ひがさぐも
”なみちゃん、ねがいごとをひとつかなえてあげるよ”
真っ赤なほっぺをしたなみちゃんは、その声に気がついて目を開けた。そして、おでこに置かれた少し重たげなタオル越しに覗き込んだ。なみちゃんの愛らしい目は、はじめ、くるくる宙を泳いで、やがてひとつの所にとどまった。とたんに、お顔がほころんでいった。
なみちゃんは、すぐにおじいちゃんだとわかった。なみちゃんの生まれるずっと前にお空に昇っていったおじいちゃん。写真しか見たことがなかったけれど、すぐにわかった。そのあったかなまなざしややさしい微笑みが、なみちゃんのお父さんとそっくりだったから。昨日お空に浮かんでいたモクモク雲のようなおひげが動いて、その中から嬉しい言葉が降ってきた。
”ひまわりをありがとう。嬉しかったよ”
おじいちゃんの手にひまわりのお花があることに気づいた。おじいちゃんのお墓へお掃除に行った時、なみちゃんがお供えしたひまわりのお花だった。おじいちゃんは、ひまわりの花が大好きで、ひまわりの種が大好物だったことをおばあちゃんから教えてもらったなみちゃんは、今年お母さんと一緒にお家のお庭でひまわりを育てた。初めてお庭で育ったひまわりは、なみちゃんの気持ちに応えて、立派に花を咲かせてくれた。なみちゃんは、その大きな大きなひまわりを、やっとおじいちゃんにプレゼントできたことが、とってもうれしかった。そして今、おじいちゃんも喜んでくれていることが分かって、なみちゃんはまたうれしくなった。
「おじいちゃん」
しばらく声を出していなかった喉が驚いて、なみちゃんは咳き込んでしまった。さっきよりももっとお顔を赤くして、懸命にお口をぎゅうっと閉じて咳をしているなみちゃんは、まんまるいリンゴのようになった。
”おじいちゃんは、風邪がうつらないから、大丈夫だよ”
なみちゃんは、おじいちゃんの言葉を聞いて、安心したように息を吐き出した。
”なみちゃん、ねがいごとをいってごらん”
おじいちゃんは、満面の笑顔で言った。おじいちゃんは、ひまわりのプレゼントがとてもうれしかった。おじいちゃんに喜んでもらえるようにと水を撒いていたなみちゃんの優しい気持ちがひまわりに宿っていて、もっとうれしかった。ひまわりの花が咲くのを楽しみに待っていたなみちゃんと同じように、おじいちゃんもなみちゃんのねがいごとをかなえてあげられる日を心待ちにしていたのだ。
”どんなねがいごとでもいいんだよ、おじいちゃんがかなえてあげよう。ほしいおもちゃはあるかい?”
「おじいちゃん…」
なみちゃんは、眠ってしまうかのように目を閉じた。しばらく静かな時間が流れてから、なみちゃんは、寝言のようにつぶやいた。
「くもに、あした、おそらに、浮かんで、おおきな、くもになりたい…」
そして、なみちゃんはそのまま眠りに落ちていった。
この清らかで静かなひとときは、今という時模様に織り込まれた金糸のよう。たとえ誰も知ることがなくとも、どこかで確かに輝き続ける。なみちゃんやおじいちゃんはもちろん、みんなを照らす光になる。夢のような不思議な出来事は、朝の気配に気がついて、急いで幻のベールをまとって、奇跡の彼方へと飛んでいった。
そうして、今度はなみちゃんのおばあちゃんの願いが叶う日が始まった。今年病気で入院したおばあちゃんは、毎年大事にしていたお墓参りを諦めていた。けれど、おばあちゃんの気持ちを知っている家族は、お医者さんに短い時間でもよいから外出ができるようお願いしていた。その日の様子を診てから決まることになっていたので、その朝までおばあちゃんは、お墓参りに行けるとは思っていなかったのだ。だから、より一層喜びが大きかったおばあちゃんは、こみあげる涙を抑えることができなかった。おばあちゃんは、急いで身支度を整えて、久しぶりのお化粧もした。でもなみちゃんが一緒に行けないことを知ると、おばあちゃんは、淋しい表情になった。
「なみちゃんは、大丈夫なの?」
「急な風邪を引いてしまって。でも、今朝は熱も下がって、もう大丈夫だよ」
なみちゃんのお父さんが答えた。
「妹に留守を頼んできたんです。さっき電話したら、よく眠っているみたい」
なみちゃんのお母さんは言った。
「そう、一緒にお参りできると良かったね…」
「そうですね。今日のために一番張り切ってたんですよ」
なみちゃんは、まだ外出許可がもらえるかわからないだいぶ前から準備をしていた。日陰のない墓地でおばあちゃんが無事にお墓参りができるようにと、いろいろと考えていたのだ。おばあちゃんには被ることのできない大きさだけど、お気に入りの麦わら帽子を準備しておいたり、ティッシュを雲の形に丸めて、軒先に吊るすと、『曇りになりますように』とお願いしていた。
墓地の入り口に着いて、車を降りたなみちゃんのお父さんとお母さんとおばあちゃんはお墓へと向かった。広い墓地には、午前中から夏の強い日差しがサンサンと降りそそいでいた。なみちゃんのお父さんの背中におんぶされたおばあちゃんの頭の上には、なみちゃんが用意していた麦わら帽子がちょこんと乗っかっていた。
歩き始めてまもなく、気持ちのよい風が吹いてきた。すると、まあるい雲が、どこからともなくやってきて、みんなの上を付いてきた。強い光を遮り、みんなを包むようにまあるい蔭を落とした。誰もが一斉に空を見上げて、お互いを見合い笑い合った。精一杯手を伸ばして日傘をさしていたなみちゃんのお母さんは、ニッコリ笑うと日傘を閉じた。なみちゃんのお父さんは、ニッコリ笑うと足取り軽くお墓への階段を上っていった。なみちゃんのおばあちゃんは、ニッコリ笑うと何度も空を見上げていた。
そうして、なみちゃんのおばあちゃんは、無事にお墓参りをすることができた。手を合わせるみんなの前で、ひまわりはうれしそうに揺れていて、頭上ではまあるい雲がどんどんと大きくなっていった。
その日、その街の天気予報士は首をかしげた。予想外の雲が少しだけ雨を降らせて去っていって、雨上がりには見事な虹がかかった。どこからどうやってその雲がやってきたのか、その後結局分からなかったそうだ。
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