前編
※マインドコントロールや虐待を連想させる描写があります。不快に思われた方はすぐにブラウザバックをお願いします。
早見川七彩は、母が嫌いだ。
世界で一番嫌いだ。
いつからそう思っていたかは分からない。
けれど、もし七彩に、生後すぐからの記憶があったなら、役場に出生を届け出たその瞬間からだと答えただろう。
『ナナ、あたしの可愛い娘。あなたはいつか別の世界に行って、王子さまと結ばれるのよ』
幼い時から飽きるほどに繰り返された言葉は、最初の頃は意味も分からず、けれど音だけは覚えて、空で言える様になっていた。
ただ呪文の様に何度も何度も繰り返されたそれは、七彩を、七彩の周りを、見えない鎖で縛っていく。
七彩の食べ物も着る物も、好きな色や趣味さえ母が決めた。
理由は単純、「七彩はナナだから」。
『ナナはね、フルーツが好きなの。特に苺とマスカットが大好きで、朝食はいつもフルーツサラダ。あっちのものは少し色や形が違うから、転移した最初の頃はこっちを恋しがって泣くのよね』
そう言って毎朝出されるフルーツサラダを前に、七彩は知るか、と心の中で毒づいた。
『あっちでナナは、王太子にカツサンドを作ってとても喜ばれるの。だから作り方を覚えておかないとね』
台所に一緒に立つ時は、いつも決まってそんな理由。
『ナナ、あなたは続編のヒロインなのよ』
うっとりと、けれど決して七彩本人を見ていないその目を細め、母は言った。
続編とは、『マルセリオに咲く美しき花』の後に書かれた『アデラハイムに咲く美しき花』のことだ。
20年以上前にWeb上で公開されたというその小説は、その後数年して出版化されたらしく、七彩の母の愛読書となっている。
いつも手元近くにその2冊を置き、時間があれば読んでいる。そしてその後は決まってどこか遠くへと視線を彷徨わせるのだ。
自分の子どもを愛読書の小説と重ねる母は、出産後すぐに、子の名前を七彩と決めて書類を提出した。
七彩とは、続編のヒロインの名前だ。
15の時に異世界に転生し、そちらの世界でナナと呼ばれる少女。
だが、七彩と七彩の母は現実にはこちらの世界にいる。
なのに、彼女を娘をナナと呼ぶ。
それはもう、七彩が思い出せる限りの昔の頃から。
そう、彼女は母から一度も「七彩」と呼ばれた事がないのだ。
七彩は知っている。
母は、七彩なんか見ていない。
七彩が誰なのか。何が好きで何が嫌いで、本当のところはどんな人なのか、見ようとはしない。
だから、自分の子にこんな仕打ちが出来るのだ。
「・・・っ、最っ低・・・っ」
七彩は眼前に広がる光景に、小さく舌打ちした。
母にとって大切なのは、愛読書の様に、ある日異世界に飛んで行ってしまうヒロインのナナであって、身長がこれ以上伸びない様に食事を制限されている七彩ではない。
『ナナはすらっと細身なの。横に成長しては駄目よ。身長も170㎝で止めなくちゃ』
そう言う母自身、ハーフであるせいか173㎝という長身だ。離婚した父親は181㎝だから、母の要求は、遺伝的にも少し難ありの筈。
だけど、食事制限など瑣末な事だったと、今の七彩なら思うだろう。
正直、母のナナへの執着を甘く見ていた。
いくらなんでも諦めると思っていたのだ。15歳になって、そのまま何も起こらずに16になれば、このナナの呪縛から解放されると。
逃げるべきだった。
生まれた時から絶対的な強者として 七彩を支配してきた母に逆らうなんて、そこから逃げ出すなんて、そもそもが無理だとしても。
「・・・っ」
轟々と燃え上がる炎。
室内に充満し始めた煙を吸い込まない様に床に這った七彩は、口元を押さえ、目を瞑った。
『ナナはね、火事で煙に巻かれている時に時空を越えるの。15の秋の満月の夜だから、そろそろね』
七彩も、まさか母がそこまでするとは思わなかった。
そう、母は愛読書の通りに娘が異世界に行けるようにと、七彩を離れの一室に押し込めて火をつけたのだ。
『いってらっしゃい、ナナ。王子さまと幸せにね』
―――幸せに?
扉の向こうから聞こえた母の最後の言葉を思い出し、七彩は、小声で唸る。
「・・・っ、なれる訳、ないでしょうが・・・っ!」
その時だった。
うつ伏せで、しかも目を瞑っていた七彩の周りを取り囲む様に、光が現れたのは。




