おかしくなる理由
エルドリッジが回復して執務にも復帰して。
その間ずっと執務を手伝っていたオスニエルは、「大丈夫だから行っておいで」という父のひと言と共に、学園に送り出された。
実に11日ぶりである。
だが、久しぶりの学園に向かう馬車の中のオスニエルの表情は冴えない。
それは、もちろん執務に復帰したばかりの父の体調を心配している事もある。けれどもう一つ、いつもなら同じ馬車に乗っている筈の人がいないという事もあった。
そう、今日の馬車の中にいるのはオスニエルとエティエンヌ。ジュヌヴィエーヌはいない。
今日は城に残る事になったからだ。
だから当然、学園に行ってもオスニエルは教室でジュヌヴィエーヌの姿を見る事はないし、帰りも馬車で一緒にはならない。
当然と言えば当然な事だが、何故かオスニエルはその当然を認めたくない。
「・・・ルシーは我が儘すぎる」
オスニエルの口から、ぽそりと不満がついて出た。向かい側に座っていたエティエンヌが、小さく肩を竦める。
「まだ10歳ですよ」
「もう10歳だ」
オスニエルが10歳の時にはとっくに厳しい王太子教育が始まっていたし、誰からも甘えを許されなかった。
寂しいとか辛いとか、口が裂けても言わなかったし、言えなかった。
なのにルシアンは、と今日のオスニエルは思ってしまう。
1歳になる直前に母を亡くした末の弟の事はオスニエルも可愛がっていて、普段なら殊の外甘やかしているのに。
「お父さまが倒れて不安になってしまったのです。仕方ないわ」
「だからといって、ジュヌヴィエーヌを引き留めるとは」
「実の母のように懐いてますもの。甘えたかったのでしょう。年齢的に、母というより姉ではないかとは思いますけど」
そうなのだ。実母の記憶がないルシアンは、側妃として嫁いだ(ことになっている)ジュヌヴィエーヌによく懐いていて、「お義母さま、お義母さま」とひな鳥のように後をくっついて歩いている。
アデラハイムに来てすぐの頃はとりわけその傾向が強かったが、2年経った今はルシアンの寂しがりもかなり落ち着いていた。
そう、落ち着いた筈なのだが。
ここに来てその寂しがりが再発してしまった。きっかけはエルドリッジが倒れたこと。
今までずっと風邪一つなくバリバリ働いていた父親が倒れ、寝込んだことが、ルシアンをひどく不安にさせたのだ。
「ルシアンは第三王子だ、いつまでもあのようでは困る」
「お兄さまったら、いつもは率先してルシーを甘やかしてるくせに、今日は随分と厳しいのね?」
いつもと様子の違う兄を不思議に思ったのだろう。エティエンヌは体を前に傾け、オスニエルの顔を覗き込む。
だが、少しばかり後ろめたいところのあるオスニエルは、ふい、と視線を逸らしてしまった。
「・・・別に、今日だけの話ではない。そろそろあの子にも王子としてしっかり自覚が必要だと・・・そう思っただけだ」
「まあ確かにルシーは甘えん坊なところがあるけど、きっと一時的なものよ。すぐに落ち着くわ。きっと自分でも分かってると思うの。ジュジュもそう言って、笑ってた、し・・・?」
あら?とエティエンヌは頬に手を当て、首を傾げた。
何となく思い当たったのだ、オスニエルが今日に限って不機嫌な理由が。
「・・・なんだ」
「お兄さま。その、もしかして、もしかしてですけど、ジュジュと学園に来られなくて拗ねてらっしゃる・・・?」
「な!」
かあ、と一瞬でオスニエルの顔が赤く染まる。
動揺したオスニエルは、移動中だというのにガタンと勢いよく立ち上がった。
案の定、すぐにバランスを崩し、よろけた拍子にガツンとガラスに肩をぶつけ、「痛っ」と叫ぶ。
「・・・何をやってるんですか、お兄さま」
「・・・」
呆れ声のエティエンヌからじとりとした眼で見られ、オスニエルは無言で座席に座り直した。
だが、気まずいのだろう、視線は窓の外に向けられていた。
エティエンヌは口を開きかけ、だが何も言わないまま噤む事にした。
兄の気持ちはうすうす気づいていて、けれどジュヌヴィエーヌには全然気づかれていないのをエティエンヌは知っている。
そして、恋に鈍感そうなジュヌヴィエーヌが無意識に求めている人が、誰であろう事もなんとなく察してしまった。そう、先日までジュヌヴィエーヌと一緒に父を看病していた時に。
父は父でジュヌヴィエーヌを頑張って意識しないようにしているようで、だがそもそも意識しないよう頑張っている事自体、意識している証拠ではないかとエティエンヌは思う。
こうなってくると、エティエンヌとしてはどう立ち回るのが正しいか、誰を応援したらいいのか、正解がさっぱり分からない。
―――うん。
今のところ、どちらも公平に応援する事にしましょう。
そうだ、それがいいと頷く余裕がエティエンヌにあったのは、馬車が学園に到着するまでだった。
だって、学園の馬車停めには。
「・・・っ! お、おはよう、エチ! 久しぶ、り・・・っ!」
エティエンヌの心臓をおかしくさせる男が待っていたからだ。




