和するなんて神の御業を扱えるはずもなく、畳に五体を投げ出すことで精一杯のノビノビ感を得ていた俺。ふと近づいてきた足音の正体を首だけを捻って確かめてみれば、盆に急須と三人分の湯飲み茶碗、そして茶請けの煎餅を乗せた静流さんだった。

 緋袴の長さを嘆くのは心の中だけにしておくのが吉。

「…………ぃよっと」

 心残りを振り切るように俺が首の反動で起き上がっていると、盆を卓袱台の上に置きながら静流さんが話しかけてきた。

「いつもありがとうございますね、康司さん」

「いえいえ。こっちとしてもお役に立てたなら嬉しいです」

 こうして静流さんの、お茶を湯飲みに注ぐ淑やかな所作も拝めることですしね。その手によって淹れられた緑茶はアムリタ以上の甘露に違いないのです。

「社務所の一室を独占させてもらってますし。しかもアルバイト代としてお小遣いまで貰ってるんですから、むしろお礼を言うのは俺の方ですよ」

「でも、鍼治療ができる康司さんがここに来てくれたお陰で私たち本当に助かってるんです。水分神社は安産に御利益有りなんて言われていても、今までは御祓いしかできませんでしたから」

 神社なんですから御祓いとお祈りできれば十分だと思いますよ。

「鍼治療を始めてから別に初穂料も頂けるようになって、神社の経営もだいぶ楽になりました」

 随分と現実的な理由ですね。まあそりゃそうか、神社に住んでる人たちだって生きていかなきゃいけないんだから。

 静流さんは自分の湯飲みをゆらゆら揺らしながら、

「いくら税制で優遇されているとはいえ、康司さんが来てくれるまではやはり財政は逼迫してしましたから」

「最近じゃあ初宮参りとか氏子入りなんて話もめっきり聞かなくなってますしね、どこの神社も似たような状況でしょう」

 現代人の神社離れは今に始まったことではないとはいっても、やっぱりそれを生業にしている人たちにとったら死活問題だからな。

 俺と静流さんはやるせない溜息を吐き、それから一口熱いお茶を啜った。

 それにしても、静流さんはお茶を飲んでいるってだけでも絵になる。ほんと、大和撫子オブ大和撫子とか大和撫子オブザイヤーとかって賞があったら毎年静流さんの独壇場になりそうだ。そして俺は今、そんな人と一緒にのんびりお茶を啜っている。至福の時間。

 そこから発展させて俺が一人妄想に耽っていたところ、最後の清流四万十川の如き静流さんの御声とは違った、ゲリラ豪雨の後の最上川みたいな刺々しい声が俺の外耳道に不法侵入してきやがった。

「何よニヤニヤしちゃって。顔面筋が弛緩しきってるわよ、全く。お姉ちゃんをネタに変なこと考えてたんじゃないでしょうね?」

 コイツの名前は葛城日向。静流さんの生まれた家系からどうして誕生してしまったのか甚だ疑問な性悪かつ凶暴な生物だ。コイツに限って言えば名は体を表すというのは迷信に成り下がり、正体は日向なんて生易しいものじゃない。間違いなく真夏の直射日光、しかもそれを真っ黒なアスファルト路面の上で四方を全面ガラス張りビルに囲まれながら浴びている状態を想像してもらえれば問題ない。つまるところ、生けるヒートアイランド現象みたいな人間なのである。

 しかし、その近代都市問題に図星を指されたのも、また事実で。

「………………考えてねーよ」

「何よ? 今のみょーな間は」

 単騎パイクを携え敵陣に速攻を仕掛ける西洋騎士ように追求の目を鋭くする日向から、視線を逸らして逃げる。ついでに聴覚認識に割く脳容量もカットして、静流さんの「あらあら」という苦笑も聞かないフリをすることに決定した。

 そんな俺のチキンな行動に呆れて興味を失ったのかどうなのか、日向は嘆息を一つ挟んで俺の正面に腰を下ろした。視線はもう卓袱台の上に置かれた煎餅へと注がれている。

 仕返しの意味も込めて、今度は俺が日向をじっと観察することにした。

 いわゆる女の子座りでペタンと座っている姿は、悔しいかな静流さんと同じ血統に生まれたサラブレッドだと如実に示していた。やはりどこか静流さんに似た雰囲気を持っている顔の造形は整っているといって差し支えない。それに花を添える髪は肩まで伸ばされ、艶やかな黒にちょっとした反抗なのか少しだけブラウンが混じる。スラリと長い手足も健康的な印象を損なわない程度に白く、どう言い繕ったところでかなり目立つ美少女であることに違いなかった。

 黙っていれば男に苦労することは無いだろうが如何せん黙るってことがないので、そこら辺の事情は推して知るべし、だ。目を鋭く細めた顔に頬杖を付きながら、バリボリ音を立てて煎餅を咀嚼している目の前の少女の姿は、先ほどの攻撃的な言動とも合わせて美少女の美の部分を物の見事に打ち消している。

