泣き止んでおくれ
―――未承認の書類がまだ少し残ってるんだよな。オスが来てくれてだいぶ減らせたけど。
―――トーラオが提出したレシピと研究所からの成分表に違いはないって所まで確かめて、それから何を指示したっけ。
―――この時期に他国の王族が留学希望? ただでさえ眠る間もないってのに仕事を増やさないでくれよ。
―――マルセリオ王国から書簡? どうせまたジュジュの事を根掘り葉掘り聞いてくるだけだろ。あっちの王族はどれだけ暇なんだ?
―――クッキーに使用してた数種類のハーブを料理人にも確認させたのか。それでなんだって? どれも普通に料理に使われるものばかりだが、配合が珍しいって?
―――なんだか今日は頭が重い。それにちょっとクラクラ、す・・・
『父上!』
『陛下!』
『大変だ! すぐ王宮医を呼べ!』
―――大丈夫、ちょっと寝不足、な・・・
「・・・だけ、だから」
「エルドリッジさま! お気づきになりましたか?」
「・・・へ?」
名前を呼ばれるのと同時に、ぎゅっと強く手が握られる感触がした。
エルドリッジが瞼を開くと、まず目に入ったのは仮眠用ベッドが置いてある執務室隣の控え室の見慣れた天井ではなく。
王族専用の居住棟にある自分の部屋、自分のベッドの天蓋で。
「あれ? どうして・・・」
―――さっきまで執務をしてた筈なのに。
―――それに、なんだか随分と頭がスッキリしてるような・・・
状況が今ひとつ分からず、エルドリッジが天蓋を見つめながらぼんやりと考えていると、再びぎゅっと手を握られる感覚がして。
ふとそちらに視線を向け、驚いた。それはもう、とてもとても、もの凄く驚いた。
だって。
「よかったです、お目覚めになって・・・」
だって。
「ジュ・・・ジュジュ・・・?」
だって、ジュヌヴィエーヌがポロポロポロポロ涙を流している。
「え、えっと・・・? どうしたんだ、ジュジュ。なんでそんなに泣いてるんだ? 何か嫌な事でもあったのかい?」
「・・・陛下がお倒れになったせいですよ」
扉が開くと同時に、不機嫌そうな声が聞こえた。王宮医のエルリックだ。
「エルリック・・・え? 僕のせい? うん? あれ、今なんて? 倒れた? 僕が?」
「そうですぞ。執務室でお倒れになったのを、騎士たちに経路を確保させて人払いをした上で、ここまで運んでもらったのです。そうでないと、起きてすぐにまた執務に取り掛かりそうでしたからな。全く、だから私があれほど注意したではありませんか、せめて3時間は睡眠を取ってくださいと。いつまでも若い時のように無理が通用すると思われては困ります。まあ、若くお美しい側妃陛下を娶られて気分が若返ってしまったのかもしれませんが、少しは・・・」
「ちょ! ちょっと待って、エルリック! そこで止まって!」
エルリックが、必要な情報の中にちょこちょこ要らないものをぶち込んでくる。
エルドリッジは、ベッド脇で今もエルドリッジの左手を握ったまま涙をこぼしているジュヌヴィエーヌが気になって仕方なくて、どうにかエルリックの小言を遮った。
エルドリッジは、なんとなく状況を理解した。どうやら睡眠不足がたたって執務室で倒れたらしい。確かに数日前から時々、意識が飛びそうな瞬間はあったし、それは自己管理がなっていない証拠ではあるけれど。でも、今はそんな事より。
「ジュジュ、驚かせて悪かった。どうか泣き止んでおくれ。僕は大丈夫だから」
泣いているジュヌヴィエーヌの方が問題だった。
目と鼻の頭を赤くして、綺麗な雫を目からこぼす姿は、いつもの淑女なジュヌヴィエーヌより年相応のあどけなさを感じて、なんだかとても可愛らしくて。
そして何より、そう、何よりも。
ベッドで寝着姿で横になっているエルドリッジは、ジュヌヴィエーヌの涙を拭ってやるハンカチを持っていない。
そう、彼女の涙を止めてやれないのだ。
それでもどうにかしてやりたくて、エルドリッジは体を横向きにして、空いている方の手を伸ばし、指でそっと涙を拭った。
案の定、指では大した役目を果たせなくて、隙間からどんどんとこぼれ落ちてしまう。
―――ああ、やはりこれでは駄目だな。気休め程度にも拭ってやれない。
と、エルドリッジが自分を不甲斐なく思っていると。
ジュヌヴィエーヌは大きく目を見開いて、ぴたりと急に泣き止んだ。
―――うん?
軽く首を傾げるエルドリッジの前で、ジュヌヴィエーヌはじわ、じわじわ、と顔を赤く染め上げていき。
あ、と原因に思い当たったエルドリッジが、ジュヌヴィエーヌの目元から慌てて指を離すのとほぼ同時。
「ゴホン! え~と、まずは先に栄養注射をさせて頂いてもよろしいですかな? それさえ終われば、私は暫し下がらせていただきますので」
居心地の悪そうな表情の王宮医エルリックが、鞄から太い注射を取り出してそう言った。