「そういえば康司さん」

 と微笑の静流さんが鴇色の唇を開いたのは俺が美の没落を嘆いていたその時だった。

「こちらの高校にはもう慣れましたか? そろそろ康司さんがウチに住むようになってから二ヶ月が経ちますけど」

「ええ、だいぶ。っていうかちゃんと受験して入学したんですから、どこの高校とも大差ないですよ。強いて良かったところを挙げるんなら、そこそこレベルの高い進学校なので中学からエレベーターみたいな団体さんが少ないところですかね。皆人間関係リセット状態だったので、お陰で友人も作りやすかったです」

 俺は中学卒業までを実家で暮らしていたのだが、とある理由から高校入学を機にこちらへと越してきた。それ以来、この水分神社でお世話になっている。

 あっと言う間に過ぎていった時の流れの早さに俺が郷愁の念を得ていると、それに水を差す濁流が介入してきた。

「そっか、アンタが来てからもうそんなに経つんだ」

 咥えていた煎餅を口から離し、しかし視線は煎餅から外さぬまま、

「初めてアンタがここに住むって聞いた時はどうなることかと思ったんだけど、今のところ問題行動は起こしてないわね」

「……どういう意味だ」

「いつか破廉恥な行為に及ぶんじゃないかっていう年頃の女子当然の懸念よ。でもまだ完全には信用できないわ。さっきもお姉ちゃんで妄想してたし」

 確かに妄想は膨らませたが、破廉恥な行為なんてするかボケ。こんな神の御許で。しかもここは女性の味方水分神社。そんな行為に及んだらどんな天罰が下るか分かったもんじゃない。別に水分神社じゃなかったら問題ないとかそういう意味ではないぞ。

 でも日向、もし良かったら日本書紀でも読んでみろ。価値観が変わるかも知れないぞ。

 しかし、それを口に出して言えないのはどういう訳だ、俺。文句も言えずに口を噤むとは、この歳で既に女子の尻に敷かれているとでもいうのか。

『思いやり』とか『配慮』って言葉が欠落しているコイツの脳ミソでは俺への罵倒が止む可能性は低い。それを諌めてくれるのはいつも静流さんで、可愛らしい仕草で人差し指を立てながら「だめですよ、日向ちゃん」という貴女の声が俺の唯一の清涼剤です。

 しかし突然、静流さんは辛そうに表情を崩して俯いてしまった。

 俺に関する話題で、この人がそんな顔をするのは一つしかない。

「……三輪神社の御当主夫妻が亡くなられてから、もう……一年ですか、それだけ経ちましたけど、……私たちが簡単に『大丈夫?』なんて訊くことは出来ません。……でも、どんな小さな事でもいいですから、私たち『家族』を頼ってくださいね」

 ……全く、日向も見習わないものかね。貞淑という形容がこれほどまでに似合う日本人女性としての最高の手本がこんな身近に居るというのに。

 ――なーんて、こんな事を考えられるくらいには。

「心配してくれてありがとうございます。でも大丈夫ですよ。ウジウジしていられる年齢なんてとうに過ぎてますし、心の整理をする時間だって結構ありました。今ではもうこの水分神社が俺のもう一つの実家で、おじさんおばさん静流さんも俺の大事な家族です」

「ちょっと」

 前方から茶色い円月輪が俺の眉間目掛けて飛来してきたが、首を捻って難なく交わす。

「両親が死んで何が何だか分からなくなってた俺に、もしおじさんとおばさんが声を掛けてくれなかったら、親の後を追おうとか馬鹿なこと考えていたかもしれません。俺が今もここにこうして生きていられるのは、おじさんおばさん静流さんのお陰です」

「ふーん」

 今度は二枚同時に襲い掛かってきたが問題ない。

「これからの俺のおじさんおばさん静流さんへの家族孝行っぷりを是非楽しみにしていてください」

「へぇーあいた」

 今度はどうやら両手指に挟めるだけ、つまり八枚の円月輪を用意していたらしいくノ一だが、脳天唐竹割りの形で具現した天誅によってその陰惨な殺戮劇は未然に防がれた。当然だな。食べ物を粗末にするべからずってことだ。

 天罰を下す際に神様が浮かべていたニッコリ満面の笑顔は、見ているこっちの身を震わせる程の恐怖を孕んでいたのは余談として付記しておく。

 しかし、人ごとのように不届き者を断罪していた俺が次なる標的として自分の額にレーザーポインターを向けられていることに気付いたのは、狙撃手が次弾を装填する作業、言ってしまえば女神様による空手チョップの予備動作が終了してからだった。

 恐怖を感じる暇すら与えない鮮やかな手腕。

 その優秀な狙撃手ならびに笑顔の女神様の名を、葛城静流という。

「康司さんも、意地悪はやめましょうね」

 二コッ☆

 バスッ。

「…………」

 ……………………もうしません。


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